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Five Knives  作者: 直弥
第一章「矜持の一生」
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その2

「んん」ベッドの上。窓から差し込む陽の光に瞼をこじ開けられ、ショーンは目を覚ました。「ん、あれ?」

 見知らぬベッド。見知らぬ景色。見知らぬ部屋に、少年は一瞬だけ困惑する。が。

 ――そうか。昨日、ここに引っ越して来たんだっけ。

 すぐにその事実を思い出し、ベッドも景色も部屋も、実は見知っていることに気が付き、彼はベッドから降りる。

 ショーンの部屋として割り当てられたのはごく狭小な個室で、面積の半分をベッドが占めていた。本も玩具もないその部屋から、彼は何の未練もなくさっさと出て行った。扉を二つ跨いだ先に父に姿を認め、挨拶を交わす。

「おはよう、お父さん」

「おう。おはよう、ショーン」

 キッチンダイニング。ショーンの父・ジェイクは、朝食の準備をもうすぐ済ませようというところであった。ボールによそわれた卵と野菜のサラダがテーブルの真ん中に置かれ、ラウンドトップの食パンが二枚ずつ、各々サラダボウルの前へ置かれた皿に乗っけられている。いずれの食材も、昨日、家中の掃除を済ませた後にとりあえず買い出しておいた物である。

「そろそろ起こしに行こうかと思っていたんだが、一人で起きられたのか」

「うん。あのベッド、思っていたより寝心地いいよ」

「そりゃよかった。朝食の前に顔を洗って来なさい。井戸の使い方は分かるよな?」

「もちろん。ついでに、飲むための水も汲んでくるよ」

 言って。ショーンは、テーブルの上に置かれた大口のガラス瓶に両手を伸ばした。タンブラーグラスを細長くした風な形状のそれは底が分厚く、空っぽのままでも見た目以上の重量がある。両手で挟み込むようにして持ち上げるつもりであったショーンは、予想に反する重みに驚き、慌てて抱きかかえる格好に切り替えた。それでも完全には耐え切れず、よろめき、半歩下がる。

「おいおい、大丈夫か?」

「へあ……平気だよ。ちょっと驚いただけだから。じゃ、行ってくるよ」

 新ヘッド家の井戸は正面玄関から大人の足で十五歩ほど歩いた先にある。ショーンの足なら二十歩というところ。ちょうど敷地の隅っこで、葉や木屑が落ち込まないようにか、周りには何もない。そこへ、例のガラス瓶を抱えたショーンがやって来る。最初に顔を洗った彼は、次に瓶の中へ慎重に水を注ぎ込んだ。体積に対して七分ほど注いだところで、ゆっくりとそれを持ち上げてログハウスを振り返った。

 ショーンの視線が、ログハウスの屋根に集中する。大きな真黒い鳥が一羽、堂々たる風格を湛え、ヘッド家の屋根に停まっていた。白んだ朝靄の空にくっきりとコントラストを浮かばせる真黒いそれは、スノードンの方をまっすぐに見つめていた。

 ――カラス?

