その3
「ここが〈竜巣域〉ですか」
「ああ、そうだよ」
「綺麗なところですね、とても」
空を飛ぶクローヴの背に乗ったカレンは、〈竜巣域〉の幻想的で美しい風景に心を奪われていた。白く透き通ったファントム・グラスが風に揺れ、雲一つない茜色の空が広がっている。そんな牧歌的な景色が、カレンにはたまらなく美しく感じられた。だが、彼女は観光の為にここまでやって来たのではない。あくまでも彼女の目的は一つ。
「カオスさんのお家は、この辺にあるんですか?」
「ああ、もうじきだよ」
「………………」
ソウ=ソフ・カオスを、ワイズネルラとの戦いに臨ませるための交渉。ともすれば何千何万という人間の命に直結しかねないという大役。一度覚悟を固めたはずのカレンも、遂にその時が間近になっていることを実感させられると、流石に怖気づきそうになる。
――だめ、駄目! しっかりしなきゃ。
頬叩いて気合を入れ直す。
「わ、わわっ」
そのせいでクローヴの背から落ちそうになる。
「ちゃんと掴っていなきゃダメじゃないか」
「ご、ごめんなさい」
「まったく。じゃあ、そろそろ降りるよ」
言って。ドラゴンは高度を下げ始める。ゆっくりと、慎重に。着地する。
ファントム・グラスがただ揺れるだけの草原。カレンの目には、建物らしきものがまったく見当たらなかった。
「ちょっとカオス、気付いてるんだろ? 出てきなよ」
一見、何もない場所に向かって吼えるクローヴ。だがその彼女の声に呼応して、世界に裂け目が開いた。そこを潜り抜けて虚空から現れるは、一人の男。
「お前も大概に悪趣味だな、クローヴ」
「覗き屋にだけは言われたくない言葉だね、それは。事情はもう全部分かっているんだろう?」
「ああ」
じろりと、男はカレンに視線を移した。
刺すような視線を受けて反射的に後ずさりそうになる足を、カレンは何とか抑え付ける。ごくりと唾を呑み込んで。
「え、ええっと、あなたがカオスさんですか?」
「そうだ。こんなところまで、遥々よく来たな」
魔術の祖、ソウ=ソフ・カオス。その外見は、カレンが拍子抜けするほどに普通のヒトであった。寿命をいじっていない普通の人間であれば、二十代後半ほどに相当する容姿。真っ黒な髪に白い肌。
「今言ったように、事情はすべて分かっている。その上で言うんだが、交渉は言葉によってではなく、これで行おう」
「――え」
それ以上の言葉を失くすカレンと、
「アンタ、一体何を」
困惑するクローヴ。
一人と一頭の目線の先、すなわちカオスの右手には刃物が握られていた。突き刺すことに特化したダガーの形状をしたナイフ。
「ワシにワイズネルラと闘えと言うのは、見返りのないことに命を懸けろと言っているのと同じこと。相応の覚悟を、君にも見せて貰わねばならん」言いながら、カオスは指を鳴らす。彼の足元に、昏倒した男が現れた。若くはない。初老に差し掛かっていると思しき顔つき。「こいつを刺せ」
「は」
言葉を失う。何を言っているのかと。事の異常さに理解が追いつかない。だがそんなカレンを置いて、カオスは淡々とした口調のまま言葉を続ける。
「どこでもいい。と言っても殺す必要はないから、脚か腕にすればよかろう」
「ど、どうして、そんな、ことをしなくちゃいけないんですかっ」
「分からないか? 今さっき言ったばかりだろう。君はワシに、死ぬかもしれない戦いに行け、と言っているんだ。ワイズは確かに人間しか殺さないが、弾みということはあるからな。つまり君はワイズを滅ぼしたいという自分の願いのため、他人に命を懸けさせようというんだ。そんな覚悟の程を見せつけるのに、これほど打ってつけの手段もないだろう。己の願いのために、無関係な誰かを傷付けることが出来るか? 君自身の手で」言いながらカオスは、ナイフを地面に放り投げた。「殺せと言わないだけマシだと思うがな。眠らせているだけだから、刺せば確実に目を覚ますがね」
「そ、んな、無茶苦茶な」
血の気が引くのを感じる。足元が覚束なくなる。ここには、言葉による交渉をしに来たはずだった。少なくとも、カレンはそのつもりだった。だというのに、この状況はなんなのか。
だが想起するは、あの墓石の数。前世の父。震える手でナイフを拾い上げるカレン。両手でしっかりと、柄を握る。じっとりとした汗が首筋から垂れ落ち、手へと、ナイフの刃へと滑っていく。
クローヴとカオスが固唾を呑んで見守る中、彼女はそのナイフを。
「―――――っっっっぅ!」
自らの腹に突き立てた。
「あああっ!!」
「貴様なにを!?」
「カレン!」
頓狂声を上げたカオスとクローウがカレンに駆け寄る。刺さりの浅かったナイフは、カレンが手を離すと同時に彼女の腹から抜け落ちた。力なく倒れ込むカレンを抱き抱え支えるカオス。血はどくどくと流れ出してくる。出血というよりは流血という勢いで。真っ白かった草原に血だまりが広がっていく。
「う、ううう、あ、あ、う、ああ……っ」
「ちいっ」
舌打ちしたカオスは、傷口に手をかざす。
――くそっ、追い詰めすぎたか。『第一の壁』も越えていない人間は、なんて脆い!
