五
僕と高原さんが落ち合う約束をした場所は、泉の広場のすぐ横にある喫茶店キーフェル泉のテラス店だった。
待ち合わせの時間は十二時にしていたけれど、僕は浮き足だって一時間前から来ていた。
仮に彼女が僕と同じ気持ちでいるなら、向こうも早く来るかもしれない。そんな淡い期待を抱くまでもなく彼女は待ち合わせ時刻に二、三分ほど遅れてやってきた。
「ごめん。どんな服着てこようか悩んでたら遅くなっちゃった。待った?」
僕のために気合いを入れて来てくれたのかと思惑を張り巡らせる。すぐにそれが手前勝手な妄想だと気付いて取り下げた。
「ううん、今来たとこ」
ケーキセットを完食しておいて、今来た所も何もないだろう。もっとマシな嘘をつけば良かった、と言った後で気付いた。ちなみにコーヒーはこれで四杯目だ。
「良かった」
当の本人は僕のわざとらしい嘘に気付くこともなければ探ることもせず、そのまま向かいの席に座った。
外行きのせいか、いつもより派手目の化粧にほんの少し心が高鳴った。
「何か頼む? 奢るよ。付き合ってもらってるし」
さりげなく言ったつもりが、やたらに過剰反応をされて断られたので泣く泣く自分の分は自分で払うことになった。僕はまだ彼女に奢る資格すら持ち合わせていないのだろうか。
しばらくすると、お待たせしました、と店員からの一声と共に注文の品が届いた。カチャカチャと小気味良い音を立ててチーズケーキとコーヒーの器が彼女の前に並べられていく。
店員が立ち去ってから、彼女は届いたコーヒーに何も手を加えることなく口をつける。
彼女もコーヒーは僕と同じブラック派だった。その事実を初めて知った時は、些細な共通の好みを見いだせたことに心を躍らせたものだった。
美味しい、と僕に聞こえるか聞こえないかくらいの声量で独りごちた。またソーサーの上にカップを置く。カップになりたい。
「そういえば、こうして二人でおでかけするのって、初めてだよね?」
コーヒーを飲んで落ち着いたのか、再び彼女が口を開いた。
「ああ、言われてみればそうだね。いつも取材といえば部長もセットだったから」
こうしてみると、僕たちがサークル以外では全く接点がないことを思い知らされる。
そもそも、二人だけで調査にあたることが初だったから、二人でどこかへ行くのも初なのは当然か。
「じゃあ、これが初デートだね」
「ぶっ……!」
口にしかけたコーヒーを吹き出しそうになり無理矢理口を手のひらで押さえた。
「あ、ごめん。何か変なこと言ったかな?」
不安げに僕の顔色を伺うように覗き込む。恥ずかしくなって思わず首ごと視線を逸らした。
「いや、調査に来ただけなのに高原さんがそういう風に思ってたのが意外で……」
おしぼりで口を拭うフリをしながら、確実にニヤついている表情を隠した。
「ごめんなさい。そうだよね、調査だよね。デートだなんて、不真面目な言い方しちゃった。やるべきことはちゃんとやって帰らないとね」
横目に覗き込むと、高原さんは軽く拳を握りしめる仕草をして自分に言い聞かせている。心なしか、寂しげな表情をしていたような気がした。
「いやいやいや、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。僕のほうこそ変なこと言ってごめん」
「ん? どういう意味で言ったの?」
これが部長だったらきっと僕をからかうためにわざと殴りたくなるような表情で言うのだろう。純真無垢な視線が心臓を射止めた。
「いや、それはまあ、その……調査が終わってからでいいよ」
彼女が僕と二人だけで会うことをデートと表現した。これは、少なくとも僕が男性として見られていると自認してもいいのではないか。
ただ、それを説明してしまうと、もはや彼女に告白することと同義になるので、お茶を濁しておいた。
「……わかった」
腑に落ちなさそうに背筋を起こして居ずまいを直す。
デートと言われて嬉しい気持ちを抑えることは出来ないが、事実、今日は調査が目的という大義名分がある。
とにかく、その話をしていかなければならない。
「とりあえず、食べ終わってからでいいから、この辺で働いてる人に色々話を聞いてみよう。出来るだけ、昔からありそうな店を選んで……」
と言いかけて、僕は店内を見回す。真新しいという意味では綺麗とはいえないが、良い感じにレトロな雰囲気を醸し出している。その佇まいは昭和からあったと言われても遜色がない程の貫禄に包まれていた。
「まず、ここの店員に聞いてみようか」
「そうだね。私もそう思った」
まず、近くを通りかかった若い店員に泉の広場の噂を聞いてみることにした。案の定、働いている期間が短いせいか、有益な情報は得られなかった。噂自体は聞いたこともあるが、それ以上のことは知らないようだった。代わりに店長を呼んできてくれるとのことで、僕たちはその言葉に甘えた。
