その1
――――????.??.??
石造りの壁、暗がりの地下室。橙色の火が灯ったランプを中心に据えた真四角のテーブルを囲む、二組の男女。男の内一人は、他の三人がまるで子どもにしか見えないほどの巨躯であるが、顔は最も若々しい。彼氏彼女らは、各々の右手にナイフを握っていた。ナイフの柄は何れも樫の木で作られていて、文字か記号のような、意味ありげな傷が刻まれている。
「準備はいいか? 覚悟は出来たな?」
平均的な体格をしたリーダーらしき男――青年から中年に差し掛かっているほどの男――が訊ねると、他の者たちは頷いた。頷きながらも、額からは汗を垂らし、手が僅かに震えていた。但し、それは訊ねた男も同様であった。
「早く始めましょうよ」
恐れを誤魔化すためにか。大声を張り上げる女であったが、その声さえも上擦っていた。しかし、それで逆に決心が着いたのか、安心が出来たのか。リーダーらしき男も覚悟を決める。
「では、始めるぞ。三、二、一」
号令としての「零」の代わりに。三人が同時に、手にしたナイフを各々自分の胸に突き立てた。
…………………………。
事切れた三人の同朋たちが胸にナイフを刺したまま血を滴らせて倒れている中、巨体の男一人だけが、一滴の血も流さず立ち尽くしていた。震える手で握っていたナイフが床へと滑り落ちる。
「う、うううう、ううっ」震えは手から脚から全身へと渡り、いつしか彼はしゃがみ込み、自分の肩を抱きながら泣いていた。「死にたくない……っ」
◇◆◇
――――1889.12.26_
――――ジャック再来か。
クリスマスから一夜明けた明朝のイーストエンド、特にホワイトチャペルには、ロンドン警視庁の警察官たちが大挙して押し寄せていた。ものの一日で五十七人もの人間が殺害され、その翌々日には更に四人が殺され、双方で一人ずつ発狂者が出ている。切り裂きジャック事件最大の容疑者が死体となって見つかってから一年が経過して起きた凄惨な事件に、イーストエンド・オブ・ロンドンは再び恐慌状態に陥っていた。対して、同日同時刻のシティ・オブ・ロンドンは静かなものであった。普段から市警察の人間をそこここで見かけているからか、住民たちの間には手前勝手な安心感が生まれていた。とにかく、シティから出なければ大丈夫だろう? と。
そんな中。シティから、ロンドンから、イングランドさえからも離れていこうとする一組の父子がいた。二人は、シティのほぼ西端に位置する、悪趣味なまでに豪奢な外観を持つ二階建ての屋敷に住んでいた。
「ふうっ、こんなものか」
一階、正面玄関の手前。革製のスーツケース二つと、同じく革製のアタッシュケース一つを足下に寝かせた黒髪の中年男が、額の汗を拭いながら息を吐いた。
ジェイク・ヘッド。内装まで成金趣味溢れる屋敷の主人にしては顔つきから服装まで質素且つ地味な男である。嫌味たらしくはないが、紳士からもほど遠い風貌。
「ショーン、お前の準備はもう出来たのか?」
階段の上に向かって、ジェイクは声を発した。幼い声色がすぐに返ってくる。
「うん。あっちの家へ持って行く物は、もう全部鞄に詰めたよ」
「じゃあ、行こうか。降りて来なさい。コートを忘れるなよ」
「わかってるよ、お父さん」
素直な返事があってから数秒の後、ぎちぎちに膨れたリュックサックを背負い、茶褐色のフェルトコートを着た少年が階段を降りてきた。体積にして自身の身体ほどもあるような大荷物を背負いながらの、よろよろとした足取り。ジェイクの一人息子、ショーン。満年齢十一歳。
徒歩、鉄道、乗合馬車、鉄道、徒歩、鉄道、徒歩……。ヘッド父子はぐんぐんと町を離れて行く。
年は明けて。一八九〇年一月四日の正午過ぎ。二人はとうにイングランドの境界を超越しており、ウェールズはグヴィネズに入っていた。ロンドンを出発してから九日と数時間が経過している。年末年始ということもあってか、乗車券の入手が困難であったり、券があっても何故か満員で乗れないこともしばしば。更には旅慣れていない子ども連れということもあって、父子の旅は当初の予定を大きく掻き乱されていた。それでも何とか辿り着いたグヴィネズの空気は、凍るような冷たさであった。雪こそ降っておらず、むしろ空は晴れ渡っていたものの、気温は十度よりも零度に近い有様。二人はスノードン山系を臨む田舎道を歩いている。
「ううう、お父さん、寒いよう。足も痛い……」
「あとほんの少しだから我慢しなさい。着いたら温かいココアで一休みしよう。……薪が残っていればいいんだが」
父子がロンドンからの引っ越しを決めたのは、最初の切り裂きジャック事件が起こるより更に二ヶ月も前のことであった。東インド会社で財を為して帰国した高祖父をもつジェイク・ヘッドは、曽祖父、祖父、父親の跡を継がなかった。もとい、継げなかった。
