その4
――参ったな。昨日の内にこっちの用事も済ませておくべきだったか。
湧水を汲みに崖下までやって来たアートは、どでかい樽を脇に抱えたまま困り顔をしていた。肝心要の水が凍ってしまっていたから。表面だけでなく、全体全容。
――麓まで下りて湖に行けば、さすがにここまで凍ってはいないだろうが……それも骨が折れるな。溶かすか。いや、こんなことでわざわざ火を起こすというのも少し違うな。罷り間違っても火事は出すまいが。
結局。昨日と同じように山を下りたアートは、麓の湖を訪れていた。ある意味では彼の予想に反して、件の湖は表面さえも凍っていなかった。ならばさっさと目的を達すればいいものを、魔術師はただ立っていた。湖と自身の間に、一人の少年を隔てて。
「君は、ショーン君だったな?」
「あ、アートさん……こんにちは」
「ああ、こんにちは。と言っても、まだ九時前だがな」湖の前に一人座って呆けていた少年はショーン・ヘッド。「こんなところで何をしているんだ? 寒くはないか?」
「別に何も。寒いです」
「そうか。だろうな」
そこで会話は途切れてしまう。元々昨日今日会ったばかりの相手同士である上に、年齢は三回りほど離れている。いきなり会話を弾ませろという方が無理難題。だが沈黙とは、耐えられない人間にとって最も耐えがたい空気である。五秒ほどの時を挟んでから先に口を開いたのはショーン。
「……アートさんは、何をしに来たんですか?」
「儂は水を汲みに来たんだよ。ところで。今さっき『別に何も』と答えてくれたばかりだが、この寒さの中、何の用事もなくこんなところへ来るということはないだろう」
「でも、本当に何もしてなかったんです」
「本当に何もしていなかったって。まあ、まさか泳ぐわけにもいかんしな。氷も張っていないからスケートも出来んし。敢えて言うなら、湖を見ていたのか」
「敢えて言うなら、そうです」
「そうか」再び沈黙が訪れそうになる。だがその前に、強い違和感を覚えたアートは訊ねる。「何か悩みがあるんじゃないか?」
「え?」
奇術師でも見るような目で、ショーンは魔術師を見上げた。しかしその目はアートからすれば心外であった。こうまであからさまな浮かない表情を見せつけられては、よほどの朴念仁でない限り少年の異変に気付くというものである。魔術師や奇術師や易者でなくとも。まして二人は昨日、一応の会話を交わしており、その時にアートはショーンの明朗さを確認しているのだ。
「ショーン君、悩みがあるなら儂に話してみないか? 無理強いするわけではないが」
「う」
「……………………」
急かすことも催促することもせず。アートは黙って待つ。さっきよりもずっと長い沈黙の時間が訪れる。十秒、十五秒。とうとう水を汲もうとして歩み出したアートの背に、意を決した様子のショーンが声をかける。
「あ、あの!」
「あん?」
「ウェールズの言葉、教えてください!」
「なるほど。事情は分かったよ」未だ湖の傍。ショーンとアートは向かい合って腰を下ろしていた。「しかし、ウェールズ語を覚えたいのなら、別に儂に教授を頼まなくてもいいんじゃないか。確か雑貨屋の店主が、英語もウェールズ語も話せるんだろう?」
「それはそうなんですけど。あの人は、ちょっと怖くって」
「……自慢じゃないが、儂より怖い人間はそうそういないと思うぞ」
「えっと、見た目とか雰囲気のことじゃなくて」悪気がないのがなお悪い、失礼な発言。「なんていうか、ほんの少ししか喋ったことなくて、よく知らないし。悪い人じゃないと思うんですけど」
「なるほど。それで〝怖い〟か」
怖い人、という意味ではなく。対するのが怖い。相手側のことを表す修飾や形容詞としての『怖い』ではなく、己の感情として『怖い』ということ。
「アートさんには昨日、お世話になったから、優しい人だって知っているし」
「自分で言うのも妙な話だが、あんな短時間だけで信用されても困るな。得体の知れなさでは、儂の方が圧倒的に上だろうに。あの町で儂の評判でも訊いてみろ――って、聞けないのか。ごめんよ。いや、なんにしてもやはり儂に頼むのは間違いだよ。第一、人に物を教えるのは得意じゃない」
「そう、ですか。ごめんなさい、無理言って」
ひどく落胆した声を出し、ショーンの視線はアートから再び湖の方へ。そのまなざしはまるで見捨てられた子犬。実際、ショーンの心は『見捨てられた』という感情に支配されていた。
「少しだけなら、いいだろう」
「え?」
