八
生協の脇を抜けて、食堂に足を踏み入れると、喧噪にまみれて美しく青きドナウが耳へと流れこんできた。
優雅な昼下がりを演出するはずだったホルンの旋律も、学生たちの笑い声に濁って近所の長瀬川さながらだった。
僕は三人で腰をかけられそうな、出来るだけ窓際の四人席を狙ってそこに陣取った。
窓から覗く桜の木が、春を告げるようにその枝々へ微かな色を散りばめはじめている。
少し遅れて、高原さんが食堂に入ってくるのが遠目に見えた。きょろきょろと僕の姿を探している。
見つけられなくてスマホを取り出しかけた彼女に向かって手を振る。幸いすぐに気付いてもらえたようで、こちらへ小走りで寄ってくる。
「お待たせ」
春の暖かい日差しに勝るとも劣らない麗らかな笑顔と、優しい声を伴って彼女はあらわれた。
「僕も今来た所だよ、高原さん」
「部長はまだ来てないの?」
「うん、まだだね」
僕の初依頼が無事に終了したことを労って、ささやかなお祝いがてらに三人で昼食を食べる約束をしていた。
珍しく部長のおごりということだったが、当の本人はまだ来ていない。いつものことだから、とふたりでけらけらと笑う。
「今日朝抜いちゃったからなぁ。お腹空いちゃって……」
「同じく、僕もだよ」
もう立っていられないとばかりに僕の隣に腰をかけた。いつも部長ひとりと向かい合うように座ることが多いから、習慣でそうしたのだろう。
部長が不在のおかげで、仲睦まじいカップルが隣り合わせて座っているようにも思える。
泉の広場での優しい時間が、今もまだ継続しているようで幸せだった。あの白昼夢だけはさておいて。
「あ、借りてた本返すね」
テーブルの上のバッグから『民俗学への招待』を取り出して僕に手渡す。
背表紙がまだ温かい。さっきまで読んでいたのだろうか。
「もう読んだんだ」
「うん、今さっきね。凄く面白かった。特に福の神の仙台四郎の件が面白かった。あ、これって山下清だ、って」
「そうだね、あのドラマがそれを元ネタに制作されたのかどうかはともかく、知的障害を持ち、山下清が来訪することでみんなに福を与えるというプロットはまさに仙台四郎と同じだ」
仙台四郎とは宮城県仙台市に実在した福の神だ。七歳の時に川へ転落したことで呼吸停止に陥り、知的障害を患った。言葉をほとんど話すことができなかったが、市内を徘徊し彼が飲み食いをした店は繁盛するとされ福の神としてもてなされた。死後も商売繁盛を願って市内の店では彼の写真が飾られたりもしていた。彼のエピソードは角川ソフィア文庫から刊行された水木しげる氏の『神秘家列伝』にも収録されている。
「じゃあ次は……」
「やあ、その節はどうも」
部長ではない誰かからぶしつけに声をかけられた。
「あなたは……山本さん!?」
思わず部長から聞いた名前が口から飛び出した。
「ああ、あの女から僕のこと聞いたんだ」
泉の広場で会った時は、彼から自己紹介を受けていない。僕たちが名前を知っているのは不自然なことだけど、相手も僕たちの名前を教えてもいないのに知っていたからお互い様だろう。
「まさか、こんな所で会うなんて……」
とはいえ、在校生である彼と大学内で会うのは何もおかしい話ではない。
「僕はずっと君たちを見ていたけどね」
「それってどういう意味ですか?」
君たちと言った以上、高原さんだけを見ていたわけではない、ということだろうか。
そこまで威嚇する必要もなかったが、言葉の綾である可能性を考えて一応睨んでおいた。
「今日もあの女はいないようだね。なら、少し依頼のお礼も兼ねて、お話をさせてもらおうか」
彼は断りも入れず、向かいの席に座った。
僕たちふたりが片側を占領していたせいで、高原さんの隣には座れない。ざまあみろ。
さらに部長が後からくることも、彼にはあえて言わないでおいた。
「調査報告のメール読ませてもらったよ。素晴らしかった。やはりあの泉の広場は、死者と出会うためにはもってこいの場所だということがわかったよ」
「曲解しないでください。そんな結論付けをした覚えはありませんけど……」
高原さんが食ってかかった。
僕たちは真実を露わにすることで、泉の広場に纏わる誤解を解くことが目的だった。
出来ればこれ以上あの場所について波風を立てて欲しくない。鎮魂と畏怖は違うのだ。
そこをねじ曲げて解釈されてしまうと、自分のやったことが間違いであったのではないかと些か自信がなくなってくる。
あの調査報告を読んで、他にもそう思う人間がいるのではないかと。
「そもそも山本さんは、結論を知ってて依頼を送ったんじゃないんですか?」
