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 死を畏怖すべきものだと考えるようになったのは、人類最大の過ちではないだろうか。

 この世に信仰が生まれたのは、人類が死を怖れたからだ。死の先に、救いを求めたからだ。

 信仰が生まれ、宗教が生まれ、戦争が生まれ、また新しい死を生む。

 だが死が生むのはただひとつ、絶対的な無である。そしてその無こそ、絶対的な救いとするべきであった。

 死への恐怖は決して先天的(アプリオリ)ではない。

 生態系単位では僕たちの死とは本来アポトーシスであったはずだ。

 だが細胞単位ではそれをネクローシスと考えた。言語と文化が発達してしまった弊害により、細胞に自我という主観が芽生えたからだ。

 物心がついて間もない頃、親戚の叔父さんの葬式に行ったことがある。当然、その頃の僕は死の概念をまだ理解していなかった。

 ただ、悔しそうな父の表情と、涙を流す母の姿、そして死を悼む親戚一同によって、それが悲しいことで恐ろしいことなのだと教えられた。

 死への恐怖が本能に備えられているのだとするなら、僕はこの時に涙を流していないといけなかったはずだ。

 雛鳥は母鳥に空の飛び方を教わるだろうか、蜘蛛は母蜘蛛に巣の張り方を教わるだろうか。

 何故僕は、死の悲しみ方を知らなかった? 死への恐怖を知らなかった? 死が尊いものだと知らなかった?

 死は、後天的(アポステリオリ)であるからだ。

 死を最初に悼んだ人間が、死をもっと温かいものだと考えたならば、人類はまた違う運命を歩んでいたかもしれない。

 今より発展したかもしれないし、今より堕落していたかもしれない。ifはあくまでもifだ。

 僕は考える。忌避し、畏怖する死ばかりではなく、この世にもひとつくらいは温かくて、優しい死があってもいいのではないかと。

 死は受容もしなければ拒絶もしない。それはつまり究極の優しさであり、絶対的な救いである。

 死の先に何かを見いだそうとするのではなく、死そのものを、救いとして受け入れるべきだったのだ。




 店を出ると途端に広場の喧噪に包まれた。耳の中を雑音が通り過ぎていく。


「とりあえず、噴水の方へ行ってみようか」


「そうだね」


 喫茶店から噴水は目と鼻の距離だ。

 シャチホコのような謎のオブジェたちが水の溢れる台座を支えており、外側には水流を噴射するキューピッドが数体配置されている。

 キューピッドはもちろん裸体で、惜しげもなく陰部をさらけ出している。

 ちらりと高原さんに視線を向けるが、特にそれについて過剰反応を示すようなことはなかった。見慣れているからか、芸術作品だと割り切っているからかは彼女の表情からはわからなかった。


「確かさっきの男の人は、噴水の所に座っているカップルを見ると襲いかかるって言ってたよね」


「うん、真似してみる?」


「あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃなくて……って、それはその、つまり……」


「あ、ごめん、私となんかじゃ、嫌だったよね?」


「そ、そんなわけないだろ!」


「あはは、そんなにムキになってフォローしてくれなくてもいいよ。ありがとう」


 当然フォローをするつもりで言ったのではなかったが、これ以上喋ると墓穴を掘りそうなので今はとりあえずそういうことにしておこう。


「でも、真似するって、例えばどういう……?」


「……手を、繋ぐ……とか?」


「て、手!?」


 俯き加減で高原さんが答えた。頬が微かに紅く見えたのは照明のせいだろうか。

 恋人のフリとはいえど、彼女と手を繋ぐことが出来るのは願ったり叶ったりだ。想像しただけで頭に血が上って鼻血が出る。

 僕はそこであえて冷静になって考えてみる。

 僕たちはあくまで噂の調査をしているだけで、幽霊を呼び出したいわけじゃない。

 そもそも、ネットの目撃証言ではカップルからの目撃証言はほとんどない。あることにはあるが、噴水に腰かけていたという重要ポイントを抑えていたわけではない。大体はひとりで普通に買い物をしていたり、通りがかった際に無条件で襲われている。

 つまり、恋人のフリをする必要などないということだ。

 トイレの花子さんを呼び出す儀式よろしく三番目のトイレを三回ノックする、みたいな軽いノリと、僕たちが手を繋ぐというイニシエーションを同列に語ってもらっては困る。

 おそらく高原さんも、手を繋ぐ必要がないことは理解しているだろう。

 理解しているということは、僕が誘いに乗った時点で下心が見え見えであることがバレてしまう。

 これはきっと彼女に試されているのだろう。

 結論、手を繋ぐ必要は……ない!


