その2
「ぐお……っ」霧深い森の中、褐色の男が一人、苦痛の声を漏らしていた。露わになった上半身は傷だらけで――その傷は瞬時に消失した。「ふうううっ」
肩を震わせながら大きく息を吐き、男は首筋の汗を拭った。彼の様子を間近で眺めていた女は、険しい顔で。
「私たちの森であんまりおかしな行為はしないで欲しいんだけれど」
「おかしな、はないだろう。これも修行の一環なんだ」
「そんな自傷行為が?」
自分の爪で自分の身体を痛めつける。そんなことを何度も繰り返していたのを見ていた女は、訝し気に訊ねた。確かにこの男が人間であり、更にこの女も人間であれば、男の行為は異常以外の何物とも思えないであろう。だが彼も彼女も、人間ではなかった。
「ただの自傷行為じゃない」
「知ってるわよ。復元能力を高める為でしょ? そんなことで防御力が上がるなんて、まるで鉄みたいね、ヴァンパイアの身体って」
「分かってて言ったのか。性悪な妖精だ」
「いや、あなたがこの森に来た最初の時に自分でそう説明したんでしょうが。私は、あまりこの森で血を流さないでって言いたいの」
「俺一人程度の血なんかすぐに浄化されるだろ。ここなら」
「気分の問題よ」
「分かった。以後はなるべく気を付ける」
反省の色を見せながらも出て行こうという意志は微塵も見せないヴァンパイア、ゼファロ。『種族最強』の称号を持つ彼は、もう何年もかなり無茶な鍛錬を重ねていたが、特に最近一ヶ月は、この森に籠って更に無謀な訓練を続けている。この森の住人である妖精、エミリたちの助力を得て。そのエミリが問う。
「復元能力は順調に向上してるの?」
「いや。正直、これ以上になるとは思えん。ごくごく緩やかに上がってはいるんだろうが。実感できるほどじゃない」
「まあねえ。それ以上になると、もう復元ではなく再生の領域じゃなきゃ無理でしょうし」
「流石に再生はな」
――精霊じゃあるまいし。
「まあ、あれだ。痛みに慣れるってことも戦いにおいては重要になってくるから。まったく無駄にはならねえだろう。修行のやり方そのものをそういった方向に持っていけば、わざわざ外傷がつくような真似をしなくてもいい。血も流れない」
「そうしてくれるとこちらも助かるわ」
そこから、沈黙。森の環境に惹かれて修行場としての提供を願い出たゼファロと、修行の理由を聞いて快諾したエミリ。特別に親しいわけでもない二人。自然な会話など生まれようもない。結局、それ以上何も言わず森の奥へ立ち去ろうとしたエミリが――はたと足を止めた。同時に、天を仰ぐゼファロ。
「なんだ、あのカラスは」
カラス。通常の個体よりも半周り大きなワタリガラスが、黒々とした羽を広げ、天空から舞い降りてくる。
「あれは、セブンさん?」
「セブン? ロンドン塔のか」
ゼファロの独り言じみた問い掛けに、エミリは頷く。
セブン。ロンドン塔の七羽目。〈物質域〉と〈竜巣域〉を連絡するそのワタリガラスは木の枝に留まり、エミリとゼファロとを交互に見てから言葉を発した。
「久しいな、エミリ。それに、これは『三大純血』が一柱、ゼファロ殿。お初にお目にかかる。自分の名はセブン。以後、お見知りおきを」
「ああ、よろしく」恭しく頭を下げるセブンに応え、ゼファロも首を縦に振った。そうしてエミリをちらりと見遣り。「お前がセブンと知り合いだったなんてな」呟いて。再び視線をセブンに移す。「ここへは知人に会いに来ただけか? それとも〈竜巣域〉で何かあったのか?」
「ええ、実は。どうやらソウ=ソフ・カオスがワイズネルラとの戦いに臨む可能性が出てきたので。その報せに」
「ええっ!? それ、本当なんですか!?」
「どういう心境の変化だ」ゼファロが、エミリほどあからさまな反応を見せないのは、訝りの気持ちの方が強いから。「これまで散々無視し続けてきたくせに、なんだって今更」
「それは……すみません。つい、先走ってしまって。実はまだ、その心境の変化が起こるかもしれない、という段階です」
「なら、それはどうしてだよ?」
「カレン殿が関係しております」
「どこのカレン?」
セブンとゼファロとを交互に見つめ、両方に問い掛けるエミリ。だがゼファロは肩を竦めて、彼女と同様の疑問を抱いている様子。
「カレン殿とは、十七年前にゼファロ殿が引き取った娘です」
「あ、ああ、あの子か。……おい、ちょっと待て。あの子に何かあったのか? つまり、あいつらにも何か……っ!」
ぞくりと。エミリとセブンの心胆を寒からしめる、ゼファロの覇気。事と次第によっては――。
「っっっ、落ち着いて。と、とにかく覇気をお収め下さいっ」身震いしながら、セブンが訴えかける。「ちゃんと、わけをお話ししますから」
………………。…………。……………………。
「クローヴの奴、ふざけやがって。ある意味じゃあワイズよりも性質が悪いじゃねえか」
カレンの無事を知ったゼファロは一定の冷静さを取り戻しながらも、苛立たしげに歯噛みしていた。
「なら、今からでも止めに行くの?」
「いや、そんなことをしても拗れるばかりだろう。カレンの無事が保障されてるんなら、むしろ交渉が上手くいくのを祈るばかりだ」
言って。ゼファロはエミリたちに背を向けて歩き出す。その先にあるのは、森の出口。
「え、ちょっと」
「ゼファロ殿、何処へ?」
「分かり切ったことをわざわざ聞くなよ」
目指すは『連合』。そして殺人狂鬼。