その3
◇
涙も枯れて。目は充血しきり。疲れ果てた若き青年アートは、壁に背をもたれかからせて小さく蹲っていた。彼の目の前には、三人の見知った男女の亡骸。
この日、ある民族の魔術師一派が『第四の壁』突破をかけて儀式魔術を行使した。『第四の壁』とはすなわち世界の壁であり、それを越えて異世界へと旅立ち『旅立者』となることは、すべての魔術師たちにとっての宿願であった。一派が手段として選んだのは異界転生の魔術。元来、一派が属していた民族の魔術師グループは、生きたまま別生命へと転生することを得意としていた。それを基にして、一派は、一度完全に死んで魂魄の状態となってから異世界へと転生する術を開発したのである。肉体よりも魂魄の方が遥かに世界の壁を超越しやすいから。しかし男は死ねなかった。異世界へ旅立つことは彼にとっても宿願であったし、現世に未練があるわけでもなかった。それでも。死という恐怖に勝てなかった。彼一人だけが、この世界に取り残された。
「…………っ。どうして……っ」
――どうして、皆本当に死んでるんだ。なんだかんだで刺す振りだけして終わりだって、ちょっと期待してたのに。いや、期待したかっただけか……。「やっぱり無理だよなあ」って皆で笑って、また昨日までみたいな生活に戻るって………。う、ぐ……!!
情けなく嗚咽していたアート。彼の脳に、電流のような刺激が走った。
――侵入者!?
魔術師たちの隠れ家にはお約束通りの人除けの結界が張られていた。儀式魔術の邪魔をされないように四人がかりで張っていたものであったから、術者がアート一人となっては効力など殆どなくなってしまうのが道理。
「う、くうっ」
どれだけ心が折れた状態でも。この状況下で蹲ってはいられないと。落としたナイフを拾い上げ、涙を拭いて立ち上がったアートは、ふらふらとした足取りのまま地上へ上がる階段を昇り始めた。
一つ一つ段を上がるごとに。侵入者の気配は、僅かばかりに残った結界を介してアートに伝わってくる。か細く、弱々しい気配。
――生気がまるで感じられない。死にかけてる……?
しかも。
――人間の雰囲気じゃない。妖精か?
果たして。ちょうど階段を昇り切ったところで、何者かが冷たい床の上に突っ伏して倒れていた。
「お、おい」
「はあ、は……うう」
面をあげる侵入者。若い女。汗だくで、顔面の右半分が焼けただれている。そんな女が、アートの脚にしがみついて叫ぶ。
「たす……、けて。あなた……魔術師、でしょう? お願い、助けてよ……」
「あ、ああ。とにかく治癒を」
罠かどうかなんて考えられる余裕もなく。ほとんど自然と口をついて出た言葉。しかし。
「ちがう、違うの。私は、大丈……夫。こんな傷、時間が経てば自然に治るから……。そうじゃなくて、私の仲間たちを助けて!!」
「どういうことだ?」
「説明してる時間はないの! お願い! 今すぐ森に向かって! それで全部わかるから! お願い……っ!! なんでもするからっ」
「森……」女の言う〝森〟というのが何を指しているか、アートにもすぐわかった。何故なら、樹木のないこの島においては、普通の森林など存在しないからである。だからどこの森かなんて考える必要はない。一つしかない。女の言う〝森〟とはつまり、ある妖精の一族たちが隠れ住む〝創られた森〟のこと。「わかった。君はここにいろ」
言って。アートは外へ飛び出した。何の準備もせず、ただ飛び出していった。真夜中の外に。女が事情を話すことを憚るほどに焦っていたからそれに同調したというわけではない。
――もう、どうとでもなればいい。
アートが目指したのは、女妖精の仲間が助けを求めている場所なのか。或るいは己の死に場所なのか。
シェトランドに棲むとある種の妖精たちが共同生活する森は、無論、普通の人間たちに見つかってはならぬから、普段は分厚い結界に覆われている。それはアートたちが四人がかりで張っていたものよりも遥かに強力なものであり、結界の内部と外部では、生態系までも根本から異なっていた。本来ならシェトランドどころから〈物質域〉にも存在しない魔的な植物種が繁栄し、昆虫が跋扈し、妖精というより魔女でも住んでいそうな禍々しい雰囲気が漂っている。
その森が今、燃えていた。
「これは一体……」先刻まで心が死にかけていたアートだったが、目の前の光景には動揺せざるを得なかった。森から妖精たちを燻し出そうという何らかの意図が働いているかのように、草木を燃やす炎から煙が沸き上がって辺りを覆っていた。そこここから、呻き声が聞こえてくる。「っ、呆けている場合じゃないな」
我に返ったアート。手にしたナイフで、傍に生えている樹木の表皮に、文字とも記号ともつかない文様を刻み付けていく。
――とりあえず鎮めさせるだけなら、俺でも何とか。