「知ってた、と言ったら語弊があるね。僕は元SSIだ。同じように依頼もいくつかこなしたことがある。だけど松永くん、僕は君のような民俗学部における新進気鋭のエースではないんだ。学部も経済学部だしね。あのふたつの依頼についてはもちろん僕なりにも調査をさせてもらった。でもそれが正解であるかどうか、自信は持てなかった。だがどうだ、君は僕の依頼において、僕と全く同じ結論を導き出した。あの女がヒントという形で邪魔をしたせいもあるけどね」
「どうして泉の広場のことを?」
「だから言ったじゃないか。死者と会うためだって」
「誰か、会いたい人がいるんですか?」
彼は泉の広場の喫茶店で、大切な人を失ったことがあるとも捉えられる発言をした。きっといるのだろうけど、彼の口からは聞けないだろう。
「死んだおばあちゃんに会いたいんや。山本、そうやろ?」
と思ったのも束の間、その答えは全く別の第三者から聞かされることになった。
遅れてきた部長が山本さんの隣にどかっと座った。
「し、獅子堂先輩!? どうしてここに!」
「どうしてもへったくれもあるかい。学内でこいつらがおるってことは、うちも後から来る可能性があることくらい考えつかんかったんか」
部長の登場にうろたえる山本さん。地獄に仏とはまさにこのことだ。
「で、おばあちゃんに会いたいってどういうことです?」
僕はわざと笑いを堪えるような仕草で部長の言葉を復唱した。
「おい! 笑うな!」
「こいつな、根っからのおばあちゃん子なんや。まだサークルにおった時も口を開けば、おばあちゃんがおばあちゃんが言うとった」
「先輩! それは言わない約束だって……」
「どうせいずれはわかることやろ。お前、こいつらにちょっかいかけるってことは、まだサークルに未練があるんか?」
「こ、この僕が未練? そんなわけが……」
取り繕うように眼鏡を持ち上げる山本さん。その奥の瞳は焦点があっていなかった。
「うちは別にお前が戻ってきたい言うんやったら構へんで。来る者拒まず、去る者追わず、が我がサークルのスタンスや」
「戻りたいなんて考えたこともありません!」
「でもいまだに死んだおばあちゃんと会うために色々調べまわっとんのやろ? あ、こないだ同じゼミの子に聞いたで、お前こないだ恐山まで行っておばあちゃんの霊を口寄せしてもらったらしいな。はっはっは、あんなん全部でっち上げやで。まあお前の気がそれで済むんなら別に止めはせんけどな」
部長も山本さんを煽るためにわざと言っているのだろう。
本気で言っているのなら、イタコという文化を一言にでっち上げと切り捨ててしまうのは民俗学者として問題発言になってしまう。
「おばあちゃんに会いたいって思うことの、何が悪いんですか!」
開き直って部長に食ってかかる山本さん。その時点ですでに部長の手のひらの上だった。
「別に悪いなんて言うてへん。でもお前は一回、霊なんか存在せえへんって結論付けてうちのサークル辞めてったんちゃうんか?」
「まあ、それはそうですが……」
「でもいまだになんや色々調べまわっとる」
「この世にオカルトなんて存在しないと証明するためです!」
「せやったら、うちに戻って調べた方が効率ええで? ひとりよりふたり、ふたりより三人、三人より四人や。まだお前が霊なんておらん、おばあちゃんとは会えないって結論付けてまうのはちょっと早いんちゃうか?」
実際に部長は死んだ教授のことが忘れられなくて、今もまだ死者と面会を繰り返している。
それが果たして彼の望む再会の形であるかどうかはさておき、それも答えのひとつではないのだろうか。
とはいえ、今はその事実を彼に伝えることは出来ないが。
「サークルに戻れば、本当のオカルトに出会えるんですか?」
「お前はアホか。むしろ逆や、逆。うちらと一緒におったら、結果的にいずれはオカルトを否定することになる。それはきっとお前を一度絶望へと叩き落とす」
「相変わらず勧誘が下手な人ですね。そんな言い方されて、戻るわけがないでしょう?」
「最後まで聞け。うちらに出来るのはな、お前をおばあちゃんに会わせることやない。お前のおばあちゃんに対する未練を一緒に叩っ切ってやることや」
「僕は、そんなこと望んでいません」
「叶わんことを望んどったら、お前が一生幸せになられへんから言うとんねや。お前がそんな風におばあちゃんおばあちゃん言うとったら、死んだおばあちゃんも成仏しにくいってことがわからんか? ええ加減、あの世におるおばあちゃんを楽させたれや。おばあちゃんの来世での幸せを祈ったれや。ほんで、立派になったお前の姿見せて、おばあちゃんをあの世で安心させたれや」