 ショーンの心の中での呟きに呼応でもしたというのか。通常の個体より半周り大きな真黒いワタリガラスは、彼のことを一瞥し、飛び去って行った。


「外に大っきいカラスがいたよ」

 屋内に戻ってのショーンの第一声はそれであった。食事の準備をすっかり済ませてしまい、席に着いて彼を待っていたジェイクは不審げに眉を顰める。

「カラス? こんなところにか? ふうん……。今度外へ出る時は気を付けろよ。危ないからな」

「でも、もうどこか飛んで行っちゃったよ」

「また戻って来ることもあるかもしれないだろ。さ、飯にしよう」

「うん」

 頷いて。ショーンは席に着いた。


 ――――スノードン山麓の村。

 髭面強面の大男が、膨らんだ巨大な麻袋を背負って歩いていた。

「〝熊〟だ」「スノードンの熊だわ」

 一か月ぶりに山から下りてきたその男に、人々は好奇と警戒の目を向けていた。子どもを自分の背に隠す母親と、妻を庇うようにして立つ夫。男の異称『納谷の大熊』は、魔術師たちの間でのみ通じるものであったが、そもそも由来の半分が見た目の容姿によるものであるのだから、自然と他からの通称も似通ってくる。この界隈での彼の異称はずばり〝熊〟だった。時折スノードンの山から下りてくる謎の大男。降りてくるとは言っても、実際にスノードンのどこに住んでいるかは不明。今のところ害こそないが、得体は知れない。僅かにでも交流があるのは、下山してきた彼が必ず立ち寄る二つの店の関係者のみ。その二つの内一つの店内に、熊は入っていった。なめした獣の皮や鳥の羽の他、方々に物が散らかされた薄暗い店内。散らかっているにもかかわらず、埃や塵などはまるでない。そんな店の主人は、熊に負けず劣らずの子ども泣かせな面構えで椅子に座ってふんぞり返っている。その彼の前に、熊はずんずんと近付いて、背負っていた麻袋から中身を取り出し、机の上に置いた。

「買ってくれ」

 不躾に申し出ながら熊が取り出したのは、二羽のタカと一匹のヤギ。

「今月もそれか」

 言って。店主は突き出されたものを見る。

 タカの方は二羽とも成鳥で、両方死骸となっているが腐敗はまったくしていない。今朝にでも狩られたものと推測できる。

 ヤギの方も成獣で、首元の体毛だけが黒く、あとは灰色がかった白。こちらも既に事切れていて、角もない。

「……角は?」無骨な店主が訊ねると、熊は思い出したかのように再び袋に手を突っ込んだ。そしてブーメランのように鋭角に湾曲した二本の角を取り出し、本体の傍に並べると。「こんなもんだな」

 言って。店主は、足元の壺から引っ掻き出した銀貨数枚を机の上にばら撒いた。

「もう少し都合がつかないか?」

「これでもかなり色をつけてやってるんだ。どっちも、ウェールズどころかブリテンにすらいない種だからな。毎月毎月、一体どうやって仕入れてくるのやら」

「それは……」

「ああ、いい、いい。教えてくれとは言ってないだろ。どうせまともなルートじゃあるまいし。聞かない方がいいかも知れん。とにかくウチが言えるのは、その値段で納得できないんなら、黙って他所へ持って行ってくれってことだけだ」

「いや、これでいい。気分を害したのならすまない」

「構うことはない。交渉も商売のうちだ。しかしたまには売るだけじゃなく買い物もしていって欲しいもんだな」

「買い物、な」わざとらしく店内を見渡す熊。「何を買えっていうんだ。ここにある物でどうしても必要なのがあるなら、自分で捕ってくれば済む」

「ふむ、お前さんならそれもそうか」

 店主は微かに笑って言った。


 銀貨を得た熊が空になった袋を手に次の店へ向かう。酪農品、酪農加工品の委託販売店。その店前で、店員と少年が向かい合って立っていた。

 熊の目に映った少年は、自身の身体が詰め込めそうなほどのリュックサック(但し今は空なのか、割れた風船のように平らか)を背負っている。そして今にも泣きそうな顔になっている。彼に対応する若い女性の店員も困り果てた表情になっている。

「どうかしたのか?」

「あ、〝熊〟さん」「え?」

 聞き覚えのある声、見覚えのある顔、というか知っている男の登場に、店員は少し安堵した様子を見せる。

 だが少年の方は、これまで見たことも聞いたこともない、雲突くような大男の出現に唖然としている。

「何かあったのか?」

「ええ、その、この子、英語しか話せないみたいで」

「ああ、なるほど。君、英語は少しも?」

「いいえ、ほんのちょびっとなら分かるんですけど、まともに話せるほどじゃなくて、すみません」

「謝ることじゃないが……仕方ない、儂が通訳しよう。坊や」

「へあ? う、はいい」

 呆けた頭は刹那に醒めて。少年の顔から血の気が引く。青白い顔に乗っかった二つの眼球が、細かく震えながら熊を見つめている。

「とって食おうというつもりではないから落ち着きなさい」仕方のないことだが、と半ば諦観しつつ、熊はなるべく柔らかい声色を心掛けて言葉を続ける。「何か買いに来たんじゃないのか?」