「一日に一時間、いや二時間ぐらいまでなら。構わない」
「本当に?」
途端に、少年の顔に希望の色が差し始める。だが確認するその声はまだ不安と猜疑を孕んでいて。元気がない。だから。
「本当だよ」アートはしっかりと断言する。「だが、儂が教えるのは本当にちょっとした、基本的なことだけだ。多少でも話せるようになれれば、他の誰かに先生を務めてもらえばいい。その内に雑貨屋の店主とも親しくなれるだろうしな。それでも構わないなら、少しは面倒を見よう」
「う、うん! それでもいいです!」
「わかった。じゃあ、早速今から始めようか。何か他に済ませておく用事はないか?」
「大丈夫。今日はお買い物も何もないから」
「よし。と、その前に。幾らなんでもこの寒い中、外でじっとしていては風邪を引いてしまうな。どこか、暖の取れるところへ場所を移そう。君の家はどうだ? どの道、お父さんやお母さんの許可も取らなければいかんし」
――まさか、いきなり現れた儂を見て信用するような親はいない
だろう。いたらそんな親こそ信用ならならい。母親か父親に拒絶さ
れれば、この子も諦めるだろう。
魔術師は今、ペテン師となった。つもりだったが。
「ぼくの家? うん、大丈夫だよ。でも、お父さんは明々後日まで家にいないし、お母さんは、もういないから。許可がもらえるのは明々後日になるね。とりあえず今日と明日と明後日は体験コースってことで、お父さんの許しなしでも教えてくれますよね?」
「あ、ああ、そうだな」
――くっ。今更、明々後日以降にちゃんと許可をもらえてからとは言えんな。一刻も早く言葉を覚えたいようだし、期待した目をしているし。
アートはとうとう墓穴を掘りすぎて逃げ場を失った。困憊と諦観の混ざった表情になっている。対照的にショーンの嬉しそうなこと。一人呆然と湖上を眺めていた時とは別人のよう。
「じゃあ、早く行きましょう! あ、お父さんは一人じゃ火をなるべく使っちゃいけないって言ってたけど、おじさんがいるなら平気だよね?」
結局、半ば押し切られる形でヘッド家に出向いたアートは、以上の抵抗を無駄と判断してウェールズ語の教師となっていた。ダイニング。彼が薪をくべた暖炉には暖かな火が灯っている。教科書も何もない、ただ発話だけの練習は、三時間にも及んだ。
「今日はここまでにしておこう。二時間程度のつもりが存外に長くなってしまったな」
「でも、お蔭でいっぱい覚えられましたよ。ありがとうございました」
「そういう言い方をされると途端に、たった三時間でか? と訝しみたくなるな。ひとつ、明日テストでもしてみるか? 明日もこの授業をやるならの話だが」
「授業はもちろん明日もやって欲しいけど、テストかあ。うーん、まだちょっと心配だけど試しにやってみたいな。お願いします」
「わかった。幾つか考えてこよう。じゃあ明日は朝の十時に来るから、そのつもりで」
そう言って席を立とうと腰を浮かせかけたアートを、
「あ、ちょっと待って」ショーンが制する。「お昼ご飯、ここで食べていきませんか?」
「なに、昼飯を? いやしかし」
思わぬ申し出にアートはたじろぐが、ショーンは止まらない。
「ぼくに出来るお礼ってこれぐらいしかありませんから、お願いします。料理するってわけじゃなくて、もう出来上がってるものを出すだけですけど」
「う、ううむ。では、ご馳走になろうかな」
「はい! ちょっとだけ、座ったまま待っててくださいね。用意しますから」
嬉々として食材棚の方へ駆けていく少年の背を見つめながら、アートは思う。
――親が不在な上に親しい者が誰もいない状況では、少しでも一人になりたくないのだろうな。まだほんの子どもだし。今日ぐらいは、まあいいだろう。
なし崩し的に始まったアートのウェールズ語講座の第一日目は、質素で簡素な食事を最後に、平穏に終了した。外まで見送って手を振る生徒に応えながら、先生は隠れるようにして町を後にした。町中ほとんどの人間から不審者扱いされているのは自分が一番よく知っているから。
再び湖。右脇に抱えていた空っけつの樽を地面に置きながら、アートは大きくため息を吐いた。精神的な疲れから来る嘆息。
「お疲れ様」
「なんだ、まだ居たのか。とっくに島に帰って今頃リンゴでも齧ってるものだと思っていたが」唐突に背後から現れた妖精に、アートはまた溜息を吐いた。「それはさておき。『お疲れ様』とはどういうわけだ? 見ていたのか?」