「で、どうする? 真似……してみよっか?」


 視線を真っ直ぐ向けて詰問してくる。心なしか彼女の瞳が潤んでいるような気がする。

 これは彼女が僕と手を繋ぎたいって意思の現れなのだろうか。

 だとするなら、さっき導き出した結論は根本から違ってくることになる。

 仮に僕と手を繋ぎたいと彼女が考えているのならば、試されているのは下心の有無ではなく、彼女を受け入れることのできる器を僕が持ち合わせているかどうかだ。

 そうだとするなら、彼女に何度も手を繋ぐことを懇願されていまだに逡巡している時点で僕のポイントは秒読みで減点されていることになる。

 とにかく早急に結論を出さなければならない。

 しかしよく考えてみると、彼女が僕と手を繋ぎたいということはすでに両思いだということにならないだろうか。

 すなわち、僕が手を繋ぐことを許可した時点で僕たちの交際ははじまったも同然だ。

 結論、春は訪れた。


「よし、繋ごう」


「え? あ、うん……」


 僕がそう答えたことが意外だったのだろうか。高原さんは目を丸くさせて僕を見つめている。

 噴水の縁へどちらともなく腰をかける。もはや調査は二の次だった。


「あ、あの、松永くん?」


「ん?」


「ちょっと遠くないかな? これじゃ繋げないよ?」


 恥ずかしくて前ばかりを見ていたせいか、彼女との位置関係に気付かなかった。

 横を見ると僕と高原さんの間は人ふたり分ほど離れている。これでは赤の他人か、もしくは痴話喧嘩で気まずくなったカップルにしか見えない。


「そっちに寄ってもいい?」


「あ、うん、もちろん」


 よいしょ、と彼女がこちらに身を寄せてくる。思いの外、その距離の詰め方に心臓がドキリと鳴った。

 近い。普通に肩が触れあっている。触れあった肩が体温を感じ、次第に汗ばんでくるのがわかる。


「松永くん、手、出して」


「ん?」


 あろうことか、僕はポケットに手を入れたまま座っていた。これでは彼女を拒絶していると思われても仕方がない。ホームラン級のバカだ。


「あ、ごめん、ほら、はい」


 目前に手を差し出す。彼女はそれを小さな手で優しく握った。

 その瞬間、アドレナリン、バリン、ロイシン、イソロイシン、ありとあらゆる脳内麻薬が駆け巡る。

 今ならアキちゃんに祟り殺されても構わないと思えるほどには幸せだった。


「本当は、嫌だった?」


「え? 何が?」


 もはや思考することを忘れた僕の脳は質問を質問で返すことしか出来なかった。

 滑りそうなほどになめらかな彼女の手が、心なしかきゅっと強く僕の手を握りしめた気がした。


「いや、手を繋ぐことが……」


「ううん、そんなことないに決まってるだろ」


「決まってるって……決まってるの?」


「まあ、決まってるというか……別に、普通に、嫌じゃないよ」


 手を繋いだ瞬間に交際が決定するなんて大言壮語を吐いた勢いは今ではどこへやら。

 とにかく舞い上がってしまって、今は全神経が手のひらに集中していた。


「そっか、なら良かった」


 嬉しそうに高原さんが笑った。


「松永くん、手もっとこっちに」


「ん? どうしたの?」


「そんな繋ぎ方じゃ、仲良さそうに見えないよ?」


 僕はいまいち彼女の言葉の意味を理解出来なかった。

 彼女が手をこねくり回して握り方を変化させていく。指の一本一本がイソギンチャクさながら絡みついてくる。俗に言う恋人繋ぎというやつだった。


「あ、あのこれって……」


「巫女舞って知ってる?」


「は?」


 唐突な神道用語に思考回路がついていかない。巫女舞というのは、要するに巫女舞だ。


「あれって、自分をトランス状態にして神様を自身に憑依させる儀式でしょ? 踊っているうちに、だんだん激しくなって、本気になって、それでようやく神を降ろすことが出来るの。いわば降霊術みたいなもの。ってことは、今私たちがカップルのフリをしているのも同じことだよね。フリだけじゃ幽霊も騙せない。だから、私は松永くんのことが好きなんだって、心から愛しているんだって、そう思い込まないといけない。格好だけじゃ、相手には何も伝わらないよ」


 ごもっともな意見ではあるが、彼女の口から僕のことを愛しているなんて言葉が出てくるのはきっと人生でこれが最初で最後なのだろう。

 そもそも、彼女は本気でアキちゃんを呼び出すつもりなのか?