緑青色の光が彼の手から放出される。カレンの傷が見る間に塞がっていく。カオスが魔術を行使するに当たって、呪文や文字は必要ない。彼にとって魔術とは身体機能の一部に過ぎないのだ。人間が脳からの電気信号だけで指先を自由に動かすのと同様の感覚で、彼は魔術を自在に揮う。傷を治そうと思考するだけで、魂という蔵から、傷を治す魔術が選び取られて行使される。
「う、ううあ」
「おい、カオス、大丈夫なんだろうね? まさかこのナイフ、何か術式がかかってたんじゃ」
「古いだけでただのナイフだから安心しろ。傷も浅い。大げさなんだよ、この娘も」
「うううっ」
何をもって大げさというのか。カレンの苦悶の表情は確かに本当のものであり、今も彼女は激痛に耐えていた。しかしカオスは冷徹で。
「おい、このまま答えろ。何故こんなイカれた真似をした。何のつもりだ」
「う、あ、うう、だ、だって、あなたは、誰かを、傷付けろって」
「そう言った。だからこの男を用意した」
そう言って。カオスは、未だ昏倒し続けている男を指す。しかしカレンは首を横に振る。
「ダメ、そんなの、出来ない。それじゃ……何のためにここに来たのか、分からないもの……っ」
「っ!」カオスが歯軋りをする。彼とて分かっていた。己の提案が、ただ倫理観においてどうかしているというだけでなく、矛盾に満ちているものであったことを。「ワシがおかしかったのか」
「当たり前だろ。おかしいと思ってなかったら真性の狂人だよ」
「…………。おい、もう治ったぞ。上体ぐらい起こせるだろう」
「え、ああ、はい」
カレンはゆっくりと上体を起こす。
彼女の服は、彼女自身の血に染まったままであったが、傷そのものは完全に塞がっていた。ファントム・グラスへ飛沫したはずの血液は忽然と消失していた。
「さて。この男を刺すことが出来ないという理屈は分かった。しかし。だからといって、何故自分を刺すことになった?」
「ヒトを刺すなんて、私には出来ません。だけど、ワイズネルラは倒して欲しい。だから、同情買おうかなと、思いまして」
まったくもって情けない宣言であったが、故に空々しさは皆無。
「分かった。ちゃんと話は聞こう。さすがにやり方が乱暴すぎた」
言って。カオスは指を鳴らした。彼の足元に寝転がっていた男が砂のようになって崩れ落ちた。否、それは事実砂となっていた。
「え、ええ、それって……?」
「勘違いするんじゃないぞ。こけおどしで覚悟を試そうとするほど甘くない。さっきのは正真正銘の人間だ。同質量の砂との『座標置換』によって〈物質域〉に送り返しただけだ」
「〈物質域〉と〈竜巣域〉間の『座標置換』をものの一瞬とは。相変わらずとんでもないね」
「茶化すな。そんなことは今どうでもいい。カレン、お前はどうしてワイズが滅ぶことを願う? 吸血鬼たちに囲われていれば、とりあえずお前は無事だぞ。第一、今期の奴の活動期は直に終わる。そうなれば次に現れるのは二百年後だ」
つまり純然たる人間であるカレンの寿命がとうに尽きた頃で。彼女が吸血鬼になれば、そもそもワイズネルラの殺人対象から外される。人間のまま『第二の壁』を越えて寿命を克服するならば、それはまた別の話であるが。
「ワイズの滅亡がお前にとって喜ばしいことであるのは分かる。当然な感情だろう。しかしそれは、さっきのように、お前が身を削ってまで願わなければならないことなのか?」
「『身も削らず叶えられる願いなんてない。自己犠牲という手段は確かに下策だが、代償もなく願いを叶えたがるのはもっと悪い。愚劣だ』って、ゼン兄さんが言っていました。正直な話、どうせカオスさんが助けてくれるって思っていましたから。あれは犠牲なんかじゃなくて、代償なんです。少なくとも私は、そのつもりでした」
