一
彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚を取り戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。
夢を、見ていた。
打って変わって瞼の外には真っ白な、暖かい世界が広がっているようだ。
西の窓から差し込む斜陽が、やおら覚醒を促していく。
手の平から滑り落ちかけた端末を慌てて握り直すと、ロック画面をスワイプした。
眠りに落ちる前から開きっぱなしだった電子書籍アプリが再同期をはじめる。同じように、僕の意識も神話の世界を離れ、次第に現実世界と同期していく。
――した、した、した。
今度はリアルに。
なんてことはない。東の窓際にあるシンクの底に、蛇口の水が滴っているだけだ。
部室の東半分はすでに夜の帳が下りていた。生駒山脈の頂が、闇に包まれはじめている。
そういえば、とカップに半分ほど残る冷め切ったコーヒーを見つめた。
春先の三寒四温に冷えきった下半身が身震いをしている。
足元にずり落ちたブランケットを拾い上げると、それを目の前に広げて掲げた。
西日を透かした無地のそれは、通販で手に入れた何の思い入れもない物に過ぎない。
しかし、今日のこの瞬間だけ、僕はその残照の中で、確かに當麻曼荼羅の輪郭を垣間見た気がした。
こん、こん……
と、控えめなノックの音が聞こえた。
ドアの向こうに立つその少女の影にはノックの必要などないことを何度も伝えてきたのだが、いまだに彼女はノックをせずに部室へ入ってきたことがない。きっと今、僕と彼女の間にあるそのドアこそが、ふたりの心の隔たりを表しているのだろう。
数秒の後、がちゃりとドアが開いた。
高原玲子。家が神職ともあって神道学を専攻する、僕と同学年の二回生だ。
彼女はこちらを見ると垂れた目を細めて相好を崩した。小脇に僕が昨日貸した本を挟んで、優しくドアを閉めるとそのままこちらへ歩み寄ってきた。
微かに栗色のセミロングを隙間風が優しく揺らす。真っ白なロディスポットのカーディガンを背景に陽光が毛先を流れていった。
「読んだよ。面白くて一晩で読んじゃった」
瑞々しい唇を艶めかしく動かして、しかしどこか上品な物言いは嫌らしさを感じさせない。
差し出された本を受け取って、近くのテーブルに置く。
今回貸した本は小松和彦氏の『神隠しと日本人』。神隠しに関する論文でありながら、その考察内容は推理小説にも似た展開を見せる。非常に読みやすく、民俗学初心者にもオススメの名著だ。
「どうだった?」
「うん。ムラ社会って結構どろどろとした話が多いのに、今回のは読み終わった後にすごく優しくなれる読後感だった。私、こういうの好きだな」
「良かった。最初は出来るだけ読みやすいほうがいいよね。そう思って、はい、次はこれ」
次に僕が手渡したのは、故宮田登氏の『民俗学への招待』。これも身近な所に焦点を当てた民俗学入門書の名著だ。ただ後半の柳田国男、折口信夫、南方熊楠に関する説明は興味がないと読みにくいかもしれない。
「ありがとう。またすぐに読んで返すね」
「無理して次々に読まなくても構わないよ。自分のペースで読むといい」
「大丈夫、本を読むのは好きだから。家に帰ってもやることないし。でも、松永くんの影響で私もそっちの学部に入れば良かったかなーって少し後悔しちゃってる所はあるかも」
神道学専攻の高原さんが民俗学の勉強をする必要はないといえばない。
それでも、僕と同じことに彼女が興味を持つのは嬉しかった。講義も根本的に違う以上、僕たちが顔を合わせるのはサークル以外にない。貴重な機会に、こうして共通の話題が出来るのは願ったり叶ったりだ。
