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――――ワイズネルラの封印から十三年後。
人間界とも異称される〈物質域〉の裏側に存在するもう一つの空間〈竜巣域〉で、一つの諍いが起きていた。
ファントム・グラスの草原で、一人の男と一人の少女が言い争っている。
男の名はソウ=ソフ・カオス。並みの人間で言えば見目二十代後半ほどの容貌だが、実際には人類誕生以前から生きる、この世界最初のヒトであると同時に、魔術の祖。
少女の方は、並みの人間で言えば十四、五歳ほど。しかし彼女も人外の存在であった。もっとも、カオスと比べれば胎児同然な年頃ではあるが。そんな彼女の訴えを、カオスは。
「悪いが知ったこっちゃないぞ、そんなこと」完膚なきまでに拒絶している。「ここで起こったことならともかく、〈物質域〉で起こったことだろう。ワシにどうしろと言うんだ」
「どうしろも何も、仕返しして欲しいの!」
「いつからワシは復讐代行屋になったんだ。自分でやれ。それかせめて親か他の友達に言うんだな。なんだって名前も知らない奴のために仕返しなんかせにゃ」
「名前はドリーよ。ほら、名前の知ってる奴になった」
「……子供かお前は、って、子供か。馬鹿馬鹿しい。もう帰れ」
「うううっ、じゃあ、せめて怪我を治してあげてよ!」
「後遺症が残ったり、命に関わったりするほど酷いものなのか?」
「今使ってる薬でも、一ト月ぐらい経てば治るらしいけど」
「なら、そうすればいいだろう」
とりつくしまもなく拒絶された少女は、膨れっ面のまま去って行く。そんな彼女の背中を、カオスは大きな溜息を吐きながら眺めていた。少女の姿がすっかり見えなくなった頃合い、まるで入れ替わりのように突然現れた真紅の竜が、悠然と地上に降り立った。脚一本が人間の全身よりも大きいその竜の名は。
「クローヴか」
唯一無二の幼馴染の登場に、しかしカオスは浮かない表情。
「なんだったんだい、今の子は? スプライトの娘だろう?」
「恋人がな、人間の魔術師に怪我負わされたんだとさ。その仕返しをワシにしてくれなどとふざけたこと言ってきた。一方的に襲われたのならともかく、喧嘩の末のことでだぞ? 見たところ男の方は納得しているのに、あの小娘が勝手に息巻いているようだ」
「ふうん。男とか女のある生き物は色々面倒だね」
「お前らにだって雌雄の別はあるだろうが。まあそんなことはどうでもいい。今日は何をしに来たんだ」
「ワイズネ」
「やはりまたその話か、もういい加減にしろ」クローヴの言葉を苛立ち混じりに遮ったカオスは、勢いのまま捲し立てる。「今の内にワイズを始末しろと言うんだろ? 何度も何度も、もう〈物質域〉には干渉しないと宣言してるワシに。勘弁してくれ、というかな、そもそも無理なんだ。お前があんまりしつこいから昨日ここから観てみたが、あの結界、隔絶に関しては神業並みだ。外から中への干渉も、中から外への干渉も不可能だよ。外側からなら、破壊することは出来るがな。しかしそんなことをしたってワイズが外に飛び出してくるだけのことだ。結界諸共に奴を消すことは出来ん。〝結界の中〟と〝結界の外〟、そして〝結界そのもの〟。各々が完全に別次元の存在だからな」
「『第四の壁』どころか『第三の壁』にすらも到達していない人間たちが、そんな高度な術式を?」
「相乗効果ってやつだろう。一人一人は傑出していなくとも同属性の魔術師が十何人と集まって、必死に行使した術式だしな」それはまさしく呪いと呼ぶに相応しい、人間の執念。ワイズネルラへの怨念。『降魔衆』は単に、人間すべての意思を代行したに過ぎないのかもしれない。「しかし、本当にただ閉じ込めるだけの効果しかない結界みたいだったな。ワイズには傷ひとつなかった」
「へえ。で、その封印が破れるのは、いつ頃になるかね」
「そりゃあ結界自体が経年劣化により瓦解する頃だろう。もって後三年か四年といったところかな」
「そうかい。三、四年か。ちょうどいい頃合いだね」
「なんだ、お前、また妙なことを企んでるんじゃなかろうな?」
「無論企んでいるが、それがどうかしたのかい?」
開き直りにしても堂々とし過ぎているクローヴに、カオスはもはや企みを追求する気も失せ、代わりに、根本的な疑問を口にする。
「お前、何だってそこまでワイズに固執するんだ?」
軽い調子で、これは雑談に過ぎないという含みを持たせた上でのカオスの発言に、しかしクローヴは意味深長な反応を見せる。広げていた翼をたたみ、身体を屈め、頭を下げて首を曲げ、カオスと視線の高さを合わせる。そして告げる。
「秩序だよ。ワイズネルラは存在として偏り過ぎている。あんなものの存在、ワタシには我慢ならない。秩序の竜としてね」
「なんだ。詰まる所、お前の願いはそれか。ワイズの消滅を願うのは、人間を慮ってのことじゃなく、秩序を欲するが故か」
冷笑するようでいて、しかし侮蔑の意思はないカオスの明け透けな言葉に、クローヴは悪びれた様子もなく頷いた。更に加えて。
「まあ、ワタシが望むのは『秩序ある世界』じゃなく、『秩序あるものによる世界』だけどね」
単一の生物種のみを大量殺戮し、何ものをも生み出さないワイズネルラは、クローヴから見ると非常に偏った存在に映っていた。ならば人類は世界そのものの秩序を乱しているではないか、という見方もあろうが、人類それ自体はその多種多様性によってむしろ秩序を保っている。クローヴが排除したいのは『秩序の乱れた存在』であって、『秩序を乱す存在』ではない。彼女は世界の意思を代行・代弁する〝精〟霊ではなく、自意識の元に行動する霊〝獣〟なのだから。そうしてそんな彼女の自意識が望むものは『秩序ある世界』ではなく、『秩序あるものによる世界』なのだから。彼女の、ワイズネルラに対する志向原理は決まっている。秩序ないものは消えよ。
「秩序あるものによる世界、か。ならばワシはどうなる。秩序とは正反対な存在じゃないのか?」
「やだねえ、幾ら秩序が乱れた存在でも、よっぽどの悪人じゃない限り危害を加えようと思わないさ、ワタシは」
「その善悪の判断だってお前のさじ加減ひとつだろう」
「……アンタにも家族がいれば、少しは」
「その手の話はもうやめろと、何度も言ったはずだ」
竜の胆を冷やすほどに冷酷な声色のカオスに話を打ち切られ、クローヴ大きく溜息を吐いた。
ちょっと休憩




