七日後
――――真壁家。
先代当主すなわ幸守の父とその妻とが旅立して以来、永らく三人以上が同時に暮らすことのなかったこの家であったが、今は真壁幸守、代、そして青木春竜の三人が暮らしていた。
白い湯気が昇る牛丼三人前と箸を三膳載せた盆を、台所から運ぶ代。湯呑を三つ載せた長方形のちゃぶ台の前には、幸守と春竜が胡坐をかいていた。代が近くまでやって来ると二人は立ち上がり、幸守が一つの丼と全員分の箸を、春竜が二つの丼を盆から取り上げて、ちゃぶ台の上に移した。空になった盆を横に置いた代が、幸守たちとともにちゃぶ台の前に座る。但し彼女は正座で。
「じゃあ、いただこうか」
「はい、いただきます」
「いただきます、っと」
三人は同時に合掌してから、昼食にありつく。満足そうに頬張っている男性陣に対して、代は一口目から眉を顰める。
「はあ……。やっぱり、どうしても上手くいきませんね。私、料理の才能ないんでしょうか?」
「いやいや、そんなことないで。なあ、おじさん」
「ああ、もっと自信を持て」
「でも、どれだけ練習しても、何一つ美味しく作れた例がありませんし……」
「ううん……」
「ええっと、それは、なあ……?」
本気で落ち込んでいる様子の代に、どんな言葉をかけたものかと迷い、二人は目を合わせる。
――本当に旨いんだよな。はっきり言って店屋物より。しかし。
――肝心の本人が味音痴なんやよなあ……。
真相を告げるべきか、告げざるべきか。それは幸人たちのみならず、真壁家代々の悩み事になっていたが、毎代同じ結論が下されてきた。すなわち。
――薮をつつくのは止めよう。
「ああ、そう言えば」話題を逸らすのはいつも春竜。「あれから色々忙しかったから、言い忘れてた」
「なんです?」
「近い内に、人が訪ねてくるかも。ここに」
「……誰だ?」
「名前は聞いてなかったから知らんけど、赤ん坊の頃からゼファロんところで育った人間やって。今までずっと歳喰った吸血鬼に囲まれて育ってきたせいで同年代の友達が全然おらんから、最初の友達になってやって欲しいんとか言ってた。いずれは外の世界で独り立ちしても暮らして行けるように、練習がてら。……ええかな?」
保護者代わりの二人に許可を取らず約束してしまったこと、更にはそれを一週間も言い忘れたままになってしまっていたことに対する負い目からか、遠慮がちな春竜の言い分を。
「構わん」
あっさりと許可する、幸守。
「代ねえは?」
「私から文句があるはずないでしょう。それに、ちょうどいいんじゃないですか? 春竜君も、東京に来てからますます修行に夢中になっちゃって、歳の近い友達なんて、南木の息子さんぐらいしかいないでしょ。それでも四つ離れてるし」
「そう言われたら、そうやった」
自虐なのか何なのか、そんなことを言いながら笑う春竜につられて、幸守や代までもが笑い出す。
しかし。
三人とも笑っていたのは束の間。幸守がはたと口を噤んだ。
「おじさん、どうしたん?」
「いや、その、なんで今更なのか分からないんだが、えらいことを思い出してしまってな」
幸守はそう言いながら立ち上がり、居間を出て行った。
突然のことに春竜と代が固まっていると、すぐに戻って来た春の手には化粧箱が抱えられていた。
「これを、お前に返さなければ」
「ええっと、なにこれ?」
わけが分からず、思ったままを口にする春竜。そんな彼の様子にますます申し訳なさを感じながら、幸守は化粧箱を開いた。中には鞘に刃を収めた一本の短刀。
「魔導兵装『鬼一刀』。春の、お前の兄の遺品だ」
「……ああ」事情を察した春竜が、静かに告げる。「これは、おじさんが持っとくべきちゃうかな。だって、おじさんの方が俺よりずうっと兄ちゃんのこと知ってるやんか。俺はあの着流しと帯だけで十分やよ」
「な……っ」予想だにしていなかった春竜からの言い草に、幸守は戸惑う。「だがこれは! 春の遺品というだけでなく、青木家の」
「んん、そこまで言うんやったら、こうせえへん? 俺は青木の人間としてあの術式兵装をずっと伝えていくから、おじさんは真壁の人間としてその鬼一刀をずっと伝えてってよ。青木と真壁、これからも末永く、ってことでさあ」
つまり形見分け。それは、幸守にはまったく考えもつかなかった発想で。不謹慎ながら、彼の心を躍らせる提案でもあった。だが。
