出会ってしまった。
「ねえ千代ちゃん、聞いてる?」
弾かれた様に私は顔を上げた。
小さな部屋。中心には普段書き物もする卓。既に冷めた茶碗の向こう、不機嫌そうな友の顔があった。
ああしまった。またやってしまった。
「ごめんなさい」
「いいけどさ。慣れてるし。今度は何処のところ?」
は、とため息をつくと、しげりさんはぐい、と私の方に身を乗り出してきた。
「代数」
「あーあれは私も嫌いだった」
「そういう子が麹町でもやっぱり多くてね、それでいて私がまた説明が下手だから」
「そりゃあんたは、自分が良くできるからね」
「そうなのよ。私正直、その辺りがいつも困りものなの。私の担当する級の進みが遅いって嫌味言われちゃったから」
「だから北大目指す方がいいって、前から言ってるんだけどなあ」
私は黙って苦笑する。
確かに東北帝国大学で学び、研究するのは確かに私にとっては夢だ。
だが私は長女だ。下に弟妹が沢山居る。お金のかからない高等師範だったからこそ、私は通うことができた。それ以上のことを望んでは罰が当たりそうな気がする。
いつか、という思いが全く無い訳ではない。とりあえずは、現在勤務している麹町女学校の少女達にせっせと数学の楽しさを教えるのが精一杯だ。
だが麹町の少女達は、私の通っていた官立とはまるで雰囲気が違っていた。
とてもいい子達であるのは分かる。だが勉学の水準は、というと……
そこで悩む。
自慢になってしまうが、私は第二高女でもお茶の水高等師範でも、数学は良くできた。
だからこそしげりさんは私を未だに東北帝大へと誘うのだが―― それが教師としてはあだになっている。
一応高等師範では、女学校での教え方を学んだ。だがそれだけでは上手くいかない。何せ、私は彼女達が教科書の何処が何が分からないのか、理解できないのだ。
結果、始終頭の中でこうでもないああでもないと、とある問題の解法の説明を考えるということになる。
「そっか。まあそれで頭が一杯だったと。でもね、今は私と話してたんだよ。いきなり何処かに飛んで行かれちゃたまんない」
「……ごめんなさい」
「いやいや、あんただから許すんだよ、千代ちゃん。他の誰でもそうする訳じゃあないね」
さすがに彼女にそう言われると嬉しく、面映ゆい。
彼女―― しげりさんとは、第二高女で出会い、そのままお茶の水で彼女が中退するまで一緒だった。
私は、自分にとっての彼女は親友だ、と思っている。彼女も恐らくそうだろう。そうあってほしいと思う。口に出して聞いたことはないが。
「ありがと。……で、何の話だったかしら」
「はいはい。じゃあこの太郎冠者が説明してしんぜよう」
戯けた調子で彼女は茶碗を掲げた。
「ほら、私ここのところ、あの人の所、よく遊びに行くんだけど」
「あの人?」
「あの人よ。吉屋さん」
「ああ……」
私は大きくうなづいた。
この時私はまだ吉屋さん、という人について殆ど知らなかった。
作家だということは知っていた。
だが作品を読んだことは殆ど無かった。
生徒達が持っている『花物語』や、東京朝日新聞に連載していた「海の極みまで」ならちらと見たことがある程度だ。何やらきらきらした文章の人だなあ、と感じたことがある。
しげりさんは何でも、その吉屋さんと、徳富蘇峰先生――彼女の勤める民友社の社長――が姪御さんのために開いた外遊壮行会で知り合ったという。
以来、しげりさんは吉屋さんの自宅をよく訪れる様になったという。
大体においてこの人は何事も待ってはいない。何か興味があるものには自分から出向いて行くのだ。
記者になったのもそうだが、婦人の権利に関する運動についても、実に精力的に動いている、らしい。
その「らしい」という辺りが私の意識の程度とも言えるが。
「で、この間吉屋さんと、女の友情はあるか否か、という話になった訳」
「あるでしょ」
「私もそう思うよ。だけどあのひと言う訳さ。『ありえない』って」
「へ?」
目を瞬かせた。
「だって、『花物語』の作者さんでしょ?」
「そうだよ、あの『花物語』のさ」
