その3
後ろ髪惹かれる思いのままに生まれ故郷を去ったカレンは、クローヴに連れられて次なる目的地へと着いていた。ウェールズはグヴィネズに位置する、スノードン山の頂上。真夜中とは言え、星の瞬きと月明かり、生活上慣れた夜目のお蔭で、カレンの視界はくっきりしていた。
「凄い。ここ、火山なんですか?」
「いいや。これはワイズネルラと魔術師の戦いで出来たものだ」
「っ!」
「もっとも、こうしたのは魔術師の方だがね。ワイズネルラにはまるで通用しなかった。結果的にただ自然を破壊しただけだ」
クローヴの背から、首と目線だけを動かして、カレンは周囲を見渡す。ほとんどが土と砂と岩だけの赤茶けた光景の中に、僅かながら雑草が生えている。
「……クローヴさん、バットエッグさんの話、本当なんですか?」
「本当だよ。アイツは昔、人間にひどい裏切りを受けた。いや、正確には最初から騙されてたんだから、裏切りともちょっと違うんだが」
人間の女と出会い、結ばれ、子を為したら、女はただ人間とヴァンパイアの混血をサンプルとして欲していただけの魔術師で、しかも既婚者だった。美人ではなかった。むしろ醜い容貌で。だから肉欲ではなく情に訴えることでバットエッグを籠絡したのである。それだけの話。
「あいつが人間に好き放題悪戯をしていたのも『人間ならどうなってもいい』という考えがどこかにあったからだろう。いざアンタのような事例が生まれるとああなっちまう辺り、まったく中途半端な懦夫だがね」
「…………」
複雑微妙な表情で黙りこくるカレンを尻目にクローヴは、
――人間すべてを一つの塊として見てしまっている辺り、バットエッグの価値観はカオスのそれに近かった。だが、カレンというイレギュラーのせいで変わり始めている。これは、ひょっとしたらひょっとするかもしれないね。
そんな風に期待を膨らませていた。
「さあ、さっさと行くよ。と言っても、変身も出来なければ姿を消すことも叶わないワタシが町中で姿を晒すわけにもいかない。助っ人を呼ぶよ」
「助っ人ですか?」
「ああ。来な、セブン」
その叫びに呼応し、天空から、一羽のワタリガラスが飛来した。クローヴの首と背の間、カレンの目の前に着地する。
「初めましてカレン殿。ロンドン塔七羽目のワタリガラス、セブンでございます。ここから先は自分がご案内させていただきます」
「あの、よ、よろしくお願いします。……ここから町まで歩いて行くんですか?」
「いえ、ここから町までぐらいの空間移動であれば自分にも可能ですので。身体のどこかに触っておいてください」
「それじゃあ」
言って。カレンは指先で恐る恐るセブンの羽に触れた。
気が付くと。一人と一羽は、どこかの家の裏手に来ていた。一階建てで煙突付きのログハウスからは、まったく人の声がしない。
「ここは」カレンは、彼女の眼前で翼をはためかせているセブンに訊ねた。「誰の家なんですか?」
「あなたの中に眠る魂の片割れ。その前世が、生前を最後に過ごした家です」
「やっぱり」
カレンはさしたる驚きも見せずに言った。
先ほど行ったのが現世の故郷なら、次に連れて来られるのは前世の故郷かそれに近い場所に違いないと分かっていたから。それにしても。
「今は誰も住んでいないんですか?」
「いいえ。こちらの窓から、中をご覧ください」
セブンに羽招きされたカレンは、カーテンのない窓から、そっと中を窺った。火の燈ったランプを据えた台の傍にあるベッドの上で、初老の男が一人横たわっていた。
「あれがアナタの前世の父親です」
「えっ……」
この町には生きた人々が大勢いる。さっきのような死んだままの村ではない。しかし、もしこの町がワイズネルラによる殺戮を受けた後に再興しただけの町なら、前世の自分はその家族諸共に虐殺されたと考えた方が自然だと、カレンはそう考えていた。先ほどクローヴの話に出てきた魔術師のお蔭で、この町自体は殺戮を免れたことなど、彼女は知らなかったから。よもや前世の父がまだ生きているなどとは想像もしていなかった。が。
「病気なんですか?」
窓の外から覗いただけでそう思わざるを得ないほど、ベッドの上の男は憔悴していた。顔は極限までやせ細っていて、明らかに不健康な青さ。髪はすべて白くなっていた。
「病気と言っていいのかどうかは判別し難いのですが、相当に弱り切っているのは確かです。理由は言わずもがなですが。もう長くはありません」
「そんな……あっ!?」
突然。膝から崩れ落ちたカレンが、両手で頭を抱え込みながら、言う。
「……おとう、さん」
「なっ! カレン殿、まさか記憶が?」
「いえ、私、あの人の名前も分かりません。だけど、あれ?」
カレンの目から温かな涙が溢れ出し、彼女の頬を伝った。
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶですっ」
あからさまな虚勢。滅茶苦茶に目を擦り、涙を拭いて、気丈に振る舞うその姿は痛ましくすらある。
「もう行きますか」
「そうですね」
「では、またどこかに掴っておいてください」
「ええ」
セブンの羽に手を伸ばしつつ、カレンは、最後にもう一度振り返った。男は咳き込みながら、何やら譫言を呟いている様子。また泣きそうになったカレンは急いで目を瞑り、セブンの羽に触れた。
再びスノードン山頂。クローヴの背にカレン。セブンはいない。
「もう帰っちまうとは、忙しない奴だね、アイツも。じゃ、ワタシたちも次こそ、カオスの所へ行くよ。覚悟はもう出来ているかい?」
「はい」
しっかりと前を見据えて答えるカレンの顔に迷いの色は毛ほどもなかった。魔術師ですらない自分に、ワイズネルラと格闘する術はない。しかし、自分には自分しか出来ない戦い方がある。ワイズネルラを滅ぼすために。カレンは今、カオスとの闘いに臨む決意を確たるものにしていた。
「連れて行ってください」
ゆっくりと浮上を始めたクローヴが、カレン諸共に姿を消した。