「お前は人間を救いたいのか?」
「私は皆を救いたい、いえ、皆が救われて欲しいんです。カオスさんは私なんかよりずっとずっと色んなことを知っていて、分かっているんでしょうけれど、その、一つだけ、分かってないことがあると思います」
「言ってみろ」
「一人が死ねば、十人が悲しみます」
「うん?」
「悲しんでいる人がいるのは、悲しいことです。だから十人が悲しめば、百人が悲しみます」
「おい、何を言いたい?」
「ワイズネルラは億に近い、もしかしたらそれ以上の人間を殺害したと聞きました。ワイズネルラが殺すのは人間だけだって、本当に思ってるんですか? 心だって、死ぬんですよ」
先ほどとは違い、今度のカレンの言葉には多少の嘘が混じっていた。彼女がその目で見た二つのケース。心が死んでいたのは彼女の前世の父に当たる〝人間〟で、カブたち〝吸血鬼〟の心は傷ついただけで生きている。しかし、その立場は容易に入れ替わる。
「恥ずかしげもなく恥ずかしい台詞を……」
嘆息一つ。
「いえ、自分でも恥ずかしいことを言っている自覚はあります」嘆息二つ。やや紅潮した顔。「だけどカオスさんだって、誰か親しいヒトが亡くなったら悲しくなるでしょう? ならないんですか?」
ちらりと見遣る。カレンはカオスを。カオスはクローヴを。クローヴはカレンとカオスを順番に。
「クローヴ、後のことは任せた」
「は?」
「〈物質域〉に行く。ワイズは消さねばならない」
「は」「ええ!?」
頓狂声を上げたのは勿論、カレンの方である。
「え、なんというか、そんな、あっさり?」
「何だよ。やめた方がいいのか?」
「いえいえいえ! とんでもない! 行ってらっしゃいませ!」
「おう」
「は、ははは……」
クローヴはただ、乾いた笑い声を上げていた。
ワイズネルラに殺された本人をカオスの交渉相手に、というクローヴの目論見はやや外れ、やや当たったと言っていいだろう。カレンはやはりワイズネルラに殺された者たちの関係者、生き残りとしてカオスの説得に臨んだ。反面、彼女の覚悟を最も後押ししたのは前世の父の姿――自分の死によって連鎖した他者の苦しみを見せられたことにあった。
死は決して――自分の死でさえ――ただ一人のものではない。身を以ってそれを知る稀有な存在になったカレンだったからこそ、クローヴが望む以上の結果をもたらした。
「確かに心も死ぬだろうが」独りごちるように、カオスが呟く。「肉体と違って、心の方は、魔術など使わなくとも蘇ることがある」
「……カオスさんも結構恥ずかしいこと言うじゃないですか」
「うるせえ、馬鹿」
「ええー……」
唖然とするカレンを尻目にして、カオスは姿をかき消した。代わりに、彼と同じ形に盛られた砂が現れて、崩れ落ちた。
「あいつの心がいの一番に蘇ったみたいだね」
複雑微妙な、しかし嬉しそうな声でそう言ったクローヴに、カレンは遠慮がちに問い掛ける。
「元々はあんな感じだったんですか?」
「そうさね。『世界樹』が亡くなるまでは、あんな感じだったよ」
「世界樹……?」
「ああ」
うな垂れるように頷いたクローヴの瞳が、どこか寂しそうであるように、カレンは感じ取った。
「カオスや私は、世界樹から生まれた存在なんだ。だから、また同じような存在が世界樹から生まれるかもしれない。カオスはずっとそれを心待ちにしていた。あまりに待ちきれず、姿だけは自分と同じである『人間』たちの一部に魔術を伝えて、疑似の仲間を作ろうとさえした。当時はまだろくな文明すら気付けていなかった人間に」