『少女画報』や『令女界』といった雑誌にあちこち書かれる、花をモチーフにした一連の少女向け短篇小説群。その人気は少女達の中では凄まじいものがある。私の生徒達も言わずもがな。
あ、そうそう。
「そう言えば、この間、『睡蓮』って話が、悲しかったって生徒が言ってたわ」
「『睡蓮』? ああ、あれ」
ひゅっ、としげりさんは口を歪めた。
「あれだけ女同士がひっつき合っている話を書いてるひとが、いきなり裏切り話か、と思ったね。まあ、裏切りって言うか、『所詮そんな人だったのか』だね」
「『花物語』にはそういう話って、今まで無かったかしら」
「あー…… 話多いからね。けなげな子の話とか、相手のために身を引くとか、結婚を強いられて海で行方不明、とか、色々あるけど…… あーそうそう、確か、クラスでノートを回す話が、それに近かったんじゃなかったかなあ。まああれに関してもちょっと私的には言いたいことはあるんだけど」
「何?」
私は首を傾げた。何やらかゆいものに手が届かないといったような表情でしげりさんは続けた。
「いや、その話…… 竜胆だったかなあ? 何かうろ覚えなんだけど、クラスの人に回すノートにさ、誰か書かれてるのか一発で分かる様な人の行動と、自分がその人に陰で嘲笑われていたこと、それを見てしまったこと、だけど花を見て『そんなことは忘れる』決意するなんてこと書くなんて、私からしたら『ありえない』よ」
まあねえ、と私はうなづいた。
「だって現実問題、そんなこと書く子、私だったら嫌だね」
私も麹町の少女で考えてみる。
「確かにそれでまた、嫌がらせされてもおかしくはないわね。あの年の女の子達って、残酷だもの」
「そうだね。まあそれでクラスの人達が反省してくれる、っていうのを書きたかったんだとは思うのさ。で、書いたみそっかすの子は謝られる、って展開に読ませたい」
「現実感は無いわね」
「きらきらした『おはなし』ならそれでいいさ。まあそれに比べれば、睡蓮の話の方が、辻褄はあってるね」
「睡蓮」
「仲が良かった画家志望の子達も、片方が賞を取った途端、隠してた手の不具を言いつらう、っていう方が、確かにリアリティはあるな」
「でもいい気分じゃないわ」
「さすがにそこんとこは、考えたんだろね。不具だけど才能がある子は、身を引いて人知れず、それでも少しでも絵に関わりのある仕事をしている、ええと、土産ものの人形を作ってた、と思うけど。先生に見つけられて、またそこからも姿を消す、っていうから、綺麗は綺麗さ」
ふうん、と私は肩をすくめた。そしてついこうつぶやいてしまう。
「不毛ね」
合理的じゃあない。全くもって。
「うん、不毛だね。何でそこで引き下がってしまうんだ、って私だったら思うよ」
「でもそのへんが、うちの生徒達には大人気なのよね、たぶん」
先生読んでみて、と勧めてくる子もいる。可愛いものだ。
だけど正直、途中で読み進めるのは無理だと悟った。
文体もそうなのだが、この人生に対するやる気の無さが蔓延している感、霞を食って生きているのか感がたまらない。嫌だ。
でもさ、としげりさんは続けた。
「私さあ、あのひと本人は面白いと思うんだ。って言うか、変わってるよ」
「変わってる?」
「うーん、何って言うのかな。時々何というか、行動に、理解できない部分はあるんだよね」
彼女が理解できない部分。想像がつきにくい。
「そうそう、自分の文章けなされると、一応従順に聞いているんだけど、実際のとこ、もの凄く顔に出るんだよね。あなた何も判ってない、って言いたいのに言い返す言葉が出て来ないっていうか」
「へえ」
「ああそう、『屋根裏』を途中で投げ出したって言ったら、もの凄く嫌な顔されたな」
「屋根裏の二処女」のことか、私は読んだことが無いが、生徒達の中でもどっちかというと、こっそり回されている印象が強い。
「投げ出したの?」
「うん。降参。勘弁してくれって感じで最後まで読めなかったって、正直に言ったんだけどね」
思わず私は引いた。
「そんなこと言っていいの」