彼女にとってそれが結果的に良い傾向であるのかどうかは、僕には判断出来かねるけども。
「ごめんね。僕のせいで、本業がおろそかになっちゃうと責任感じるよ」
「大丈夫だよ。本当は大学にきてまで神道を勉強する必要はないの。講習を受ければ、あとはお父さんが推薦書いてくれるし、そうすれば奉職はできるから」
奉職とは、一般人でいう所の就職を意味する。一言に奉職と言っても、一般企業に就職するのと同じく、神社の人気などによって競争率は変わる。高原さんは実家の神社を継ぐことになっているので、それもあまり関係ないのかもしれないけれど。
「もうちょっと早く松永くんと出会ってれば、人生楽しくなったかも」
「……え? それって……」
思わず、高原さんの発言の意図を問おうとして言葉を飲み込んだ。
そこに、彼女なりの駆け引きがあったわけじゃないのは僕にだってわかる。そもそも僕がそういう対象であることを前提にしたこの思惑も、所詮は自意識過剰に過ぎない。
ただ、その純真無垢な微笑みの奥に、天然が生み出す魔力みたいなものを秘めていることも事実だった。
高鳴る心臓の鼓動がさらに追い打ちをかける。ドキマギする自分を自覚して、さらにドキマギする負のスパイラルだ。
「あ、ごめん。今が楽しくないって意味じゃないんだよ。松永くんたちと出会って、刺激的な人生になったと思うし」
彼女は言葉尻を濁した僕の発言をしっかりと拾っていた。多少、捉えちがえをして。
松永くん〝たち〟。
当然のことだけど、彼女の人生が刺激的になったのは僕だけのおかげではない。それを担っている人間がもうひとりいることを踏まえた上で、彼女が〝刺激的〟と表現した以上はどちらかというと僕よりもその人物の方が功績が大きいように思えた。
僕自身は少しばかり人より民俗学に詳しい以外、特に取り柄もないただの大学生だ。彼女に本を貸すことで食いつないでいかないと共通の話題すら作れないつまらない男だ。彼女に思い焦がれていることすら本来は失礼にあたるのだろう。だけど、この世に神様がいるのなら、そのくらいの人権は認めて欲しかった。
……自分で考えてて死にたくなったので自虐はこの辺にしよう。
「……コーヒーでも入れようか?」
ひとりで勝手にきまずくなり、話題転換する。
「ううん、大丈夫。私がいれるよ。松永くんのも入れてあげる。冷めちゃってるでしょ、それ」
「あ、うん、じゃあお願い出来るかな」
コーヒーメーカーのスイッチを入れ、戻ってくると僕の向かいの席に腰をかけた。
「今日は部長来てないんだね」
「うん、まだみたいだね。まだ依頼の調査で忙しそうだったから、今日は来ないんじゃないかな?」
依頼というのは僕たち心霊スポット研究部――通称、SSI(Spiritual Sanctuary Investigation)――が独断で行っている怪奇現象に対するリファレンスのようなものだ。
我々への依頼は当大学の学生でなくとも可能である。部長がHTML5を駆使して組み上げた、無駄にレスポンシブなウェブサイトの投稿フォームから依頼することも出来るので、是非よろしくお願いします。
とはいえ明治時代から科学万能と叫ばれ、はや一世紀を迎えたこのご時世だ。現代では〝信仰〟も〝オカルト〟と名を変え、パワースポットや心霊スポットなるものは、ギャンブラーの験担ぎ、もしくは単なる夏の風物詩と零落してしまった。そんな時代のどこに、どこぞの馬の骨ともわからないアマチュア研究部に調査を依頼する物好きがいようか。
と、このように、先程話題にあがった部長――本名、獅子堂邦生――なる者が苦心の末立ち上げたサークルではあったが、現状は閑古鳥が鳴く始末。部員も、部長と僕と高原さんの三人しかいない。