「だから、松永くんもそれにちゃんと向き合って。今だけでいいから、私のことを愛しているって、そういう風に考えて欲しいな」


「わ、わかった」


 とはいえ彼女はともかく、僕の場合は決して演技なんかではない。

 これでアキちゃんが本当に現れたら、おそらく僕の功績が大きいに違いない。


「アキちゃん、出てくるかな?」


「さあ、どうだろうね」


 どこか滑稽な光景だった。出るはずのない幽霊を待って、ただ時間が過ぎゆくのを待っているだけ。

 高原さんは、いつまでこうしているつもりなのだろうか。

 もしアキちゃんが現れるまでだとしたら、彼女が空気を読んでくれる幽霊であることを切に願う。死ぬまでこうしていたい。

 ふと、空いている方の手でスマホの画面を眺めた。時刻は午後四時四十三分。

 あと一分で魔の四時四十四分だ。とはいえ、午前ではないから正確には十六時四十四分だけれど。

 午前四時四十四分にカミソリを咥えて洗面器に張った水面を見ると、そこに未来の結婚相手が映るという。

 果たして、僕がそれを試した場合、そこには高原さんの顔が映るのだろうか。

 もちろん、驚きのあまりにカミソリを洗面器に落とすような真似は絶対にしない。

 そうして、スマホの時計が四時四十四分を表示した。


 ふっ、と泉の広場の電気が消えた。


「え?」


 停電かと疑って回りを見渡し、それから高原さんの方を向いた。

 彼女は先程の微笑をそこに残したままで固まっていた。


「何だよ、これ……」


 一切の無音が辺り一帯を包んでいた。

 道行く人の話し声も、足音も、何も聞こえない。何よりも彼らは数秒前の姿のままで止まっていた。


「高原さん、大丈夫?」


 返答はない。

 僕の身体は動く。とっさに立ち上がろうとしたものの、高原さんの手が左手に絡みついたままでそれを解くことが出来ない。

 すなわち、僕はこの噴水に座ったまま、動くことが出来ないのだ。


「あの、誰か? 誰かいませんか!?」


 誰ともなく声をかけるが、当然のように反応はない。

 隣に高原さんがいるのはわかっている。だけど、これはいないのと同じだ。

 認めたくはないけれど、おそらく僕だけがここにいるのだろう。

 その時だった。噴水から覗く地上への階段から誰かが降りてきた。

 助かった。僕は胸をなで下ろした。


「すいません! そこの人! これ、一体何が起こってるんですか!?」


 ゆっくりとこちらへと向かってくる人影にしびれを切らして、遠めに叫んで声をかける。




『……てるの?』




 それは直接、脳に語りかけてきた。焼きごてを喉に突っ込んだような、焼け爛れた声だった。

 階段の上の方に足下が見えた。ハイヒールを履いているから、おそらく女の人だろう。

 直感がうわんうわんと警鐘を鳴らしている。その人影には関わってはいけないような気がした。

 人影はふらついているのか、足下がおぼつかない様子だった。

 やがて足が膝の辺りまで見えた。ストッキングが伝線している。それだけではなく、ハイヒールも片方が折れていて、かかとを履きつぶしているようだ。その時点でヤバイ臭いがプンプンとしている。