「……いやだって千代ちゃん、何って言うか…… もう屋根裏の描写一つのくどくどしさと自虐性でで参ったよ。そこでお手上げ」
あらまあ、と私は呆れた。
「だからこそ、本人は面白いよ。何せ本気で書いてたって言うし。あちらこちらに彼女が常に口にしてい美的感覚とかも出てきたし。というか、そもそも設定が彼女そのものだし」
本気ということは。嗚呼。
「私小説ってこと?」
「みたいなものかな。聞いてたYWCAの時の生活とか、だぶるし」
「それを投げ出したわけ。そりゃ怒るでしょ」
「だって無理は無理だよ。甘いお菓子が美味しかったとしても、それをご飯にはできない」
きっぱりと彼女は言う。
何やら私の中に疑問が湧き上がった。
「幾つ? 吉屋さんって」
「二十五……六? ああ、もうじき誕生日って言ってたな」
「はああああ?! 私より上じゃないの!」
今度こそ信じられない、と内心私は嘆息した。
正直、文学というものや、その世界についていま一つ関心が薄い私は、吉屋さんについては本当に「学校の子供達が騒いでいる人気作家」というイメージしかなかった。
実際それはそれで正しかったのだと思う。
この時期の彼女の創作の基盤はまだこの時代、大人向きの小説ではなく、童話や少女小説だったからだ。
しげりさんによると、「花物語」も当初は、オールコットの同名の作品よろしく、炉端の七人の少女が花にちなんだ物語を語り出す、という形だったらしい。
「それがどうして?」
「そりゃ、人気が出たからでしょ」
でも最初は雑誌への投書から始めたらしい。彼女によるとね、としげりさんは続けた。
「『少女世界』ってあったじゃない」
「あまりよく覚えてないけど」
「あなたらしいわ。ともかくそこは、何回も入選すると『栴檀賞』ってメダルがもらえるのさ」
「吉屋さんは」
「無論もらったって。でもさすがにその雑誌では飽き足らなくなって、『文章世界』や『新潮』にも送る様になった訳」
「ああ」
その辺りならよく耳にする。そっちは生徒ではなく同僚の方からだ。
「で、『花物語』が世に出た頃、彼女が『新潮』に出したのが」
しげりさんはそう言うと、風呂敷包みの中から冊子を幾つか取り出した。まず『新潮』の大正五年一月号、とあるものを手にし、ぱらぱらとめくる。
「そういえば載ってたな、と思い出してね」
開いて見せてくれたのは、「幼き芽生より」と題された一文だった。見てみてよ、という言葉にうながされ、私は手に取った。
「佐渡生まれなのね」
「でもお父様がお役人だったからね、結構引っ越し引っ越しだったらしいよ。ただねえ」
ここ、と彼女は一文を指す。
「これはどうやら作り話らしいよ」
「作り話?」
それは「叔母さん」のことを書いた箇所だった。
****
―――叔母なる人は若き娘だった。暖かい柔かな愛に私を抱いた。若き叔母は都のミッションスクールの寮舎に学んでいた。休暇毎に美しいカードやお伽噺の本ほ、お土産に持って帰って幼い子を喜悦に満たすのだった。やや縮れたる黒髪をS字巻にして紫矢飛白の被布を着たる気高い姿を乗せた船を私は浜撫子咲く渚に毎日待ち焦がれるのだった。しかし、若き叔母は私が七ツの春天国に召された。そして銀の星になって永久にみ空に輝いた。
遺品の首飾りマドンナの像は、あまもなお悲しみに喜びに私に力を与うるものである。―――
****
「綺麗な叔母様が居らしたんですね、とお家に伺った時に、お母様はハテ何のことやら、と心底不思議そうな顔をなさったんだよ」
「お母様とお話しもしたの?」
「たまたまね」
しげりさんは肩を竦めた。
「三番目のお兄さん夫婦のとこに、今は住んでる訳。そこにお母様と弟さんも同居。まあ何というか、息が詰まるんじゃないか、って思うね」
「でも会えたんでしょ?」
「厠に立った時に廊下でたまたま。『物好きな』というお顔なさってたから、この文章のこと思い出してさ、言った訳。そしたら居ない、っていう訳」
「どういうこと?」
私は首を傾げた。
「考えられるのは二つ。千代ちゃん推理してみな」
「ええと」
しげりさんは頬杖をついてにやにやと私を眺めている。