夏の怪談の季節になれば多少の依頼も舞い込むものの、いかんせん大学は夏休みだ。僕たちを小間使いか何かと勘違いしている地元の主婦による犬猫探しの依頼が大半を占めていた。
そんな中、先月の頭にサークルの顧問だった先生が不慮の事故により死亡。突然の交通事故であっただけに、僕たちはどうすることも出来なかった。うちの部長でさえ涙を流し、一週間は飯が喉を通らない程度にはショックを受けていた。
結果、訪れるべくして訪れたのは、顧問不在であることも理由に来年の部長の卒業を待って、廃部、という現実だけだった。
ただひとつだけ救いなのは、一週間ほど前に珍しくまともな調査依頼が部長のメールに届いたことだろうか。
それ以来、部長はさながら風前の灯よろしく、ここぞとばかりに調査へと当たっていた。部長の話によると昨日がヤマのようだったけれど、果たして調査結果はどのような結末を迎えたのか、僕たちはまだその報告を受けていない。
「今日もやることなし、だね」
つまらなさそうに高原さんがため息を吐いた。マグカップから立ち上る湯気が霧散して消える。そのサイケなうさぎをあしらったマグカップは彼女のお気に入りらしい。可愛いかどうかはさておき、人の好みは千差万別だ。
「まあ、いつものことだから……」
フォローにならないフォローで彼女を宥める。
「最近、取材らしい取材もしてないよね。たまには何処かへおでかけしたいな」
高原さんがブラックを僕専用のマグカップについで、それを目の前にコトリと置いた。
「何処か行きたい所でもあるの?」
一見、倦怠期の男女の会話にも聞こえるそれも、僕たちが相手では全く別の意味へと変貌する。
「中央大通り沿いのふくちあんラーメンの奥のテーブルには女の幽霊が出るらしいよ」
「裏の春日神社の林で女が首吊り自殺したってやつでしょ? 怪しいなぁ」
僕の言う怪しいというのは、幽霊の真偽についてではなく、実際にそのような噂があるかどうかという意味を持つ。
「だって最近はそんな所しか残ってないから……荒本の電柱、富雄のトーテムポールの家、あやめ池の大量殺人の家、全部取り壊されちゃってるし、旧トンや暗峠はまだあるけど、もう行き飽きたって感じはするよね」
荒本の電柱とは布施北高校の近くにある女の顔が浮かび上がるといわれる電柱だ。その付近で交通事故死した女の顔だと言われるが、そんなことでいちいち顔が浮き上がっていたら世の中は幽霊の顔だらけだ。一昔前までは電柱の下に花束が供えられていることもあったが、ネットを調べただけでもそれが誰かの悪戯だと結論付けられるほどに事故があったという裏付けがとれていない。今となっては電柱も塗り替えられていて、その面影すら残っていない。
富雄のトーテムポールの家とは、近鉄奈良線の富雄駅と学園前駅の丁度真ん中辺りにある家屋のことだ。列車事故によって轢かれた男性の首がその家の庭に飛んできたのが発端であるといわれるが、トーテムポール自体が登場するのはその家に住んでいた男性が海外のお土産か何かに買ってきたのが最初だ。男性がその横で謎の変死を遂げているのが見つかった後、それを撤去しようとした作業員が帰らぬ人となった。以降、住人が変わってからもしばらくトーテムポール自体が残されていたことからいつしかそう呼ばれるようになった。電車からそのトーテムポールを指さすと呪われるとか、住人がキャベツを切っていたら血が出てきたなど、くだらない話もおまけでついてくるが今では普通に住宅が建っており、トーテムポールも当然のごとく残っていない。
あやめ池の大量殺人の家とは、強盗によって一家惨殺事件があったと言われるが、その事実自体はどこを調べても出てこない。あやめ池遊園地が閉鎖したのと時を同じくして、その家も取り壊されてしまった。