イギリスへ帰国してからも紳士教育に目を向けず、相変わらず東インド会社との繋がりで儲けることに執心したヘッドの一族。財産はネズミの子のように増えていった。しかしケチより見栄を立てたがる性格だったためか、気前の良い富豪であった彼らは、湯水のように金を使ってパーティーを催した。社交界からは相手にされていなくとも、親類や友人たちは必ずしもそうではなかったために、それらは何れも盛大なものであった。しかしジェイクの父の代にインド大反乱が起き、東インド会社は解散させられた。元より少なかった貯蓄は、家督がジェイクに移った時――すなわちショーンの母がひどい肺炎で死に瀕していた頃――には尽き始める。そして親類友人たちはクモの子を散らすように去っていった。無論、全員がというわけではない。人間の誰しもが損得勘定だけで生きているはずもなく、何があってもヘッド家を決して見放そうとしない者たちだっていた。祖父母と父母が相次いで没し、妻にも先立たれ、やっと乳歯が生え揃ったばかりの息子を一人抱えていたジェイクにとって、彼らは何ものよりもありがたかった。救いだった。だからこそ別れねばならなくなる。これ以上は彼らの負担になりたくない。そういうわけで父子は、子が半人前になった頃合いに、とうとうロンドンから離れる決意をした。かつての使用人の別宅を買い取り、そこを今後の住処と決めたのである。
「ねえ、お父さん。ウェールズ語ってちゃんと覚えなきゃダメかな? ぼく、まだあんまり自信ないんだけど」
「そりゃあ、覚えるに越したことはないが、しばらくは英語だけでも大丈夫だろう。確かにあの辺りはウェールズ語の話者が特に多いと聞く。それでも大抵の人は英語も少々話せるはずだ。生活にかかわるほどの問題じゃない」
過去に何度か訪れたことのある父と違い、子はこれが初めてのウェールズ。シティから出ることすら稀であった少年にとって。言葉すら異なる未知の土地は、期待よりも不安が大きかった。
「……あ、お父さん、もしかしてあれ?」
そう言って子が指差した先を父が目で追う。確認する。
「ああ、そうだ。あそこがこれからの我が家だ」
二人が見つめる先には、一階建て煙突付きのログハウスがあった。
――――同刻、スノードン山。
スノードン山は、ウェールズ最高峰と言っても標高はたかだか一〇八五メートルに過ぎない。裾野に広がる鮮やかな自然も相まって、一見穏やかで大人しげな山系は、その実、荒らかな気候と厳しい絶壁の数々で知られてもいた。
そんな小さな巨山の一角、切り立つ絶壁の傍に、小屋が建っていた。見せつけるようにして自らの陰部を拡げている、小さく奇妙な裸婦の彫刻像が扉の脇に置かれているその小屋は、誰の目にも、小ぢんまりとした納屋にしか映らないであろう。仔牛一頭、押し込められるかどうかというほどの外観しかない。だが。一度扉をくぐれば、それが大きな思い違いであったことを知ることとなる。傷だらけの木箱やら煤けた麻縄やら。とかく雑多煩雑に物々が散らばる室内は、それらをすべて片付けた上でぎりぎりまで詰めれば、大人が十五人は雑魚寝出来そうなほどの広さがあった。無論、何の種も仕掛けもなくしてそんな超常が起きているはずもない。空間が歪まされているのだ。家主の手によって。この小屋――或いは納屋――は、ある魔術師の住み家であった。窓はなく、天井からぶら下がっているランプには火が灯っていないから、唯一つの扉の隙間から僅かばかり外の光が差し込んでいるだけという半暗室の中に、二つの人影が浮かび上がってくる。
「目が悪くなりそうね。こんな所に住んでいると」
五フィートと少し程度の体躯を持つ人影、女性がそう言うと、
「いいや、そうでもない」先の女性が童女に見えるほどの巨体を持つ、もう一つの人影が答えた。「むしろ夜目が効くようになったぐらいだ」
「そう。だけど、私は特別暗闇に慣れているわけじゃないの。こんな中ではまともに話も出来そうにないわ。明かりを点けてくれるとありがたいのだけれど?」
「あのランプは使うのは書を読む時だけと決めているんだが。いいだろう。どうせ客人なんぞお前たちぐらいのものだからな」
言って。床に置かれた木箱の中から、白い小枝を一本拾い上げた男は、その枝で天井のランプを軽く小突いた。すると、空っぽのランプが空っぽのままで幽玄な光を放ち始める。
「どうして火を使わないの?」
「火は、嫌いなんだ」
「うそ。私に気を遣い過ぎているせいじゃないの?」
「それは……自意識過剰だよ」
白々しい口調で男が嘯いている間に、月明かりほどの穏やかなものではあるが、部屋の中は充分な明るさに満ち満ちた。二人の姿がくっきりと現れる。
一方は、見目麗しい女性。人間ならば二十代後半といったところか。雪のように真白な肌。中背で肉付きはよいが、はっきり太っているとまでは言い難い体型。そんな肉体に反して痩せた頬が艶っぽい顔立ち。切れ長の目は、男女を問わず人の心を吸い込んでしまいそうな漆黒。まつ毛は長い。
