その6
口元を歪ませて厭らしい笑みを浮かべながら、カオスが告げる。
「『降魔衆』の陰陽師と『蓬莱山』の仙道たちが中心となった総勢百余名の魔術師による隔絶の結界だ。幾らお前でも、そう簡単には破れない。ましてワシらと闘いながらなんてな」
「逃がしゃしない。ここで消す。生き残りたきゃ、俺たちをぶっ倒した上で、更に……外の魔術師たち全員を、どうにかするんだな」
カオスの言葉に続いたゼファロの宣言を受けて、ワイズネルラは結論を下す。
「そうしよう」
急降下して。彼はすぐさまカオスに突貫した。
カオスは即座に対応する。己の眼前に、混沌弾と同じ色合いをした、方形の盾を創り出した。一見して分厚い壁のような盾が一枚だけのよう。だがよくよく見れば、厚さ一ミリ以下の膜状のものが幾十層にも重なってそのように見えているのだということが分かる。
「ふん」
迷うことなく。ワイズネルラはそのミルフィーユを殴り付けた。
尋常ならざる殴打の嵐。一撃ごとに一枚、時に二枚まとまって砕けていく盾。破壊されていく間にも新たな盾を創り出すカオス。創生と破壊の競争は――破壊が打ち克った。無防備となったカオスの顔面に、盾の破片が幾つも刺さったワイズの拳が叩き付けられる。
「がは……っ!」
呻き声を上げるカオスに、ワイズの第二撃は入らなかった。
「ぬっ」ワイズの斜後方から飛んできた黒い槍が杭となって。彼の左足が、地面に打ち付けられる。否、それは槍などではなく。「ゼファロっ」
吸血鬼の爪。両手両指十枚分の爪を一体化させたもの。
最後の踏込が出来なかったワイズの拳は、まさしくあと一歩カオスに届かなかった。隙を突いたカオスが後方に跳躍して場を脱しつつ、掌から氷の剣を放つ。
「ぐっ」
ワイズは片足を地面に打ち付けられたまま上体を反らせ、その攻撃を回避する。回避しつつ、ゼファロの爪を引き抜き、カオス目掛けて投げつけた。
「在!」
春竜の声が響く。見れば彼は九字咒法の一つを結んでいる。爪はカオスに到達することなく、砂のように崩れ落ちた。
ワイズネルラが舌打ちをしつつ体勢を戻した時、混沌弾が彼の右太腿を掠め取った。声を漏らさないまでも顔を顰めるワイズ。そこへ、背後から迫って来ていたゼファロが―――身体を上下に分断された。
「なん、だ、と…………っ」
ゼファロの腰から上、下がずれる。千切れる。鋏で切られた紙人形が如し。そうしてゼファロを分断したワイズネルラの手刀は、その勢いのまま、吸血鬼の血を纏ったまま、
「ごが……っ!!」
カオスの胸を貫通した。
先の混沌弾を命中させるためと、ゼファロの攻撃が決まることを想定してか。ワイズネルラに近付き過ぎていたカオスは、火事場の馬鹿力ともいうべきワイズネルラの反撃を真っ向から受ける。
「くっ、ん?」
混沌弾を放とうとするカオス。だが彼の掌から出現したのは塵のような混沌弾が一発だけ。勢いも何もないそれは、ゼファロの吹いた一息によって掻き消された。
「吸血鬼の血を、体内に……はあっ、入れてやったんだ。っ、千近い術式を組み合わせる混沌弾など……もうっ、撃てんだろう」
「ああ、なるほどな。うっ……、しかし、貴様も貴様で、焦って無茶な動きを、し過ぎたな。息が……上がっているぞ」
「はあっ、いいさ。満身創痍の、オマエたちを……葬るぐらい、造作な……っ」ワイズの顔色が変わる。見下ろせば。上半身だけで這って動くゼファロが、ワイズの足を掴んでいた。「オマエ、まだ」
生きている。再生の加護のないヴァンパイアであるから、既に極限近くまで魔力と体力を消耗しているゼファロの脚がすぐさままた生えてくるわけではない。ただ、種としての限界レベルに達している復元能力によって、切断面は既に塞がっていた。
「う、ぐぐっ」
もはや言葉を満足に紡ぐことも出来ないゼファロは、しかし手だけは決して離さない。
「ちっ、ん?」
ワイズが不意に覚えた違和感の正体は、カオスの腹に貫通させたままの自分の腕を、そのカオスに掴まれていたから。更に。いつの間にか寄ってきていた春竜も、解いた自分の帯『執金天衣』でワイズネルラの腰を縛り付けていた。
ワイズネルラはそれらを振り払おうともがく。だが三人の必死さと、自分自身の疲弊によって、上手くいかない。と。
「ん?」
突然暗くなる空。見上げれば結界は解かれていて。代わりに、さっきまで全員で一つの結界を張っていた人間の魔術師たちが今、一人一人、サイケデリックな色合いの光弾を手にしていた。
引き攣ったワイズネルラから、冷や汗が流れる。
「おい、まさか」