「これだと真壁がただ貰っただけの関係になる。どちらも元々、青木の物なんだからな。何かうちからも青木に贈れればいいんだが、生憎とうちには大層な代物がない」
「いやいや、俺が今こうしていられるのもおじさんや代ねえのお蔭やんか。ってことは青木家がちゃんと存続していられんのも真壁のお蔭やろ? それで十分やん」
「いや、俺はただ代にお前の世話を押し付けただけだからな……。今日日、代をただ真壁の持ち物のように言うわけにもいかんし、それはやはり代一人に感謝すべき事柄だろう。ううむ」
箸を置き、腕を組んで、幸守はまた悩み始めた。
「冷めてしまいますよ。ただでさえ不味い私の料理が冷めてしまいますよ」
「……お前、そんなに卑屈な奴だったか?」苦笑し、再び幸守は箸を持つ。そうして丼の中を突きながら言う。「まあ、時間はある。ゆっくり考えていこう。ってお前はさっきから食ってばかりか。誰のための話をしていると思ってるんだ?」
「いやいや、食事中なんやから喋くってる方がおかしいんちゃうかな。それに俺の中ではもう終わってることやから。誤解というか、ちょっと認識にずれあるみたいやけど、俺は何も真壁に鬼一刀をあげるって言ってるわけちゃうんやで? 後に伝えてくれって、むしろお願いしてるんや」
「物は言いようだな。しかし俺には伝える相手が……」幸守が嘯いていると、顎で部屋の片隅を示す代。そこには山積みのまま放置された見合い写真の数々。「分かった分かった。真剣に検討するとしよう。……確認するが、全員ちゃんと魔術師なんだろうな?」
「ご心配なく。そう言えば、春竜君もそろそろお相手を探し始めていい時期ですね」
「は」春竜の箸が止まる。「いや、俺はまだ、結納なんて考えたこともないし」
「だがいずれは妻を娶り、子を成さなくてはいかんだろう。お前が自分から提示した約束を果たすためにはな。なら、まだ早いなんてことはない」
「そうですよ。それに、こう言ってはなんですが、今や断絶寸前の青木家に嫁いでくれる魔術家を探すだけでも大変なんですからね。青竜さえ健在なら引く手数多だったでしょうに」
「俺は別に、嫁さんは魔術師じゃなくてもええんやけどな……」
◇
――――同じ頃、真壁家からほど近い場所にて。
「お母さん、こんな真昼間に外を歩いても大丈夫なの? すごくよく晴れてるけど」
「平気よ、平気。なんだか最近、太陽が優しい気がするのよね」
「ふうん……」
黒を基調とした地味な色合いとはいえロシアの民族衣装を着た女性と、緑のワンピースを着た少女。しかも二人とも容姿まで明らかな異邦人とあっては、道行く人々の目を引いてしまう。はずであるのだが、実際には何人かが彼女たちの顔をちらりと見遣るだけで、特別に騒ぎ立てている様子はまるでなかった。
「ちゃんと使えば便利な術なのよね『認識麻酔』って」何か碌でもないことを思い出しながらそんなことを言う女性ことキリ。彼女は、自分の背中に隠れるようにしてびくつきながら歩いている少女ことカレンに対して溜息を吐いた。「……さっきから何をそんなに怖がってるの。普通の人間たちには私たちも〝この町の平均的住人〟に見えてるんだから、自意識過剰になることはないのよ」
「それは分かってるけど、見たことないような恰好の人たちばっかりだし、見たことないものばっかりだし……」
「先が思いやられるわねえ。これからしばらくこっちで暮らすんだから、慣れないことにはどうしようもないわよ?」
「ええ? 暮らすって、そこまで聞いてなかったよ! 言葉はどうするの?」
「最初の内は術式で翻訳してあげるけど、なるべく勉強して覚えた方がいいでしょうね。友達同士なら、やっぱり生の声で話せるようになった方が断然いいんだし」
「じ、自信ないなあ……」
「カオスとの一件で度胸と自信はついたと思ってたのに。変わってないわね……頼むから緊張のあまり我を忘れてナイフで自分を刺す、なんてことは止めて頂戴よ」
「ちょっと! カオスさんに何を聞いたのか知らないけど、私別に自傷癖はないから!」
いきなり叫んでしまったカレンに、大勢の人々の視線が一斉に集まった。彼女は顔を真っ赤にし、慌ててキリの背中に顔を埋めてしまう。そんな彼女のワンピースのポケットからは、文字か記号のような意味ありげな傷が刻まれた柄のナイフが覗いている。その柄は勿論、樫の木で作られていた。