「もしかしてそれが、魔術師の始まりなんですか?」
「そうだ。魔術っていうのは、もともとアイツが先天的に持っていた固有の力に過ぎない。化身能力『魔術師の化身』。そいつをどうにかして自分以外も使えるようアレンジし、伝えたんだよ。後に最初の魔術師となる人間たちにね。だけど、当の人間たちは魔術さえ覚えたらさっさとカオスの手を離れてしまった。新たにカオスから魔術を学ぼうという者も段々と減っていった。魔術は人間から人間へ伝えられるものになった。いや、これはなにも人間を責めているわけじゃない。子や弟子が、いつかは親や師から離れていくのは当然なのさ。その辺りはカオスだって分かっていた。だから引き留めたりはしなかったんだ」
「でも、それじゃあ、カオスさんは」
「また一人に逆戻りさ。ワタシと違ってアイツは単性生殖なんて出来ないから、本当の意味で自分と同じ種族が生まれるとしたら、もう世界樹からしか有り得なかったんだよ。そしてある時、ついに生まれたんだ。アイツと同じ種族の存在、アビス・テテが」
「よかったじゃないですか」
「いいや、よくなかった。アビスは、ワイズネルラと違う意味で狂っていた。生まれながらにね。悪魔の化身だったんだ。今思い出してみれば、性格の面においてカオスよりワタシに似ていたんだろう。奴はこの世界を愛しすぎた」
「愛することが、悪いことなんですか?」
「過ぎたるは及ばざるが如しってことさ。世界を愛しすぎるが故に世界を壊す危険性をすべて排除し始めたんだ。その第一が、世界樹だった」
「な、え、どうして?」
「世界樹は、ある意味で爆弾だったんだ。何が生まれるか分からない。世界の脅威が生まれる可能性さえもあった。だから奴は世界樹を燃やしたんだ。今はもう痕跡しか残っていない」
「……それから、アビスさんはどうなったんですか?」
「さあね。『破壊者』を幾柱かぶっ倒した後、『異界よりの種』に挑んで敗れてからは行方知れずだ。普通に考えれば死んだんだろうが……。だけど奴に関する事件で重要なのは世界樹が燃えた一点さ。もう永久に、カオスには同胞が生まれ得なくなちまった。世界で唯一の、同胞の手によって」
カレンは噛み締めていた。カオスの真実を。どんな魔術でも使えて、何でも出来そうなカオスは、最も望むものを永遠に手に入れられない。が。
「同じか違うかって、そんなに大切なことですか?」
「だから気付いたんだろう。そこに。ワタシが散々言っても響かなかったことなんだが……。異種族と生き続けたアンタだからこその説得力かもね。結局のところ、アイツがワイズネルラを放って置いたのは、下らない嫉妬心からなんだよ」
「……なんというか、複雑です。一度距離を置いておきながら、今更師に頼ろうとしたってことになりますよね」
「気にしなさんな。師弟を越えて対等になったと思えばいい」
「乱暴な論ですね。私、これからどうしたらいいんでしょう?」
「とりあえず戦いが終わるまでここから出すわけにいかないよ。危ないし。ただ願い続けていな。殺人狂鬼の終わりを」
◇
――――同刻。太陽の沈みかかった、太陽神殿跡地の教会。
「ああっ、たく! 失明するかと思ったぜ。あらゆる錬金術師の悲願をただの目晦ましに使うってのはどういう了見だ、あの野郎。今度会ったら殺してやる。その時まだ人間ならの話だが」
冗談なのか何なのか分からない文句を漏らしながら、ワイズネルラは歩み始めた。かと思えば、すぐさままた足を止めて振り向き様にこう言った。
「で、お前たちはそこで何をしているんだ?」