立ち上がったヒグマ並の背丈をしたアートが、背伸びしてようやく手の届く高さから根元まで、いっぱいいっぱいに文様を刻みつける。刻み終え、その木に吐息を吹き付けた。瞬間。それまで静かだった空から大量の雨が降り注ぎ始めた。天候の操作は、転生に次いでアートの一族が得意とする魔術であった。しかし、流石にアート一人では高が知れている。魔術の雨が降り注ぐ範囲は、森全体の四分の三ほど。しかし、一応はそれで充分であった。
――じゃあ、次は。
雨による鎮火と並行し、アートは倒れている妖精たちの治療に当たり始めた。
「ありがとう」「ありがとう」「ありがとうございます」
森から少し離れた場所で、火傷を負った十一人の妖精たちが、アートに感謝の言葉を述べていた。見た目は人間と変わらない、いずれも若い女たちである。彼女たちの言葉に応えながら、アートはふと森の方を見遣る。雨は上がっていたが、火の勢いはもうかなり弱まっていた。一度隠れ家に戻って準備を整えて来れば、それで完全に鎮火出来るまでのものになっている。
――それにしても。
「一体、何があったんですか? あの森が燃えるなんて」
「そ、それが。恥ずかしながら、ちょっとした手違いで……。空間の圧縮率を上げて森を広くするつもりが、あんなことに。欲張った罰ですね、今の広さでも充分なのに」
自嘲しながら、一人の妖精が説明する。アートも、慰めの言葉をかけることはしない。ただ事務的な言葉を発する。
「とにかく。一度隠れ家に戻って、ちゃんとした道具を持ってきます。それであの火は完全に消せますから。それと、助けを呼びにきたあなたたちの仲間も連れて来ないと」
「エミリも無事なんですか?」
妖精の一人が、びくびくした様子で訊ねる。エミリというのが件の女性であることを把握したアートは頷く。
「多分、大丈夫です。彼女に関しては治療する間もなくこっちに来てしまいましたが、少なくとも致命傷というほどではありませんでしたし。隠れ家に戻れば、まだ薬も残っていたはずですから、火傷の痕も残らず綺麗に消せるはずですよ」
それだけ言って。魔術師は元来た道を引き返していった。
隠れ家に帰ったアートを待ち受けていたのは、青褪めた顔をしたエミリであった。
「ね、ねえ……地下室の…………」
「見たんですか」
それでよく逃げ出さなかったですね、と。賞賛でもしようかと思ったアートは、直後に、今の彼女には逃げられるだけの体力もないことに気付いて言葉を噤んだ。
◇
小屋の中。目を覚ました中年のアートは、ずきりと痛む頭を抱えつつ体を起こした。先ほどまで彼は夢の中にいた。夢。確かにそれは夢であったが、しかしすべて、過去実際に彼が経験した出来事の再演。それも、これでもう何度目か分からないほどのロングラン。
――どうして、いつもあそこで目が覚めるのかね。
起き抜けの呆けた頭を覚ますため、もはや若くないアートは冷たい風に当たるため外に出た。白銀の世界が、彼の眼前に広がっていた。
――――同刻、ヘッド家近所にて。
同年代の子どもたちが雪遊びに夢中になっている様子を、ショーンはただ家の中から窓を介して見つめていた。はしゃぐ少年少女の声は冬の空によく響き、締め切ったヘッド家の中にまで入り込んでくる。しかしそれは。
――なんて言ってるんだろう、あの子たち……。
ショーン・ヘッドの知らない言葉、ウェールズの言葉であった。
――――更に同刻、チェスター駅
イングランド北西部、チーズが有名なチェシャー州。その中でも更に最西に位置し、イングランドとウェールズとの境界にあるチェスターの駅に、一台の機関車が接近していた。二両の貨物車と六両の客車。乗客の半分近くが、ウエスト・コーストの本線を経由してロンドンからやって来た旅行者であった。ウェールズを目指していた者たちも数多い。多かったのに、機関車は駅舎に進入する前に大脱線を起こし、横転した。
「事故だ!」「中に人がいるんじゃないのか!?」
当然である。電気仕掛けでもないのに人が乗っていない機関車などない。阿鼻叫喚の地獄絵図と化した場。悲鳴は人を呼び、人は悲鳴に呼ばれて、横たわる黒鉄の塊を、一定の距離をもって周り囲っている。しかし。なかなか誰も、それ以上は近付こうとしない。蒸気機関であれば噴き出て当然の煙が、不自然に黒過ぎたから。違う。実際にはそれは通常通りの灰色であった。恐ろしい事故という特殊な状況が、人々に『これは黒煙だ』と思い込ませていたに過ぎない。思い込み。暗示。
「なんて罹りやすい連中だ。純粋なのか蒙昧なのか」
呟きながら。機関車から一人の男が出てくる。決してこそこそではなく堂々と、転倒の衝撃で割れた窓から出てきた彼に気付く者はいない。だから彼は悠々とした足取りで野次馬たちの間をすり抜けていった。
男が去った後、糸が切れたように覚醒した人々は次々と機関車に駆け寄っていった。一向に姿を見せない乗客乗員たちを救うべく。
そんなこと、もう無駄なのに。
事故の瞬間とはまた性質の違う悲鳴が響き渡っている光景を背後に、男――魔術師たちからは『ワイズネルラ』の名で知られている殺人狂鬼――は思案顔をしていた。
「さて、どこへ行こうかね」