「そ、そうです、あのその、ミルクを」

「何の?」

「うう、牛の」

「量は?」

「四パイントです」

「何か容れ物はあるのか? ……どう見ても持っていないな」

「それは、一緒に買って来いって……お父さんが」

「ふむ。牛乳が四パイントと、その容器か。他には何か?」

「いいえ、欲しいのは、それだけです」

「よし。四パイントってことは、ちょうど半ガロンだな。ということは……君、牛のミルクを二等瓶で一つ、この子に売ってやってくれ。出来れば搾りたてのヤツを」

「はい、わかりました」言って。一度奥に引っ込んだ女性は、真白く泡立ったミルクを注いだ瓶を抱えて戻ってきた。コルクで作ったコースターが口に括り付けられている。蓋代わり。「四ペンスになります」

「四ペンスだそうだ」

「へあ、あ、はい!」

 急いでポケットから銅貨を取り出した少年は、それを女性に手渡し、代わりのミルク瓶を受け取った。

「ええと、Thank you! 熊さんも、ありがとうございます」

「どういたしまして。ところで儂はチーズを買いたいのだが」

「はい、どのチーズにいたしましょう?」

「チェダータイプのエクストラ。八ポンドの塊を三つ」

「かしこまりました。あ、助けてくれたことには感謝していますけれど、オマケするわけにはいきませんからね」

「まったくしっかりしとる娘さんだ」

 皮肉ではなく心から。男は感嘆の言葉を述べた。

 

 男が購入したチーズは、彼の顔を完全に覆い隠してまだ余る大きさの車輪型の物を三つ。包みで覆ったそれらを更に麻袋に詰め込んで、男は店を後にした。そうして来た道を戻ろうとした彼は、

「あ、あの!」

 先の少年の声に呼び止められた。

「うん?」

 男が振り返ると、緊張した面持ちの少年が、牛乳瓶を抱きかかえたまま立っていた。

「ええと、ありがとうございます。ぼく、ロンドンから引っ越してきたばっかりで。お父さんが、英語でも多分通じるだろうから大丈夫だって言うから……」

「ははあ、ありがちな勘違いだな。観光者の相手を生業にしている者ぐらいとしか話したことがないんだろう、君のお父さんは。この辺りで会話に困らないほど英語を話せる者は、五人に一人っていうところだぞ」

「そ、そうなの? 雑貨屋のおじさんは英語が話せたのに」

「だからそいつが五分の一の一人だったんだろう」

「うう、どうしよう」俯き、困り果てた顔の少年は、しばらくもじもじしていたが、男が踵を変えようとした瞬間、意を決したように声を張った。「ああ、あの!」

「なんだ?」

「ぼく、まだ、買い物が残ってて。だから、出来ればその――」

「わかった。任せなさい」

 皆まで言わずとも。少年の申し出を理解した男は、その図体にまるで似つかわしくない優しい笑顔で応えた。


「ありがとうございました! もう買い物ぐらい一人で出来るって言って来ちゃったから、あのまま帰るのもちょっと悔しくて。こんなんだから僕、よく意地っ張りって言われるんだけど」

「なあに、人間少しは意地っ張りな方がいいんだよ」

「え、どうしてですか?」

「意地も張ることで示せる矜持もあるからだ」

「? よく意味が分からないです」

「見せつけるための張りぼてな度胸も、たまには必要ってことさ」

「もっと意味が分からなくなったよ」

「ははっ、こんな話をするには少し早すぎたかな」八ポンド分のチーズが三つ入った麻袋を右肩に引っ掛け、左手にも大荷物を持った男と、やや膨らんだリュックサックを背負った少年。二人が並んで歩いていた。既に市場通りからは離れていて、道行く人の数はまばらとなっている。「もうかなり歩いたように思えるが、君の家はまだ先なのか?」