他方は、足の裏から頭の天辺まで、八フィート三インチの超人的な巨体。片方にそれぞれ子どもが一人ずつ余裕を持って腰掛けられそうなほど厳つい肩。顔面の下半分を覆う、薄汚く縮れた髭。見目四十歳前後と言ったところ。
「……改めて見ると凄いわね。誰が最初に言い出したのかは知らないけれど、『納屋の大熊』って異称はまさにぴったりだわ」
「ふん。別に儂のことを観察しに来たのではないだろうが。早く要件を言え」
「冷たいのね。少しは期待したり出来ないの? 女が一人で訪ねて来てるっていうのに」
「もうそんな歳でもないんだ。というか。人間どころかヒトですらない女にそういう感情は抱けん。そもそも『一人で』だと? 嘘をつけ。少なくとも十人は『同化』しているだろうが。今は代表でエミリ、お前の人格が表に出ているようだがな。さあ、もう一度言うぞ。さっさと要件を済ませたらどうだ。舞踏会の誘いに来たわけではあるまい」
「まあね。ちょっと、知らせた方がいいかなと思って」
「知らせる?」
「ええ。ワイズネルラのことで」
「ワイズネルラ。狂鬼か」ど低い声で男が言うと、女は無言で頷いた。男は頭を抱えつつ嘆息する。「なんてこった。昨年の末、ロンドンで起きた一連の事件……あれの犯人はまさか」
「ええ。確証は取れていないけれど、九分九厘、ワイズネルラよ。と言うか、やっぱり知らなかったの? 情報がとことん遅れているみたいね。ただでさえこんな人里離れた所に住んでおきながら、今時『連合』にも属していないからよ」
「そうは言っても、あれはあくまで〝組織〟の連合体だろう」魔術およびそれに準ずる神秘組織による連合体。「何の組織にも属しておらず、一族からも離れてしまっている儂が、どの面を下げて加われというんだ」
「だからその辺は私たちの方で口利きするって言って」
「結構だ」
「でしょうね。……このやり取りもいい加減に飽きてきたわ。断られるのが分かり切っている上での勧誘なんてもう懲り懲り」
女はわざとらしく嘆息し、額に手を当てた。
「儂はお前たちの『懲り懲り』という言葉に懲り懲りしているよ」苦笑しつつ、男は言葉を続ける。「それにしてもワイズネルラとはな。前に現れたのは二百年ほど前だったよな? 実際にヤツの活動期間を経験するのはこれが初めてだ。まあ、どうでもいいが」
最悪の災厄たる殺人鬼がよりにもよって己の住まう島内に出現したかもしれないという悪夢の知らせに、男はまるで動じていなかった。『へえ、そうなんだ』。とでも言わんばかり。そんな彼の態度に、むしろ女の方が面喰らっている。
「淡白ね」称賛か、あるいは呆れで、女は溜息を吐く。「ワイズネルラと言えば、魔術師たちの間では親が子どもを脅かす時に使うような存在なんでしょう? そんな伝説級の怪物が、すぐそばにまで迫っているかもしれないっていうのに、その余裕は何なの?」
「余裕があるわけじゃないさ。ただ、とんでもない怪物だからこそ、どこにいたって同じだと思うだけのことだ。単純な空間移動であれば、儂にだって出来る。ましてかのワイズネルラともなれば」
「それはその通りなんだけどね。にしたって落ち着いているじゃないの。挑まれたら、どうにか出来る自信でもあるの?」
「まさか。種族最強の名を冠するヴァンパイアでさえ敗北を繰り返しているという相手に、魔術師として並以下の儂がどう対抗出来るというんだ。狙われたら終いだろう」
「そう。そこまでの覚悟があってもそんな態度なのね。……やっぱり、昔のことをまだ気にしているの?」
「さあな」
「さあな、って……」まるで他人事のように頷く男に、女は溜息を吐いた。「あーあ、折角、海を越えてまで教えに来たのに、何だか無駄足だったみたい。もういいわ。そろそろお暇させてもらうから」
「おい、送らなくても大丈夫なのか? ワイズネルラが近くにいるかもしれないと警告してきたのはお前たちだろう」
早々に立ち去ろうとして扉に手をかける女に、男は慌てて声をかけた。しかし女は首から上だけで振り向いて、告げる。
「平気よ。だって、ワイズネルラが殺すのは人間だけだもの」
人外の女が人間の男の小屋を去った頃、ヘッド父子は遂に目的地へと辿り着いていた。キッチン付き、リビングダイニング完備、中庭まで揃っているそこは、バケーション用の別宅にしてはかなり贅沢な家であった。建物自体はスギの丸太で造られており、外観こそ焦げ茶色であったが、内壁部分は表皮を綺麗に削り、やすりが掛けられており、テーブルや椅子といった家具はすべてパイン材で作られていたために、中は明るかった。
「これから、ここで住むんだね」
「ああ。前の家より、ずっといいだろう?」
父からの問いかけに頷いて、ショーンは少年らしい笑顔を見せた。