「ええ。湖に子どもがいたからこそこそ眺めていたら、あなたが来たから。そこからはずっと姿と気配を消したままストーカーさせてもらったわ」
「まったく気付かんかったな。大した精度の隠避だ。だがその言い草だと本当にずっと儂らを見ていたようだが、まさかショーンの家の中にまで入って来ていたのか?」
「まさか。幾らなんでもそれはやり過ぎと思ったから、その時は外から覗かせてもらっていたの。読唇術で会話はばっちり把握していたけどね。ほら私、視力は良いから」
「視力の良さより読唇術なんぞを習得していることに感心してしまうが。それはそれとして。儂へのストーキング行為を今更咎めはせんが、堂々と危なっかしい発言をするな。子どもを眺めていたなどと。チェンジリングでもする気だったのか?」
「失礼ね。誰も攫おうだなんて考えていたわけじゃないわよ。ただ眺めていただけ」
――それでも十分危険だというのだ。
口には出さずともそんなことも思いつつ、アートは苦笑した。彼の心中を察しているのかどうかはさておいて、妖精はにやにやしながら次の言葉を発する。
「それにしても驚いたわ。あなた、子どもには結構優しいし、弱いのね。流されっぱなしだったし。かれこれ二十年以上の付き合いになるけど、新しい発見。もっとも、あなたが私たち以外の誰かと話しているところ自体、あまり見たことはないのだけど」
「余計なお世話だ。儂とて常に誰にもでもつっけんどんな態度を取っているわけじゃない。……なんだその目は。まあいい。今は儂のことよりお前たちのことだ。結局、何故まだここにいるのだ。何か別の用件でも思い出したか?」
「いいえ。別の用件ってわけじゃないのだけど、やっぱり気になって」
「ワイズネルラか? あんなものは気にするだけ無駄だと言っただろう。どこにいたって遭遇するときは遭遇するし、殺されるときは殺される。天災のようなものだと割り切るよりない。しかもハリケーンと違って進路も速度もむちゃくちゃなのだから、遠ざかるつもりが近づいていることさえある。本当に避けようのない災害だ」
単なる諦観とは違って、説得力を含ませたアートの言。妖精は、少し意外そうな表情で彼を見つめ直していた。
――逃げも隠れもしないという意見は一昨日と変わってない。だけど、理由が微妙に変わっていることに、本人も気付いてないのね。一昨日のあなたは、自分の命などどうなってもいいから逃げも隠れもしないって、暗にそう言っていたのよ。
「ふふっ」
「どうした。気味の悪い声で笑いおって」
「き、気味が悪いはあんまりじゃない! もう! とにかく、少しぐらいは用心してよね! 逃げたり隠れたりしろとは言わないけど、わけもなく自分から突っ込む必要もないんだから」
「言われなくともそんなことはせん。……それぐらいの気概があったなら、儂はもうこの世界にいないよ」
「そうなっていたら、私たちもこの世にいなかったでしょうけどね」
「あ。すまない、そういうつもりじゃなかったんだ」自らの失言で罰の悪くなったアートは、何とかして新しい言葉を見繕おうとする。「実際、あの時臆病風に吹かれたお蔭でお前たちを助けられたことは、今の儂を何よりも支えてくれている。お前たちと出会いがなければ、とっくに、心が完全に死んでいただろう。感謝してるよ」
「なにそれ。助けられた私たちが感謝されるだなんて、あべこべじゃない」
「だが事実だよ。儂はお前たちを助けられたことで救われた。今の儂も十分に無機質な人間かもしれないが、お前たちがいなければ無機質を通り越して無意味な人間になっていたに違いない。いや、肉体的にも死んでいたかもな。毎日毎日自殺を試みては失敗するような人生になっていた気がする。転生ではなく、自殺をな」
「幾らなんでも、それは大袈裟すぎると思うけど」
しかし完全に否定することも出来ない。複雑な想いが巡り、それぎり言葉を失ってしまう妖精に、
「大袈裟ではないさ。本当に有難いと感じているんだ」アートは追い打ちの感謝を述べる。「少なくとも今ほどまともな神経は保っていられなかったろう。しかしそれはそれとして、あの約束はちゃんと守ってもらいたい。こんな、最悪の殺人鬼が動き始めた時勢では尚のこと」
「ええ、わかっているわ」
妖精の意識は、過去へと移相していく――。
◇
三人分の遺体が転がっている地下室から移動して、若き魔術師アートと妖精エミリがテーブルで向かい合っていた。傷を癒されたエミリの姿は、二十数年後のものとまるで同じ。
「異世界への転生術式ですって?」