「一つは叔母様が『居た』場合。この場合は、お母様がその叔母様のことを隠したい、と思っている」
うんうん、としげりさんはうなづく。
「もう一つは叔母様が『居ない』場合。この場合、文章そのものが虚構ということになるわ。でも」
「でも?」
「何でそんなことをわざわざ書くのか、その理由が分からないんだけど」
「それは私も解らないね。ただ私は二番目の方だと思ってるよ」
「何故?」
「お母様の反応が、鳩に豆鉄砲だったからさ」
ああ、と私はうなづいた。
「どうもあそこの親子は、しっくり行ってないようだね」
「人様のおうちのことをそういうものじゃないわ」
するとしげりさんは鼻でふっと笑った。
「千代ちゃんあんたは、母上の理解があったからね。まああんたの頭が飛び抜けて良かった、ってこともあるけどさ」
「……否定はしないけど、でも、それ以上に私が不器用で、先生になるしかない、って母さんは見抜いてただけよ」
「それでも、さ」
彼女は苦笑する。
「大概の母親って奴は、不器用でも何でも、普通の娘らしく、を望むもんじゃないかい?」
考えてみる。
確かに自分の抱えている生徒達にもそんな様子は見られた。
裁縫の先生が洩らす。教えても教えてもどうしようも無い子を、それでも何とか形にしなくちゃならないですよ。ほらそうでないと、婚家で苦労しますからね。
衣類は皆自宅で手作りが普通だ。
麹町の子達の家庭は大概、女中が一人二人居てもいい様なお宅だ。それでも「奥様」が何一つできないという訳にはいかない。そこまで免除されるのは、もう本当のブルジョワか華族さまと言ったところだ。
ある程度の裕福な奥様が幸せに暮らすには、家政に関するあれこれは必須。――出来は問わないが。
「何かって言うと学校から再提出の課題持って来た時に縫い目が波打ってるとか、糸がほつれてるとか言ってはくれたわ。だけど、だからこう言ったのよ。『だからあんたはよくできる勉強で身を立ててそういうことをしてくれる女中さんを雇える様になりなさい』って」
「うんそれはそう思う。けどそれは珍しい、というか進歩的な頭だからだよ。あんたの母上が。吉屋さんとことは違う」
「違うの?」
「どうやら、違いそうだねえ」
再び彼女は苦笑した。
「会ったばかりの私に対して、小説なんか書いているから、嫁の貰い手が無いだの、変な女なんかと問題起こして、とか言っちまうんだからね」
「変な女」
「ま、その辺は失言だったらしいけど」
思うところがあるらしく、しげりさんはそれ以上話を広げることはなかった。私は文章の続きに目を通した。
「……それにしてもずいぶんと勇ましいわね」
「ん? どの部分?」
私は叔母の話の少し後を示した。吉屋さんの宣言めいたものだった。
****
―――私は、淫楽に不義に邪道に卑しき驕慢の偽りの芸術に赤く燃えて歓楽の焔をあげている、この現代の日本の赤き世紀を見た。過られたる尊敬ほ払われている憎むべき芸術家が余りに多くはびこって、芸術の純白の象牙の塔の階を汚しているという事実は、私に狂気させる程鋭い感激を迸らせた。(……)私は、今汚く卑しき偽芸術家を掻除けて塔に馳せ登り、聖き扉を開いてオルガンの鍵を打ち鳴らさねばならない。寂しく、そして敬虔なる霊の奏曲は人類を眼覚めさせ救うことが出来るであろう。
私は霊の曲を奏さなければならない。――人類の為に、神の為に。―――
****
「は。私が『屋根裏』で駄目だったのはこういう書き方だったね」
「真剣なのか冗談なのか判らないわ」
「いやこれ真剣だよ。当人、今でもそう思って私に何度もそういう話したし」
「でも『ならない』ってのが気に掛かるのよ」
そう、どうも引っかかる点は幾つもあるのだ。
ともかく吉屋さんは今から七年前、この様な気持ちを「本気で」持って進み出したらしい。
四年後、大阪朝日新聞の懸賞で「地の果まで」という長篇が一位当選した。そのまま連載され大人向けの小説の世界でもデビューできたのだ。
そして一昨年、やはり朝日の、今度は東京も含めて、「海の極みまで」を連載していた。
