夢の中の狂気
『いやいや。本当に参ったよ。
なんせ狸と理を間違えちゃあそれこそ、我々が亡き者として存在しなくてはなるまい。
人の怨はこれといって恐ろしいところがないが、非の打ち所がないのも事実。
だから人を中心に回るのだよ。
いや、うん。この場合、廻るという字の方が相応しいのかもしれないのだけれども。
それと似た様に。
狸はちょっかいを出すくらいだからね。
でも理は違う。
大地が三転してもおかしくはないからね。
だから、2度と間違えない様に私は、
そう、たしか創ったんだよ。
”猿”をね。
彼等はおかしくて。
まるで自分を知っているかの様に振る舞うんだ。
腹を抱えて笑ったよ。その時は。
ああ、ほんとう。たのしかったよ。
またあえるといいなぁ。』
父が残したテープはまるで意味がわからなかった。
テープには大きい文字で”遺書”と
横に小さく”でも文字書いてないから遺声って方がいいかな”
と可愛げな文字で書かれていた。
実に父らしい遺産だ。
父の話は毎回の様に意味不明だった。でも今回のテープに残していった内容はその何倍も意味不明だった。
別に意味のないことをただ淡々と述べているわけではない。
ちゃんと隠喩を解けば、父の真意が見えてくる。
だけど、今回はどうにも無理そうだ。
そして、父が死に際に言ったあの言葉。
『幸祐里。なにより罪深いのは神への情だ。悪い事ではない。ただ…な。』
あの言葉が気がかりで仕方がない。
父は続きに何を言おうとしたのだろう。
私を一人取り残して、何を思ったのだろう。
私は一体、誰を頼ればいいの。
助けてよ。お父さん。
ゴーン。
低くて鈍い鐘の音がした気がして、目を覚ました。
気づけば、裸足のまま通路のど真ん中を塞いでいた。見覚えのない場所で。
商店街だった形跡はある。
みんなシャッターを落としっぱなしにしているけど、この規模ならずっと前まではとても賑わっていたのだろう。
残っている看板は手書き感満載のレトロな感じで、店の名前も70年代あたりに流行ったであろう言葉ばかりだ。
なんでこんなところにいるんだろう。
率直な疑問も湧いたけど、たぶん考えてもわからない。絶対わからないから、とりあえず辺りを探索してみることにした。
すぐにシャッターが降ろされていないところを見つけた。
だるま百貨店と言う名の店。
好奇心、興味、怖いもの見たさ。
それらの感情に身を任せながら、そこの中へと入った。
「えっ」
中は質素な雑貨がたくさん置いてあった。
奥に、こげ茶のカウンターがどっしりと構えて、その奥にもさらに部屋がありそうな。
でもその情報よりも早く、私の目にとまったのは、
一枚の家族写真。
私の家族写真が商品の列に並んでいる。
やたらとオカルトチックな額縁に入れられながら、一際嫌な何かを放っている。
その家族写真は、父の顔、母の顔、姉の顔、弟の顔にそれぞれ赤いペンで塗りつぶされた跡があった。
とくに父の顔に塗られたものは鮮やかな色をしていた。
まるでつい最近書かれた様な。
家族それぞれに、乱雑な赤印はあったけど、私の顔にはその赤の印は無かった。
ふと家族写真に目を離すと、鍵穴が8つ、
それと太いチェーンが2つ、南京錠が5個ついた金庫のようなものを見つけた。
不思議と足がそれに向かっていった。
その金庫のようなものは、なぜか全ての鍵が解かれていた。
けれど、金庫を開けたと思われる鍵や、チェーンを壊せそうなものはどこにも見当たらなかった。
泥棒でも入ったのかと思ったが、でも金庫の
中には、まだ何かあるみたいだった。
好奇心と興味、普段は確実に取らない行動を、この非現実的な空間がそうさせる。
私は迷わず、金庫の中身を取り出した。
高級そうな木でできた縦長の箱だった。
「…魔申鳳鬼?」
箱にはそう書いてある札があった。
私には止められない何かが衝動的に湧き上がった。
迷わずその箱を開けた。
ずっ…ぷ。
「っ…⁉︎」
声にならない声が出た。
黒い。暗い。
そんなものじゃ表現が足りない。
漆黒よりも黒い。
そんな闇が私を包んだ。
私から出てきた。
舞い上がった。炎のように。
沈んだ。鉄のように。
笑い声、唸り声、叫び声。
憎悪。
気持ちが悪い。
闇が。
私を。
私が。
闇を。
侵されていく。
私が闇に食べられて行く。
ゲロの味がする。
身体が焼かれたように痛い。
寒い。この上なく。
でも。
不思議と。
死ぬとは思わなかった。
「あっ…。」
小さなかすれ声が聞こえた。
私の声だ。
前には照明が横たわっている。
横を見ると机が壁に吸い付いている。
夢だ。
私は夢から覚めた。