厨房の奥から、歳の頃は五十歳くらいだろうか、店長らしき人物が僕たちの席へとやってくるのが見えた。若くからこの店を経営しているなら見込みはありそうだった。
僕たちは事情を説明し、泉の広場に現れるという赤い服の女に関する噂について質問をする。
普通、ネガティブな話についてはこの時点であまり良い印象を持たれないのだが、気さくな方であることが幸いして、快く話を聞かせてくれた。
ただ残念だったのは、ネットで拾える情報以上に目新しいものが得られなかったことだ。
僕たちはお礼を言って、彼の拘束を解いた。
「うーん、この店で知らないとなると、望み薄なのかなぁ……」
高原さんが調査の暗澹たる先行きに不安を漏らしはじめる。
ガラス張りになった店内からは泉の広場の全容が一望出来る。位置的にも申し分のない立地条件でありながら、これ以上の情報が引き出せないとなると、ここよりも新しい店での聞き込みはほぼ絶望的だと思えた。とはいえ、この店よりも古くからありそうな店が近辺にあるわけでもない。
「心霊スポットなんて意外とこんなもんだよ。周りが持てはやすからそれなりに話は大きく聞こえるけど、地元民は意外に自覚すらしてないことが多い。とにかく数打ちゃ当たれだ。何も手がかりがない以上、片っ端から話を聞いていく他ない。そういうわけで、次の店へ……」
僕が伝票を持って立ち上がりかけたその時だった。
「やあ、君たち。何か調べ物をしているのかな?」
そう声をかけてきたのは、僕たちと同年代くらいの男性だった。
大学生にしては身なりが綺麗で線の細い落ち着いた青年だが、どこか陰気で影の薄い印象を与える。
「えっと……」
僕たちが唐突に声をかけられてうろたえていると、彼は細縁の眼鏡をくいっと持ち上げて、もう一度質問をした。
「少し、話を聞かせてもらってもいいかな?」
僕たちがイエスと答えるまでもなく、彼は空いた席に腰をかけた。しかも僕の隣の方が近かったにも関わらず、わざわざ回って高原さんの隣を選んだ。その時から、彼にはあまり良い印象を持てなかった。
「今日は珍しくあの女はいないんだね」
「あの女……?」
誰のことを言ってるのかはわからないけど、僕らのことを知っているのなら、今ここにいてもおかしくない人物と言えば部長くらいだ。部長の知り合いかとも考えたが、あの女呼ばわりする以上、あまり仲は良くないのかもしれない。
「まあ、いいや。ところで、さっき店長との話を僭越ながら聞かせてもらったけど、君たちはこの泉の広場にあらわれる赤い服の女のことを調べているみたいだね」
「ええ、そうですけど……」
別に隠すことでもないので正直に答えた。
終始笑顔だった男の表情が一転して真顔に変わる。
「老婆心から言わせてもらうけど、調べるだけ無駄だよ」
表情と同じく、その言葉の端々からは妙な敵意のようなものが感じられた。
「……どういう意味ですか?」
今の発言は僕たちの行為を全否定するのと同義だ。出来るだけ柔らかく返事をしたつもりだったが、高原さんが不安げな表情で僕を見つめている所を見ると抑えきれていないのだろう。
「意味もなにもないよ。幽霊なんていない。ただそれだけだ」
彼は別に間違ったことは言っていない。仮に幽霊が存在するかどうかと問われれば、僕でもいないと即答するだろう。
ただ僕たちは心霊スポットという一部の地域において伝わる噂や都市伝説を、民俗学、社会学的に考察することを目的としてここにいる。
オカルト信奉者と勘違いをされているのなら、それははっきりと否定しなければならない。
「僕たちは端から幽霊話の真偽を問いにここへ調査に来ているわけではありません」
「じゃあ、何を調べにきたの?」
僕がそう答えることをわかっていたかのように、彼は間髪入れず次の質問を投げかけた。
「この場所に噂の立つメカニズムを調べに来ているんです」
「なるほどね。じゃあ僕がそのメカニズムを教えてあげよう。それで君たちの調査は終了だ」
なるほど、これが言いたかったのか、と今更ながらに悟った。彼の誘導尋問はここに帰結していたのだ。
「何か、知ってるんですか?」
「何十年も前のことだよ……」
教えてくださいなんて一言も言っていないのにも関わらず、彼は訥々と語り出した。
「泉の広場には、その界隈でアキちゃんと呼ばれる赤いワンピースを着た街娼婦がいた。ある日、アキちゃんは自分を身請けしてくれる若い客に惚れ込んだ。でも、アキちゃんがある時泉の広場へ行くと、その客と若い女がキスをしていた。アキちゃんは思わずその二人に飛びかかって、泉の広場を舞台に、相当揉めたそうだよ。結局アキちゃんはそのまま捨てられてしまった。けれど、気が強くてプライドも高かったアキちゃんは自分が捨てられたことを認められなかった。それ以降、捨てられた客と背格好の似たカップルが噴水の所に座っているのを見ると、『私のこと捨てるの?』って襲いかかることがあったそうだ。警察沙汰になったりした時もあった。それからアキちゃんがカップルに襲いかかることはなかったそうだけど、いつしか彼女はいなくなり、泉の広場も改装された。けれど、彼女の存在は噂として、今もまだこの泉の広場に生きてるんだよ。これが、幽霊話の噂が立つメカニズムだ」
