10:「嘘」
「痛い。」
俺は、転んでいた。膝から血が出ている。
後ろからついてきた妹が俺に言う。
「大丈夫、いまから、お母さんに教えてもらった魔法の呪文を唱えるからね。」
「そんなの効かないよ。」
「私のは、本当に聞くんだから」
ぎこちない笑顔を作った妹は、膝を擦りむいて血が出ている俺の足に向かって言った。
「痛いの痛いの、飛んでいけ!」
しばらく固まり、真剣な顔で俺の顔を見てくる妹に、俺は、つばを飲む。
「本当だ。痛くなくなった。」
「でも、でも、……涙でてる。」
めざとい妹に俺は精一杯の笑顔を作った。
「本当に痛くなくなった。これは、さっき痛かったときの涙だよ。ありがとな。」
痛みと戦いながら、違和感の無いように立ち上がる俺を見ていた妹は、しばらく黙った後、俺がもう一度笑顔を作ると一緒に笑顔になった。
「私の魔法の呪文、すごいでしょ!」
自信ありげに胸を張って歩く妹の後ろで、俺は何度も涙を拭っていた。
そんな昔の思い出を思い出したのは、大学の帰り道によったコンビニでの出来事があったからだった。
「ちょっと!何よ!どうなってんの!」と騒ぐ人が棚を挟んだ向こう側に居た。店員は見当たらない。さっき見た腕時計が頭によぎる。この後アルバイトがあるのに、時間に余裕はない。棚越しに合った目を反らして、俺は足早に立ち去った。
アルバイトに向かうバスに揺られながら、俺は助けを求めていた人を放っておいて逃げたことに後悔する。いつから、こんな人間になってしまったのか、と。昔を思い返した時に、妹とのやり取りが浮かんできた。あれは確か、おじいちゃんの家に遊びに行った時の公園での出来事だったはずだ。転んだ自分に駆け寄る妹が、痛みを忘れさせようとしてくれる優しさに答えたくて嘘をついた。小さな嘘だ。
そんな嘘も、おばあちゃんが消毒液を傷口にかけた時には、バレてしまったのだが。
あれから何年もたった今日、さっき自分についた嘘は、どんな嘘になるのだろうか。
バスの窓についた雨粒が思い出とともに沈んでいって、雨だった天気はバスの停車と同じく終わり、夜に向かって歩いていた俺の行き先は、朝になるのと一緒に、また別の行き先へと向かっていた。
アルバイトが終わった自分に父から電話がかかってくる。思い出の中に出てきたおばあちゃんについてだった。簡単に頭のなかでまとめると、ガンになったということ。残された時間はまだわからないけれど、もうそんなに長くはないとのこと、だった。考え事をしながら歩いていたら、どこかに傘を忘れてしまった。いつか、そうなることは分かっていたはずだ。だけど、心の準備はできていなかたようだ。
家に帰って、荷物を置くと、妹の部屋に向かった。軽く息を吸い込んで、ドアをノックする。
妹が、誰と聞く。俺だ、と言うと、なんだ、と返ってきた。
「入るぞ」
「どうぞ」
妹は机に向かったまま、何の用? と、言葉を続けた。
「お前はどうするんだ。」
妹は、一瞬顔を上げてから、また手元に視線を落とした。
「なんのこと?」
「おばあちゃんのことだ。」
「ああ、あれね。私は」と妹が言葉を途切らせ頭を上げたかと思ったら振り返って俺の顔を見た。
「行かないわよ、会いになんか。」
俺は説得しようとした。だけど、それは失敗に終わる。
今なら会いに行けるけれど、二度と会えなくなる日はとても近い。妹が生まれてきたとき、とても喜んでいたおばあちゃんの顔が頭をよぎる。わざわざ遠いところから都会に出てきて疲れていたはずなのに、本当に嬉しそうに微笑みながら、妹の眠る顔をいつまでもガラス越しに見守っていた。澪、と妹の名前を呼ぶおばあちゃんの声は、今でも思い出せた。
「……で、だから、なんなの」
妹の心には、俺の言葉は、何一つ届かなかった。
「用が終わったなら、やることがあるんだから、早く出て行ってよ。」
「ああ、分かったよ。」
俺は静かに部屋から出て行った。
癌になったおばあちゃんは父親の母親だった。妹は、父親になついているはずなのに、なぜか冷たいように感じる。父親も父親で、仕事の調整が上手くいかないのか、まだ会いには行っていないらしい。冷たい。どうして、うちの家族はこんなにも冷たいのだろう。
「うん、うん。おじいちゃん、来週にはそっちに行くからね。わかった。じゃあ、切るよ。うん、うん、またね」何度目かの電話越しに聞こえるおじいちゃんの声。家族で、会いにいくのは俺だけだった。
あったらきっと聞かれる。家族はどうしたんだ、と。言えない。本当のことなんて、とても言えない。
だから、俺はその話にならないようにしなければならない。何があっても、絶対。
電車を降りる。何時間も乗ってきた座席から立ち上がるとき、腰が痛かった。ホームに立ち息が白くなった。都会とは違って、寒さは厳しい。
駅の改札を抜け、ロータリーに出ると、止まっていた車の前におじいちゃんは立っていた。
「おじいちゃん」
こっちの声に反応しておじいちゃんは笑う。
「おお、元気にしてたか」
「元気にしてるよ。おじいちゃんこそ元気? 体は大丈夫なの?」
にっと笑ったおじいちゃんは言葉を続ける。
「この通り、ぴんぴんしとるわ。」と、笑う。
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんは、まだ病院に居るから、明日会いにいこうな」
前よりも、やつれたように感じるおじいちゃんに胸が苦しくなる。
辺りを見渡すおじいちゃん。俺は、マズいと思った。すぐに何か話さなければ。だけど、吐いた息のように頭のなかは真っ白で、話をしなくちゃという考え以外、何一つ思い浮かばなかった。
「澪は、一緒に来てないのか」
息が詰まった。短い沈黙の後、俺は笑顔を作る。
「澪は、来たい来たい言っていたんだけどね、うまく都合が合わなかったみたいでさ。」
おじいちゃんは、そうか、と言って頷くと、微笑んだ。ここまで長かっただろう、荷物を降ろしてゆっくりしなさい。
「うん。……きっと、きっとさ」廊下を進んでいたおじいちゃんが振り返る。
「予定がうまく合えば、きっと澪も親父や母ちゃんも来るからさ……」
おじいちゃんは、微笑みながら言った。「ありがとう。幼い頃から誰よりも優しいところは変わってないんだな。」
俺は口を閉じる。おじいちゃんは、さあ、何もないが晩ご飯の準備は出来てるから、上着を脱いで早く来なさい。」
違う。
「ありがとう。今すぐ行くよ」
違う。そんなんじゃない。
「本当なんだよ、家族のみんなから行ったら様子を教えてねって、念を押して言われたんだから。あっ、これは秘密だったけどね。」
俺は誰かに優しいわけではない。
「分かった分かった。そうかそうか。みんな、ちゃんと食べてるのか? 風邪とか大丈夫か?」
すべて自分が嫌な思いをしたくないから、嘘をつく。
「うん、みんな元気にしてるし、お母さんが毎日美味しい料理を作ってくれるしね」
笑顔を作りながら、妹や両親のためじゃない、自分に優しい嘘を俺はつく。