「まあどっちも舞台にかかったし。『海』は私は華やかな女主人公が格好いいと思ったね。『真珠夫人』の瑠璃子さんを思い出したよ」
「私はどっちかというと『虞美人草』の藤尾さんを思いだしたけど」
「でもまあ、瑠璃子さんより強烈だったね。何せ自分を孕ませて堕胎に持ち込ませた男を最後、殺そうとして自滅するって言うんだから。瑠璃子さんは、って言うか、菊池先生はそこまでできなかった」
「私そこまで読んでなかったけど」
「貸そうか?」
「そうね、お願い」
暫くして、私はしげりさんに呼び出された。
「今日は時間あるって言ってたからね。ちょっと遅くてもいいよね?」
「まあ―― 今日はある程度は」
「今日、吉屋さんの誕生日なんだよ」
「お誕生日!」
「でさ、まあ私としては彼女への贈り物に、わが最愛の親友を見せてやって、彼女が否定したがってる『女の友情』を突きつけてやろうってさ」
ぐいぐいと手を引っ張るしげりさんに、私はただついて行くしかなかった。
大正十二年一月十二日のことだった。
お昼御飯を吉屋さんの家で一緒に―― それがしげりさんの出した提案だった。
悪くないと思った。ただ向かい合っているだけでは何処から話を切りだしたものか判らないが、そこに食事がある、それだけで何かと話の切欠を作ることはできる。
「いらっしゃい―― 門馬――千代さん?」
綺麗な声が、独特の抑揚で耳に飛び込んできた。そして私の目の前に現れたのは。
……座敷わらし?
いやいやこんな大きな座敷わらしはいない。だけどまず浮かんだのはその言葉だった。
だって。
ぱつんぱつんに短くされた前髪。
いや前だけじゃない。髪は横も後ろも…… 肩のずっと上、耳の辺りまで髪は思いっきり切り揃えられていた。
要するにもの凄くぼつ、ぼつと出だしていた女性の「断髪」だった。
短い髪の女性。それは私の世界の中に存在しないものだった。
尼さんならもうくりくりに剃ってしまうだろう。でなければ、古典の世界の「尼そぎ」。
そんな髪をした同世代の女性。しかも米琉の対の着物は、ひどく「着られている」感じを私に与えた。
すぐにその理由が判った。彼女は大柄な上に、ひどくいかり肩なのだ。――――当時の日本の一般女性では珍しい程に。
「どうぞ、あがって頂戴な」
ほらほら、としげりさんも私をうながした。
話は弾んだ。
いや、話が転げ回ったというべきだろうか。
しげりさんによる最初の紹介以外、殆どの会話の主導権は吉屋さんが握っていた。
「数学の先生! 私はとてもとても駄目。でもあなたの様な人に習ったらきっと成績も上がったんじゃないかと思うわ。だって情熱を感じるんですもの」
「……どうでしょう」
「私も少しだけ講師をしたことがあったけど…… 駄目駄目ね」
「駄目だなんて」
「ううん駄目駄目。綺麗な生徒が居るとついつい目が引き寄せられてしまって。公平であるかし、のはずなのに、困ったものだったわ。経験としちゃいいけど、私の様な先生は駄目ね」
後、何を話しただろう。
ともかく彼女のあっちへ行きこっちへ行く話を、私は何とか受け止めてはまた投げ返す、ということを繰り返していた。
飛び回る彼女の話を受け止めるのは、なかなかに苦労が要った。
彼女は非常に広く知識を持っている様だった。だが深くはなかった。
「それにしても、ご理解のあるご両親ね。娘が外で働くことを許してくれるって。私は一度失敗したら、それみたことか、って感じだったわよ。それこそ今の仕事を色んな方が回してくださるから、まあ、何とかやっているけど」
「『花物語』は売れているじゃないですか」
「そうね。でも女の子にだけだわ。確かに連載やったけど、その後全く新聞とかからは音沙汰無いのよ」
「じゃあこの先、大人の作品を書かないんですか?」
「書きたいわよ、そりゃ。ああでも無論少女のための小説もね。だってそうでしょう? 少女には綺麗なものが必要だわ。甘い甘いお菓子が必要な様に。だって少女の時代って、とっても短くて、儚くて、だからこそ大事にしたいじゃないの。ああもう、何だって皆、あの頃本当に仲良くしてくださった方々もどんどん家庭ってものに入ってしまうんでしょ。そしてそうすると私のことなんて全く忘れてしまうのよ。あんまりじゃない? あの一番いい時を過ごしたって言うのに、そんなことあったかしら、みたいな調子でお手紙しても返してくるのよ。私はあの頃と同じ気持ちでいるのに」