間違ったことは一切言っていなかったけど、部長が言うと全く説得力がなかった。
そう感じているのは、事情を知っている僕と高原さんだけなのだろうけど。
とはいえ、彼女の中では教授もまだ生きてることになっているから、嘘偽りで言いくるめようとしているわけではない。
「そんなすぐに……割り切れるわけがないでしょう」
「ほんま女々しいやっちゃな。お前のおばあちゃんが死んでから何年経っとんねん。うちがお前みたいな孫持ったら、真っ先に祟り殺すわ」
きっとこういう人間が、死後、怨霊になるのだろう。
部長はため息を吐くと、束になった入部届けの中から一枚を山本さんに手渡した。
「ほら、これ入部届けな。すぐに答えは出さんでええで。今週中や、今週中におばあちゃんのこと割り切る決心がついたなら、これをうちまで持ってこい」
彼は渋い顔をしていたが、黙ってそれを受け取った。
「ふん……今日の所はこれくらいにしてあげます。次に会った時は……」
「うちらの仲間やな」
「だ、誰が!」
山本さんはそそくさと席を立つと、そのまま食堂を早歩きで出ていった。
「……さすが部長ですね。あの掴み所のない山本さんをいともあっさりと」
「ま、ツカミは得意やからな」
残りの入部届けの束をカバンにしまいながらうそぶく。
「山本さん……戻ってきますかね?」
高原さんの表情はどこか不安げだった。
「なんや、あいつに戻ってこられたら嫌か?」
「いえ、そういうわけではないんです。最初は確かにあまり好きではありませんでしたけど、事情を聞いて、彼も死にとらわれたかわいそうな人間のひとりなんだな、って同情に変わりました。今なら、彼が戻ってきてくれれば、私にも出来ることがあるんじゃないかな、なんて……」
「も、ってなんや?」
思わず口の滑った高原さんが、あ、という表情をした。
「なんや、高原も会いたい死者がおるんか?」
「い、いえ、そういうわけではないんですけど……まあ、そんなところです」
部長が勘違いをしているのだから、素直にそういうことにしておけば良かったものの、嘘を吐くのが苦手な高原さんは曖昧に言葉を濁すことしか出来なかった。
現に部長は訝しげな視線を高原さんに向けている。
「ま、ええけど。人間ひとつやふたつは、他人に言いたくないことくらいあるわな」
珍しく空気を読む部長の気遣いがありがたい。
「でも高原、これだけは言うとくで」
「はい?」
「困ったり辛なったり、ひとりでどうにもできんって思ったら、うちに言うんやで。お前は、大事なうちの部員やからな」
「……はい、ありがとうございます」
「ま、うちじゃなくて志信が良かったら、志信に言うてもええけどな」
「だから、なんで僕に振るんですか」
「なんや? 高原に泣きつかれたら迷惑なんか?」
「そ、そんなわけないでしょう!」
「そんなわけって、どんなわけや?」
「もう! 引っ張らなくていいですから!」
そんな僕と部長のやりとりを見て、高原さんはくすくすと笑っている。
部長は殴りたくなる程にニヤついた顔で、ん? ん? と僕の顔を覗き込んでいる。
だけど、僕はこんな日常が、決して嫌いではなかった。
この〝ケ〟だけは、絶対に枯れさせてはいけない。
そんな風に思った、春の昼下がりのこと。
「で、お前ら何食うんや?」
大仰な長財布をバッグから取り出して、部長が注文を聞いた。
「え、本当におごってくれるんですか?」
「そら初の依頼を無事にこなしたんやからな。今日は好きなもん食ってええで」
「やった。じゃあ、僕はハルマゲドン定食で」
「私はそんなに食べられないからAセットで」
「よっしゃ、ほなこれで買ってこい。あ、釣りはちゃんと返せよ」
部長が僕たちに千円札を一枚ずつ渡した。ピン札だったからきっと直前に下ろしてきたのだろう。
僕たちは席を立つとそれぞれ食券を買うために自販機へと向かった。
「あー、腹がカツ丼の腹になってきたわー」
そんな部長の言葉が生への渇望のように感じられた。
彼女にも山本さんにも、それぞれ形は違うものの、認められない死というものがある。
もし、高原さんが死んだ時、僕はどう感じるだろうか。
もし、僕が死んだ時、高原さんはどう感じるだろうか。
ふとそう考えて、すぐに思考停止した。
考えるのが嫌だったからじゃない。考えるのが無駄だったからだ。
何故なら、僕たちはまだ生きているから。
だからこそ僕は願う。
いつかは誰もが、僕の望む優しい死と出会えることを。
そして、いつかは自らに訪れる死を、笑顔で迎えられることを。
了