「なんだよ……何なんだよこれは!」


 恐怖というよりも怒りしか湧いてこなかった。どうしてこんな目に遭わないといけないんだ。




『……てるの?』




 壊れたラジオのように同じ台詞を何度も繰り返す。その度に頭が割れそうな程に痛む。

 カツン……と人影が一段下る度に、不快なハイヒールの音が広場に響き渡る。




『わた…………の?』




 叶うことなら高原さんの手を振りほどいて逃げ去りたいくらいだった。

 それは彼女を置いて逃げるという意味じゃない。きっとふたりでこの恐怖を体感していたのなら、僕は自分がおとりになってでも彼女だけ逃がすことを厭わなかっただろう。

 あくまでも推測に過ぎないが、高原さんは、僕が今見ているこの光景を見ていない。




『わ……し……?』




 不気味な声も聞こえていなければ、ハイヒールの響く音も、高原さんの耳には届いていないのだろう。

 人影の腰あたりが見えた。そこではじめて、彼女が何者であるかをようやく理解した。

 赤いワンピース。

 まるで鮮血をあしらったような、くしゃくしゃの赤いワンピースを、女は着ていた。

 どうやら、本当に呼び寄せてしまったのだ。赤い服の女の幽霊を。

 それは僕の高原さんへの愛情が本物だった、と冗談をいえるほどの余裕があればどれほど良かっただろうか。

 女はついに階段を下りきると、広場を一度見回した。




『……てるの?』




 左を見て、右を見て、まるで教習所の安全確認のように。

 やがて進む方向を定め、僕の方を見た。

 見つかった。万事休すか、何にともなく祈った。




『わたし…………の?』




 女は相も変わらず同じ台詞ばかりを繰り返している。

 喫茶店で男が話していたアキちゃんのことを思い出した。


『私を捨てるの?』


 きっとそう言っているに違いない。

 そうしている間にも女はみるみるうちにこちらへと近寄っていた。

 目を合わせないように目を瞑る。

 広場には時間が止まっているとはいえ、たくさんの人間がいる。

 それに倣って、止まっている人間の振りをすれば、彼女の追跡からも逃れられることが出来るかもしれない。

 足音が真っ直ぐこちらへと向かっているのがわかる。死を目前にして、心臓が早鐘を打つ。

 ゾンビ映画などでよくある設定では、彼らは音に反応する。

 僕の心音が聞こえているのなら、女はそれに反応しているのかもしれない。

 あとは呼吸。霊幻同士に登場するキョンシーなどは、呼吸を感知して襲ってくる。

 この空間では高原さんをはじめ、時間が止まっている人間に心音や呼吸音があるはずもない。

 つまり僕だけが格好の餌食として、ここに縛り付けられているのだ。




『わ…………るの?』




 声は直接脳に響いているため、女との距離を測るのには適さない。

 ただハイヒールの音だけは、確実に女が手の届く位置にいることを物語っていた。




『……し……て……?』




 目を必死に閉じて、息を殺して、風景に溶け込もうとする。時間の止まった人たちと同じように振る舞う。

 僕はここにはいない、お前なんて見えていない、だから早くどこかへ行け。必死に懇願する。




『…………てるの?』




 女の鼻息が僕の鼻を掠めた。嘔吐きそうになるほどの死臭が喉の奥へと流れこんだ。




『わ…………るの?』




 女が喋る度に、にちっ、みちっと肉の剥がれるような音がする。今、目を開けたら卒倒する自信があった。

 頼むから、早くどこかへ行ってくれ。僕はお前なんて見えていないんだ。お前なんて知らないんだ。

 ぬたっ……と、今度は何かに頭を掴まれた。女の手だろう。おそらく両手で僕の頭を抑えている。

 直接肌に触れるそれは、今もまだ握っている高原さんの手の感触とは別物だった。

 女の手は蛞蝓が顔を這いずり回るように、次第に顔を伝いながら下へとおりていく。

 血なのか、組織液なのか、はたまたもっと別の何かはわからないが、ぬたっとした粘液を僕の顔に擦り付けるように。

 それは僕の頬まできて静止した。

 直接、手の血管に触れているのか、女の体内を流れる血液の鼓動が直接頬へと伝わる。

 一度、二度、三度……女の身体の中を死が循環している。

 そして、女は言った。今度ははっきりと。




『わたしがみえてるの?』




 僕は思わず目を開けてしまった。そこには――。




******




「……ノウマクサンマンダバザラダンカン!」


 無理矢理、夢から引きはがされるように僕の意識は元の時間を取り戻した。


「はぁはぁはぁ……あ、あれ、僕……今?」

 気がつくと、肩で息をしていた。


「松永くん、気がついた?」