裏返り気味のワイズの声が発された直後、無数の混沌弾が、彼を目掛けて降り注いだ。
◇
――――〈竜巣域〉
「うおっっ」
「ひへ!? ど、どうしたんですか突然?」
目を閉じ手を合わせて祈りを捧げていたカレンは、出し抜けに頓狂声を上げたクローヴに驚かされる。だが当のクローヴはカレンに構いもせず、ただ一言発するのみ。
「え、えげつない……」
「はい?」
◇
――――〈物質域〉
右目は潰れ。鼻は削げ。左の耳朶は千切れていた。右腕は無論喪われたままで、左の腕も肘から下がなくなっていた。脚は両方辛うじて残っていたが、ともに皮膚が焼け落ちて肉と骨が覗いていた。まさしくぼろぼろ。人間であればものの数分で確実に死に至る、いや、今生きているのも不思議な状態となっている。ワイズネルラ。
「い、今のは『混沌弾』……。ば、かな……。俄仕込みで……出来る業じゃあ、ないだろう」
「『弾』さえ渡してやりゃあ……一発放つぐらいは可能だ」本体から離れても腹に突き刺さったままであったワイズネルラの腕を引き抜いて、同時に緑青色の光で傷を塞ぎながら。カオスが口を開く。「優秀な弟子だったからな、皆。それでも、術者と行使者が異なっているために威力は大分落ちるが」
其の優秀なる弟子たちは皆、ただ一発の『混沌弾』のために魔力も体力も使い果たしていた。テーブルトップマウンテンの地面に降り立ち、ぜいぜいと、肩で息をしている者たち。完全に気を失って倒れ伏している者たち。現状、この場でまともに動くことが叶う人間は、青木春竜のみであった。その春竜が、急いで帯を締め直しながら。
「臨める兵、闘う者、皆陳列べて前に在り」口頭のみで九字大咒法を完全詠唱する。そして絞め終えたところで〝刀〟印を口元に持ってきて。「オン・ハキシャ・ソワカ」
真言を放ち。第七道の炎・迦楼羅炎を召喚した。
「ぬぐっ!?」
春竜の背後から噴き出した槐色の火焔は、猛禽が如く猛々しくあらぶって、ワイズネルラへと襲い掛かる。『第三の壁』を超えていない、つまりは六道に囚われた魔術師では通常〝地獄〟の業火を喚び出すのが関の山である。だが春竜が今呼び出したのは、龍の身体をも燃やし尽くすと云う〝外道〟の業火。六道の向こう側にある代物を、『第二の壁』さえも越えていない春竜が強引に呼び寄せた。
業火それ自体は、瞬く間に消え失せる。所詮春竜では外道の業火を長く留めることなど出来ない。しかし、既に満身創痍であったワイズネルラには、一瞬で十分過ぎた。業火が過ぎ去った後に現れた彼の身体は、灰となって崩れ落ち始めている。
「お、おお……オレもいよいよ終わりだな」再生の追いつかない速度で崩壊していくワイズネルラの肉体。悟り切った顔で死を待つばかり。「まあ、いいや。生まれ変わったらまた会おう」
死への恐怖をまるで感じさせず、へらへらとした態度でそんなことを言うワイズに。
「悪いが、それはない」
と。冷たく告げる、カオス。途端に彼は、足下から、サイケデリックな色合いに変化し始めた。そのまま形らしい形も喪い、煙のように変容し始める。
「か、カオスのおっさん!?」
その変化に、まずぎょっとしたのは春竜であった。慌てふためいて自分に駆け寄ろうとする彼を、しかしカオスは手で制する。
「案ずることはない。ただ、お前はここから離れていろ。巻き込まれたくなければな」
「ん」
何のことかと、愚に満ちた質問などしない。彼はただ黙って、裂けたゼファロの身体二つを抱えて、場を離脱した。
「さて」
ワイズへと向き直るカオス。もはや首から下はヒトの姿をしていない。サイケデリックな煙の中、首だけが幻燈のように浮かんでいる。そんな様相。しばし呆然とそれを見ていたワイズネルラは、不意に、
「ああ」笑った。「そうか。化身能力、だったもんなあ」
「そういうことだ」
化身能力の神髄は『化神』にある。化身能力者が使うあらゆる力は、あくまで『化神』の副産物に過ぎない。『魔術師の化身』、その本来の力は、原初の神への化神。もはやヒトとしての形を完全に放棄した混沌が、逃げることも叶わないワイズネルラの身体を呑み込んでいく。
「う、ぐ……っ」
断末魔。混沌に纏わりつかれながら。ワイズネルラは、カオスの声を聴いた。
「Annosus stultus non diu vixit, diu fuit」
確かに自分に対しての言葉であるはずなのに、どこか自嘲気味でもあるその声に、ワイズは答える。
「ふん。オレの一生は、それほど悪くなかったぞ」
その言葉を最期に。魂ごと。復活の余地微塵もなく。皆乍らに。ワイズネルラは消滅した。