私は言葉に詰まった。
それは当然だと思う。結婚する前と後では、何処に重きを置くかが変わってくる。
「ねえ、結婚ってそんな大事かしら?」
「今のところはする気は無いから、判らないけど。しげりさんは?」
「まあ、一度やってみて思ったのは、面倒、だったかな」
あははは、としげりさんは笑った。
「そう、面倒よね。だってそうじゃない。男って、自分ではタテのものをヨコに動かすこともしないじゃない。それって旦那さんだけじゃないのよ。うちなんてほら、男兄弟ばかりて、私、いつも兄や弟からあれ取ってこれやって、って。女中じゃないのに。お母さんもそれが当然、って顔してるから余計に腹立つわ」
「でも、女中さんが居ない訳じゃないでしょう?」
少なくとも吉屋さん宅は、お父様が郡長をなさっていたという士族系だ。それでいて子沢山。
「そりゃあそうよ。じゃないとうちなんか回っていかない。だいたい私、すっごく不器用なんだから。やれって言われたって着物なんか縫いたくないし、味噌の分量間違えるなんてザラだし」
「不器用…… には見えないけど」
「不器用なのよ、ね、しげりさん、見たことあるでしょ? 私の雑巾」
「ああ!」
あはは、と快活な笑い声が飛んだ。
「あなた本当に、真っ直ぐ縫えない人なんだったわね」
「そうなのよ。自分では真っ直ぐ縫っているつものなのに、どうしてかどんどん逸れていってしまって……」
「それだけじゃないわよ。縫い目が大きすぎるってお母様嘆いてらしたじゃない」
「ああもうお母さんったら! そういうこと人にべらべら言うんだから」
吉屋さんはふいっ、と横を向いた。子供みたいだ。
「あの人は、いっつもそう。私のすることなすこと全部気に入らないのよ。こうやって小説書いていられるのは、お母さんでも目にする様な朝日新聞の懸賞で一等とっただからであって、私の書いたものの中味を認めてくれる訳じゃないもの」
それはそうだ、と思う。
あの綺羅綺羅しい文章が、しげりさん曰くの堅そうなお母様に果たして理解できただろうか。いや無理だろう。
正直私も吉屋さんの文章に関しては、かなり退いていた。
しげりさんに「会わせてあげる」と言われてから、改めて彼女の本に目を通したのだけど、……やはり駄目だった。
「花物語」はまだいい。短篇で、一つ一つ違う設定を作り、そして余韻で終わらせる。これは何とか読める。多少の努力は要るが。
「地の果まで」と「海の極みまで」は、先に「地」を読んで、何となく首を捻りたくなったので、「海」を先に読むことにした。
華やかだ、と思った。
だが中に出てくる夢見がちな男女に関しては、ひどく嫌な感じがした。
深川の描写で、「貧しさから汚い、だから良くない」場所とばかりに強調しているのがどうも気に掛かった。
他の短編も一応眺めた。その中で一つ気になる童話? 小品?があった。
「小さき者」と題されたそれは、極端に夢見がちな小学生の少女が主人公だった。――それこそ、「屋根裏」の主人公の子供の頃の様な。
だが少女は「屋根裏」の主人公より更に現実離れしていた。
授業中でも想像の世界に入っていってしまい、「うしうしもうもう」と唐突に歌い出してしまう。
白昼夢。
端からみれば奇異なこと間違いない。
「屋根裏」の主人公は鬱々としながらも、何とか自分の夢見がちな習性を飼い慣らしていた。
だが少女は無力だった。
白昼夢に広がる想像力は現実に対抗するのに全く役立たず、教師からも軽蔑され、与えておいた罰すら忘れ去られてしまう存在として描かれている。
そしてどうするか。少女はそのまま(おそらく)死を選ぶのだ。無論直接的には書いていないが、行き場も無く、白昼夢の中に消えていく。
嫌な話だ。
本気で思った。全くもって救いが無い。