「ええっと、もう少し。もうすぐ見えてくると思います」

「ふむ。ずいぶん寂しい場所に越して来たんだな」

 とても静かで、どこか寂しさの漂う雰囲気。

 完成した建物より建てかけの家や店がより多く、これからの発展が予感される空間。

「……さあ、そろそろいいだろう。ここからは、もう一人でも持って行けるだろう? 君のお父さんと鉢合わせたりすると、面倒なことになるかもしれないし、この辺で別れよう」

「お父さんに会うと面倒臭いんですか?」

「面倒臭いと言うと語弊があるかもしれないが……初対面から儂をまともな人間だと思う人は少ないからな。さあ」言って。男は左手の荷物を少年に渡す。男が片手で軽々と持っていたそれを、少年は両手で何とか持ち上げる。「平気か?」

「へ、平気です」

「なら信じよう」

 見るからに虚勢を張っている少年にそんなことを言って、男は立ち去ろうとして背を向ける。その背に、

「あ、あの!」少年の声。「名前、教えてください」

「聞いてどうする。まさかこんなおじさんと友達になりたいってわけでもないだろう」

「と、友達っていうのはちょっと変かもしれないけど……その、またどこかで会ったときに、話かけやすいように」

「いやしかし……ん……分かった。アート・バーンズだ」

「アートさん、だね。ぼくはショーン・ヘッドです」

「そうか。じゃあな、ショーン君」

「はい! さようなら、アートさん!」


 アートと別れて家に戻ってきたショーンを出迎えたのは、当然ながら彼の父親ジェイクであったが、そのジェイクは革製のアタッシュケースに荷物を詰め込んでいる最中であった。息子の帰宅に気付いた父親は、手を休めないまま顔だけを上げる。

「おお、ショーン、帰って来たか。買い物はちゃんとできたか?」

「うん。お父さん、どこかへ出かけるの?」

「そうなんだよ、すまん、ショーン。お前のいない間にお客さんが来てな。話があるからって呼び出されたんだよ。どうしても三日ほど留守にしなきゃいけないんだ。……まったく、どうしてとっくに解散した会社のことで俺まで呼ばれるんだ。擦れ違いだったからってわざわざここまで追いかけてくるか? 普通」

 後半のごちゃごちゃとした呟きの意味はいまいち分からずとも、とにかく父が三日間家を空けるということは理解できた息子が、途端に不安そうな顔をする。

「ぼ、ぼくはどうすればいいの?」

「ああ、何かあったら助けてくれるよう、雑貨屋のおじさんには頼んである。食べる物は、ちょうどお前が買ってきたところだし、それで足りるだろう。二人で三日分あるからな。ということで、すまんが三日か四日だけ留守番してくれないか? お前を連れていくわけにもいかないんだよ」

 実の息子に対して。本当に申し訳なさそうに頼む父親。一昨日着いたばかりの土地に子ども一人残して留守番させるというのは大いに気が引ける。実際、雑貨屋のおじさんという存在がなければ断固として〝話〟を断るつもりでいた。そうでなくともショーンがどうしても一人きりが嫌だというなら今からでも御破算にしていい。そういう心積もりでの懇願に、当の息子は。

「うん、わかったよ」ほんの一瞬の躊躇だけで従った。「大丈夫だよ。ぼくだって、もうそんなに子どもじゃないよ。三日ぐらい一人でも平気だって」

「そうか。えらいぞ、ショーン。お金も幾らか置いていくから、必要な時はそれを使えばいい。父さんの部屋の机の引き出しに入ってる」

「オーケー」

「よし、いい返事だな。そうだ、火は……冬だし、まったく使うなとは言わんが、使う時には十分注意しろよ。というか、なるべくなら使わない方がいい。なんなら、家の中にいる間は布団を被ったままでいてもいいぞ。いつもなら行儀が悪いと怒っているところだが、今回だけは許す」

「そうだね、火事を起こすよりはマシだもんね。わかったよ」

 渋々ながらも了解した息子に安堵した父親は、今まさに細々とした火を灯らせている暖炉を見つめながら言う。

「この薪が燃え尽きる頃に、家を出るとしよう」

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