「そうです。一族で数百年間研究し続けて、その間に何人もの被験者を犠牲にしてようやく完成した魔術。それでもなお適性があったのは俺たちだけで、更に条件が整うのは今日、この地だけで、遂に行使されることになったんです」
エミリは考え込んで黙り込む。どんな言葉を選べばいいのか。悩む。
「あなたと、あの三人の関係は?」
「兄弟です。兄と、姉たちです」
え!? あなたが一番年下? などという軽口は、とても叩けない雰囲気。
「……ねえ、あなたはこれからどうするの? 一族の他の人たちはもう他所へ行ってしまったのでしょう? まさかとは思うけど、転生に再挑戦でもするの?」
「いいえ、それは無理です。もう機は逸してしまった。次にこの術式が可能になるのは半世紀以上先のこと。ただ記憶を継承したままで〝この世界〟に転生するだけなら、いつでもこのナイフで可能ですが、そんなことには何の意味もありませんから。生まれ故郷にでも帰って、一人でひっそりと暮らそうかとでも思っています」
「そう……」悟りきった面をした魔術師を、妖精は寂しそうに見つめる。「ねえ、死のうだなんて、思わないでね。今のあなたを慰められるほどの私じゃないけれど、もう見ず知らずの関係じゃなくなってしまったのだし、これぐらいは言わせてちょうだい」
「…………努力します」
「まったく信用できないわ。これからはたまに寄らせてもらうから、そのつもりでいてちょうだい」
「え、いやその、だから、ここからは引き上げるつもりなんですが」
「だったら新居を決めた後で、その場所を教えなさい。教えてくれなくて突き止めるつもりだけど」
「そ、そんなストーカーみたいな真似は……分かりましたよ、必ずお教えします。だけどその代り、一つだけ約束してください」
「なに?」
「俺は決して自害したりしませんから、俺以外の何かが俺を殺そうとしている時は、それがヒトであれ病気であれ呪いであれ事故であれ、決して助けないでください」
それが。アートが自らの罪悪に科した唯一の戒め。
それが。妖精たちとアートが交わした唯一の約束。
◇
「――おい、話を聞いているのか? 何を呆けているんだ」
「え」我に返った妖精が、目をぱちくりさせてアートを見つめる。「ごめんなさい。約束のことなんて言い出すから、少し昔のことを思い出していたの」
「ん、そうか。それは悪いことをしたかな」
「いいえ、大丈夫よ。水を汲みに来たのよね? 手伝いましょうか?」
「それこそ大丈夫だ」
言って。アートは樽の蓋を外す。蓋は地面にそっと置き、開いた樽を片手で湖の中に沈め、片手でそれを引き上げた。二十ガロン分の樽に透明な水がほぼ満杯となっている。
「何日分の水なのよ、それは。樽の中に入れっぱなしで、腐ったりしないの?」
「問題ない。こいつはただの樽だが、蓋の方に術式が施されているからな」答えて。アートは、その魔術が施された蓋を閉める。よく見れば、小さな記号か何かが幾つか刻まれた蓋を。「もう儂は帰るが、お前たちもいつまでもふらふらしているなよ。ワイズネルラはともかくとして、性質の悪い魔術師にでも見つかったら面倒だからな」
「この辺にあなた以外の魔術師なんていないでしょ。ただでさえ魔的な魅力に乏しい土地なのだから。シェトランドの方がよっぽど危険かもしれないぐらいよ」
「〝森〟の中で大人しくしていればひとまず安全だろう。今は『連合』の保護もあるのだろう?」
「一応ね。ま、気が済んだらちゃんと帰るわよ。だからそんなに無下にしないで欲しいものだわ。あの子どもに見せていた優しさの半分でもいいから、私たちにも分けてくらないかしら」
「ははっ、それはあり得ないだろうな」
アートは、その日一番の笑顔で断じた。
妖精と別れたアートが小屋に着いてから時間は経過し、あちらこちらの家で夕食の準備が始められているであろう時間帯となっていた。そんな中、魔術師は頭を捻り、明日ショーンに受けさせると約束したテストの問題について考えている。
――今日教えた範囲からの出題となると、かなり限られてしまうな。これは思ったよりも難しいぞ。
悩みながらも。どこか嬉しそうな魔術師。しかし。そんな瞬間だったからこそか、不吉な名が彼の頭を過ってしまう。ワイズネルラ。
――まさか、な。あんなもの、何だかんだで事故に遭うような確率で遭遇するだけの殺人鬼だ。……もし殺されても、それは事故死だ。
自分に言い聞かせながらも、アートは不安を拭い去ることは出来ないでいた。