尤もこれは「屋根裏」以前の話だ。想像力過多な少女にも多少の救いを求める意欲が湧いたのだろうか。
「千代ちゃん、黙ってないで何か聞きたいこととかないの?」
ぼんやりしていた私にしげりさんが言葉を促す。私は吉屋さんの方を真っ直ぐ向いた。
「質問していいですか?」
「何でしょう」
私は頭の中でざっと作品への疑問を整理した。
幾つもある。だが下手に聞けばするりとかわされてしまうかもしれない。とりあえず。
「『地の果まで』の緑さんは、最後まで伯父さんには何も謝らないですよね」
「そうだったかしら」
吉屋さんは軽く眉を寄せると考えた。
「私は特に、謝らなくてはならない様な所は無かったと思うのだけど」
「ええと」
本気だろうか? 彼女を見つめる。本気だ。本気で首を傾げている。
「地の果まで」のヒロイン、春藤緑は夢見がちな「屋根裏」とは違い、弟の栄達のためには自分は全てを投げ打たねばならない、と「思いこんでいる」女だ。極端なまでに。弟がその圧迫に苦しむ程に。
緑は「世間の常識」で話す伯父に自分の正義をとうとうと述べる。
だけど彼女のそれは、まるで世間を知らない子供の発言だ。
二十歳をとうに越えた、大きな子供。姉や義兄の視線にもそれは含まれている。奇妙な位に。
そしてついには伯父に「悪魔」とののしって失神しまうのだ。
緑は自分の意見を通すことしか知らない。
相手の意見を聞く耳を持たない。
伯父の示す常識的な未来を軽蔑し、その一方で弟の性格を無視して「常識的な栄達」を強制する。
最終的には緑も弟の死をかけた家出に打ちのめされるのだけど、だからと言って、それで彼女が変わるという訳ではない。
大人しくはなるとしても、感化されるのは親友の方であり、緑はその親友に現実的な対処を全て任せる。
日々の新聞で読むなら、何となく勢いで通してしまうかもしれない。
だけど私が読んだのはしげりさんから借りた単行本だ。まとめて読むと、緑の行動には首を捻る箇所が多すぎる。
「そう言えばこの名前で吉屋さんは投稿したんだよ、春藤みどり、ってね」
しげりさんは本を貸してくれる時にそう言った。ならば。
「私、やっぱり緑さんは伯父さんに謝るべきだと思ったんですけど」
「え?」
露骨に彼女は顔をしかめた。
「だって、緑さんは少なくとも伯父さんに対して、『悪魔』と罵ったことに関してはこの和解の場面では謝った方がいいと思ったんです。それでなければ――」
「そうじゃなかったら?」
「ただの世間知らずの頭でっかちさんの擁護小説だわ」
「千代ちゃん!」
「吉屋さんが『そういう』ひととして緑さんを書いたならそれはそれでいいと思うの。でも、吉屋さん無意識なんですよね」
嗚呼、とばかりにしげりさんは手のひらで額を打った。
「私はしげりさんが紹介してくれた様に、文学のことなんかさっぱり判らない数学教師だから、理詰めでしか考えられないんです。構成とか、この人物はこう動いた方が自然だ、とか」
「緑が謝った方が、あのきょうだいに冷たかった伯父さんに膝を屈する方が自然だっていうの?」
「常識として。大人の行動だと思うわ」
ひやひやしているしげりさんを横目に、私は吉屋さんに思うことを告げた。
吉屋さんは黙る。
怒っただろうか。まあその時はその時だ。私は答えを待った。
「……だって、お話よ」
「お話」
「作り話。私の見たいものを書いたっていいじゃない」
「吉屋さんはああいう緑さんを見たかった? 自然だと思っているの?」
「緑には、彼女の思うことを正直にさせたつもりよ。伯父さんはよくある親切な常識を振りかざすひとにしたかった。そうやって皆を動かしていったら、ああなった。それだけ。だからどうして緑が謝らなかったのかって言えば、緑は謝りたくなかったのよ」
嗚呼。やっかいな人と、私は出会ってしまった。
少なくともその時私はそう思った。
「また来てね、ねえ、絶対よ」
その日彼女は私を何度も何度も引き止めた。帰らせたくない様だった。
ええ必ず、と私は答えた。
このひとをもう少し観察してみたい、と思ったのだ。
それが私と彼女の生涯に渡る関係の始まりだった。