 僕の意識が戻ったことに気付いた高原さんが、咄嗟に組んでいた印を解いて、僕の顔を覗き込む。

 何度も思い焦がれた現実が、生が、そこにはあった。

 ほっとすると、涙が零れてきた。


「あ、あれ……ご、ごめん。男なのに、格好悪いよね」


「大丈夫、だよ」


「高原さん、僕、今何してた?」


「思い出さなくていいよ。ちょっと死に触られただけ。現実じゃないよ。ごめんね、まさか松永くんの方が取り込まれるとは思ってなかったから……」


 そうだ。現実は、今ここにある。高原さんが僕の目の前で微笑んでいてくれる今こそが現実なんだ。

 記憶はなかった。多くの夢は覚醒とともに記憶から葬られる。ただそれだけのことだ。

 でも、実感だけは残っていた。

 僕は確かにこの手で、死に触れた。


「もう忘れちゃったでしょ? 大丈夫、もうあんな夢は見ないから」


「大丈夫って……あの……僕はさっきまでどうしてたの?」


「どうもしてなかったよ。ただ、ぼぅっとしてただけ。でも様子はおかしかったから、祓っておいてあげた」


「祓う?」


 普段ならさすが神社の娘だと一笑に付す所だったが、今回はわけが違う。

 きっと、彼女が助けてくれなかったら、僕は死に飲み込まれていたかもしれないからだ。


「ああ……うん、霊とか、そういうスピリチュアルなことじゃないよ。思い込みの力が強いと、たまにそういうことがあるんだ。だからそういう時は、はい、祓いましたよ、って言って安心させてあげるの」


「そう、なんだ……」


「特にね、心霊スポットは噂が先行するから特にそういう現象が起きやすい。でもね、それをただの夢だ、幻だ、で済ませちゃうのも本当は良くないの。死という穢れに触れて、人間のケが枯れちゃうと、少なからずその人には悪影響を及ぼしちゃうから」


 まさに死に触れるとは、今彼女が説明した通りのことだと思った。

 仏教では六曜の友引にあたる日には葬式を避ける習慣がある。一般には、死者が友を引く、つまり仲の良い親類や友達を連れて行くからだと言われる。

 とはいえ、この習慣はそもそも仏教とは関係がなく、友引とは元々〝共引〟という字をあてていた。これは引き分けを意味しており、決して不吉をあらわす言葉ではない。

 ただ信仰とは信じることだ。それが慣習となっている以上、そこに思い込みは生まれる。不吉であると信じれば、それは現実となる。

 死の穢れに触れるとは、まさにそういうことなのだ。

 ケが枯れてしまった場合、最悪は死に至る可能性もあるということだ。


「高原さん、助けてくれてありがとう」


「そんな、大げさなことじゃないよ」


 照れ隠しに手をぱたぱたと振ってみせる。彼女にとって大したことではないのかもしれないが、僕にとっては命を救ってもらったんだ。彼女はまさに僕の命の恩人だ。

 実際に触れてみて気がついた。生者が縛り付けた死は、いつでも手の届く所にあるのだ。そして、いとも簡単に生者を死へと引き込む。

 かつて黄泉国を垣間見た伊弉諾尊が禊を行ったように、僕は今すぐにでも裸になって目の前の噴水で水浴びをしたい思いに駆られた。

 死者は決して、生者の都合で生かしておいてはならない。


「高原さんさっきあの男の人に言ってたよね。死者は還るべき所に還すべきって。そんな悲しい場所をこの世からひとつでもなくしたいって」


「うん、言ったけど……それがどうかした?」


「それさ、僕にも手伝わせてよ」


 その瞬間、僕の中で大きな目的が生まれた気がした。


「手伝わせてって……」


 彼女は何も言わなかったが、僕ごときに何が出来るかはわからない。それでも、やらなければいけない気がした。


「幽霊なんていないって考えている僕でさえ、実際は死に触れられたらあのざまだ。思い込みの強い人が死に触れたら、きっとあの程度では済まない。ここで本当に死人が出ちゃったら、それこそ都市伝説は真実化する。それだけは絶対に避けなければならない」


「うん、そうだね。その通りだよ」


 決意を胸に再出発を試みようとする僕を、彼女は笑顔で出迎えてくれた。こんなにも心強いことはないだろう。


「まずはひとつ、この泉の広場からなくしていこう。ここはそんな悲しい場所じゃないって。もう少し調べたら、帰ってレポートを書くよ。そして、僕たちが調べあげたこの事実を発信して、誰かが小説にでも書いて広めてくれれば、きっとこの場所もいつかは変化していくと思うんだ」


 彼女はそんな勢いだけの意気込みに対してなにも言わなかった。

 無垢な微笑みは、頑張れ、と励ましてくれているようにも思える。

 死とは、そんな彼女の微笑みのように、温かく、優しくあるべきなのだ。

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