たった今。悪夢から。
起き上がると、いつも通りの光景。
いつも通りの夜。
いつも通りの嫌な夜。
安堵と落胆のため息。
私はもう一度寝た。
悪夢をもう二度と見ないように、ぐっすりと寝た。
ピッピバンッ。
目覚ましかアラームが1秒も鳴らぬ間に止まった。
アラームを止めるスイッチの上には私の手がだらんと置いてあった。
目覚めは良かった。
だけど気分は良く無かった。
しばらくの沈黙。この時間は私の心を整える時間だ。只々、黙り込むだけだ。ひたすら憂鬱な顔つきで。
「朝からパッとしねェなァ。」
聞き覚えのない中年の声が聞こえた。
この家には私一人しかいない。
他人の声が聞こえるのはあり得ないことだ。
私は恐怖で振り返った。
そこには何もいなかった。
「空耳…か…。」
いつもと同じ日常がまた始まる。
何も変わらない日常が。
周りが私を見ながら笑い、蔑み、小言を言う。
いつも通りだ。
何も変わりはない。
「ねぇ。深戸さん。」
名前を呼ばれたので振り返った。
振り返らねばならなかった。
「深戸さんってさ。なんで生きてるの?死んでても別に変わんないじゃん。」
けらけらと周りが笑う。
彼ら彼女らが私にこの様な事を言う理由は分かってる。
私が正義を貫いた。
その結果、悪者になった。
それだけの話。
今日も学校が終わった。
今日はもう何もしたくない。
寝よう。
そうしよう。
でないと、心が砕けてしまいそうだ。
そうして私が布団に潜った瞬間
「くっだらね。」
また朝聞こえたあの声が聞こえた。
「俺を解放した救世主様はこんなにも弱っちい奴なのかよ。特に心。今にも倒れそうな…折れそうな…曲がりくねった針金の様な…」
気のせいじゃない。確かに聞こえる。
振り返る。だが何もいない。
「…誰?」
恐る恐る空気に向かって話しかけた。
すると返答はすぐに来た。
「俺?俺は…あの箱に入ってた猿だ。ほら。お前があけたあの箱。
あっ…あーそうだな。お前は確か箱を開けた直後同化したもんな。俺のこと覚えてなくて当然か。」
幻聴も疑った。だけどそれ以上に、非現実的な体験に少しだけ高揚していた。
「あのっ…シャッター街の夢の…」
「夢?バカ言え。ありゃ夢じゃなくて現実だよ。
紛れもなく、お前が実際に体験した出来事だ。」
混乱と興奮が止まらずに、興味と衝動に任せ、さらに質問した。
「なっなんで私はあそこに行ったの?あの箱は何?あそこはどこ?それと…」
「喋れんじゃねーか。なんで学び舎で一言もしゃべんねえんだ?」
唐突の予期せぬ質問に言葉を失った。
私は視点を安定させないまま、誰かもわからぬ何かに話した。
「私はね。正義感が強かった。だから自分がダメだと思うことはとことんダメだと言ったの。それが正義だと信じてたから。でも結局それがクラスのみんなからウザがられていって、それで…。」
言葉が出てこない。沈黙した。
すると自称箱に入っていた猿なる声が次に語り出した。
「だからお前黙ってたのか。
くぁーっ!やっぱくだらねー。
お前の周りの奴が怖いのか。
お前が従わせようとした奴らが怖いのか。
臆病。低脳。ゴミクズだな。」
ボロクソ言われた。
誰かも知らない奴に罵声を浴びせられた。
だがどこか正論のような気がして、私は学校の時の私のように黙り込んだ。
それを気にする様子もなく、何かは続けた。
「そういやお前、どこ向いてんだ?人と話すときは目と目を合わせて話すってガキん頃に習わなかったか?まあ、俺人じゃねえけど。」
「だって…見えないし。」
「…ははーん。お前さてはまだ俺を幻覚か何かだと心のどっかで思ってんな?」
「…そりゃまあ。」
「その疑い捨ててみろ。騙されたと思って
。」
「そんな簡単にできない。」
できるわけない。
「自己暗示だ。こう、ぶつぶつと自分に言い聞かせるんだ。幻覚じゃないって。」
私は愚直に何かの言う事を聞いた。
幻覚じゃない。幻覚じゃない。幻覚じゃない。幻覚じゃない。幻覚じゃない。
……。
「見えた?」
…っ!
目の前に巨大な猿の顔があった。
でも、猿じゃない。
でも猿のような。
まるで妖怪のような。
そんな顔面が私の視界を埋め尽くしていた。
猿は私のリアクションから何か察したかのように目を笑わせた。
「よぉ。深戸 幸祐里。俺の名前は獄狂。呼びづらかったら普通に猿でもいいぞ。」
常に上がりきった口角を一切動かさず、私の脳内に直接語りかけるように、猿は簡潔に自己紹介した。
私は未だ、あり得ない状況に絶句している。
腰を抜かし、目を大きくひん剥いて、口は拳が入りそうなくらい大きく開いたままだった。