旧トンとは旧生駒トンネルのこと、おそらく関西ではトップクラスにヤバイと有名な心霊スポットだろう。まず一九一三年、工事中に落盤事故で二十人が死亡。一九四六年にはトンネル内の車両火災事故により、二十三名が死亡。その二年後にはブレーキ破損事故によって、四十九名が死亡というえげつない事故率を誇る。ここで見たと言われる幽霊譚を語り出せばキリがない。とにかく今は、厳重な警備によって守られている。侵入を企めば即座に警察が飛んでくるため、外から眺めることしか出来ない。
暗峠とは東大阪と生駒を繋ぐ国道308号線のことだ。お坊さんの霊が出てお経が聞こえてくるとか色々怪異譚はあるものの、それよりも急勾配の道による酷道としての知名度の方が高いかもしれない。今では多少道もマシになっているそうだが、地形上劇的な変化は期待できないだろう。
とにかく、僕たちはそれこそ色々な有名スポットを調べ回ったものだが、今ではそれもネタ切れだ。誰かが適当にネットの掲示板で書き込んだ内容をそのまま鵜呑みにして調査に至ることも多々あったが、空振りで終わるのが関の山だ。
最近はそれも億劫になり、こうして安楽椅子探偵よろしく現場までは出向かずにただ考察して楽しむことだけが日課になっていた。
「でも、お腹もすいたし、夕飯がてらに寄ってもいいかな」
「じゃあ、決まりだね」
スレきった僕たちには、もはや別の目的を見いださない以上、現地へ赴く動機にはなりがたいのだった。
とはいえ、高原さんが行きたいと言いだした以上、断る理由がないのも事実だった。
「うぅん……なんや、飯の話か?」
僕たちが立ち上がりかけた時、隅のソファーに積んであった毛布がどさりと崩れた。
「ぶ、部長!? いたんですか!?」
「志信が来るよりも早うからおったわ。昨日の調査が徹夜になってもうてな。そのまま部室に泊まった」
「おはようございます」
「おはよう、高原」
寝ぼけ眼を擦りながら、重そうに身体を起こす。ソファーに真っ直ぐ座って、ボサボサになったショートカットをさらにかき乱した。
一見、嫁にきて欲しくない女ナンバーワンの貫禄を誇る風貌ではあるが、こう見えても彼女に言い寄ってくる男子学生は意外に多い。
小柄で華奢な身体つき、体型とはアンバランスに豊満な胸、整った目鼻立ち、普段の部長を知らない男どもからすれば捨て置くには惜しい存在であることだけは認めよう。
「しっかしお前ら、ええ歳した男女が部屋にふたりっきりになって睦言のひとつもかわされへんのか。幽霊だの、自殺だの、色気のないやっちゃなぁ」
大きなお世話を吐き捨てながらメガネを手に取った。覚醒の合図だ。
この室内で一番色気がないのはあんただ、と言いたい所だったが、はだけた胸元から零れ落ちそうな双丘を目にした以上は、言葉を飲み込まざるを得なかった。目のやり場と一緒に別の言葉も探した。
「そういうサークルじゃないですか……そもそも、ここを作ったのはどこのどなたでしたっけ?」
「寝起きに面倒くさい絡みをすな。ほら、飯行くんなら行くで。車出したるから。昨日の昼からなんも食ってへんのや」
部長はいつも大学の前のファミレスに車を止めて通学している。もちろん違法駐車ではあるが、部長曰く『敷地内は駐禁取られへんからな。よってあの駐車場はうちの駐車場や』とのことらしい。
とはいえ、大学から中央大通りまでは歩いていくのに少々骨が折れる。東大阪は近鉄奈良線、地下鉄中央線と東西に横断する電車はあるが、南北に縦断する電車はない。車での移動が楽な以上、部長の申し出を受けない手はない。
「あー、段々腹がキムチの腹になってきたわ」
ラーメン屋へ行くのに頭はキムチのことしか考えていないらしい。
「あ、待ってくださいよ!」
目を爛々と輝かせて出て行く部長について、僕たちふたりも急いで部室を後にした。