長い話ではあったが、後半はやや面倒くさくなったのか、まくしたてるように展開していったため体感時間は短かった。
ふと高原さんの方へ目をやると、何か言いたそうな表情で男を見ている。
「それは……」
高原さんが大きく息を吸い込む仕草を見て、言葉を飲み込んだ。それに合わせて彼女が発言する。
「知ってます、その話。ネットに書いてあることそのままじゃないですか。まるで自分だけが知ってるみたいな口ぶりで、私たちがそんなことも調べずにここにいると思ってたんですか?」
男が目を丸くして高原さんを見つめた。僕も同じく、高原さんが怒っている姿を見るのははじめてだったせいで驚きを隠せない。だけど怒った顔も僕好みだった。
「おや、大人しい顔して意外と気の強いお嬢さんだったみたいだ」
眼鏡を持ち上げると、高原さんに向かってけらけらと嘲笑した。僕が助け船を出そうとしたが、また彼女が口を開きかけたのを見て様子を見守ることにした。
「バカにしないでください。その書き込みが真実であるという証拠はどこにあるんですか? ネットが情報ソースであるものは、噂本体も、原因も同じメタレベルに属します。その話自体が、噂の一部ではないという証拠をあなたは提示できません。仮に真実であっても、あなたの話は噂が立つメカニズムに対する答えにはなっていません。原因をメカニズムだと無理矢理結論づけた飛躍以外の何物でもありません」
「ふふっ……くくくくっ……僕の話が、全部嘘だと……君はそう言いたいんだね?」
「すべてが間違いだなんて言っていません。あなたが最後に言った言葉。彼女の存在は噂として、今もまだこの泉の広場に生きている。これはその通りだと思います。ですが、死者は還るべき所に還るべきです。生ある者のわがままで縛り付けておくのは良くありません。私は、そんな悲しい場所をこの世からひとつでもなくしたい。そういう思いで、今ここにいるんです」
お恥ずかしいことに僕は高原さんがそういう思惑でサークルにいることを今まで知らなかった。
そういう話をしたことがなかったから仕方ないといえば仕方ないが、初めて聞き出したのがこの男であることにどこかやきもきとした。
「それは君が、大切な人を失ったことがないから、言えるんだよ」
言っている本人が死に別れた側なのではないかと錯覚するほど、色の失せた虚ろな瞳をしていた。焦点のあっていないそれは、まるで彼岸を見据えているように魂を感じられない。
「失礼。余計なことを口走りそうになったよ。わかった、今日はもう君たちの邪魔はしない。少しね、話してみたかったんだよ。君たちがどんな人間なのか。概ね期待外れではなかったようだ。だが、高原さんと言ったかな?」
「ど、どうして、私の名前を……?」
突然の名指しにうろたえる高原さん。彼女の隣に座ったことといい、やはりこいつはストーカーか何かだろうか。
「ふふ、そのくらいは知ってるよ。まあ、君の考えは理解しかねるね。死者は、生ある者が死者と認識してはじめて死者となるんだ」
「そんなことは……」
濁した言葉尻の裏には、否定したくても否定しきれない、そんな感情が渦巻いているようにも思えた。
「結構、今日はこれ以上君たちと議論をしている時間はない。まあよろしく頼むよ、依頼の件。生ある者が、死者をこの世に結びつけるそのメカニズムを解明できたなら、是非ともそれを僕にもご教授願いたい。じゃ、僕はもう帰るから。後はよろしく」
「え? 依頼って……ちょっと待ってください!」
彼女が呼び止めるのを無視して、男はそのまま会計を済ませて店外へと出て行った。
目で追いかけるものの、その姿はまるで幽霊のように、人混みの中へとすでに消えてしまっていた。
「って、いっちゃった……」
「あの人なんだったんだ?」
男の去った方角に向かって吐き捨てる。
「でも、依頼の件って言ってたよね」
「ああ、自分で僕たちのやることを散々否定しておいて、まさかその依頼を出した張本人だなんて……」
「でも、依頼のことを知っているのは私たちしかいないし、それ以外で依頼のことを知ってるのは出した本人以外にあり得ないよね」
「まあ、どうだっていいけどね。僕は僕に与えられたことをやるまでだし。それよりも、なんかごめんね。嫌な空気になっちゃった」
とは言ったものの、あの男のせいで心なしかモチベーションが下がってしまったのは事実だ。
「ううん、松永くんは悪くないよ。とにかく、気を取り直して頑張ろう」
心情を慮ってか、高原さんが背中を押すように励ましてくれた。モチベーションのメーターは一二〇%を振り切った。
「そうだね、とにかく長居するのも悪いし、今度は別の店で聞き込みを再開しよう」