-2
――――ワイズネルラの封印から十一年後。夏。日本、某所。
幾所帯もの家族が暮らす長屋の軒先で、割烹着姿の、見目十六、七歳ほどの女が、きょろきょろと辺りを見渡していた。彼女の視線は、談笑する婦人方を通り過ぎ、腹這いになって日向ぼっこしている犬も横切って、メンコ遊びに興じている子供たちで止まった。見目十歳そこそこほどの男の子が二人と、彼らよりまだ少し幼い女の子が一人。
「春竜君、ご飯ですよ」
「はあい!」男の子の内の一人、春竜が、元気よく返事をする。「じゃあ、またな。お昼からは、他の用事あるから」
「おう、ほな、ぼくらもかえろか」
「うん。うちもそろそろごはんやもんな」
そうして。男の子と女の子は春竜に手を振りながら同じ方向に走り去っていく。春竜もしばらく彼らに手を振っていたが、二人が長屋の内の同じ家の中に入ったのを見届けてから、代の待つ家に戻っていった。
「代ねえ、今日の昼飯、なに?」
「素麺です」
「また?」
「これなら失敗しませんから。……素麺は嫌いでしたっけ?」
「きらいやないけど」ひと夏の内に何度も何度も食べさせられては流石に飽きてくる。そんな含みを持たせたまま、小さなちゃぶ台の前に座った春竜は、いただきますも言わず麺を啜った。「あ、冷とうておいしい」
「そうでしょう。今日は氷が手に入りましたからね」
「へえ。冷たいだけでべつもんみたいやな」そんなことを言いながら二口目を啜ったところで春竜は、素麺が一人分しか用意されていないこと。代はただ自分がそれを食べている様子を眺めているだけであったことに、ようやく気付く。「代ねえはまた食べへんの?」
「ええ、氷を買った分倹約です」
「はあ? それやったら、これいっしょに食べようや」
「しかし、そうなると春竜君の分が減ってしまいますよ」
「かまへんて。一人で食べてるほうがきちわるいし、家族やんか」
「……では、箸を取って参ります」
立ち上がり、とたとたと、台所から桜色の箸を取って、代が戻ってくる。そうしてまず一口。
「うまいやろ?」
「さあ、よく分かりませんね。味なんてほとんどないですし」
「そこはウソでもうまいって言っとこうや……」
気遣いは出来るが気配りは出来ない代の態度に、およそ子供らしくない溜息を吐きつつ、春竜はまた一口と冷たい素麺を啜る。一人前の素麺は、二人が同時に食すれば瞬く間に減っていく。あと一口ずつで完食かというところで代が、食べるため以外の目的で口を開いた。
「今日もまた、山へ行くの?」
「うん。今日で最後やし」
――――鞍馬山、僧正ヶ谷不動堂。
ちりぢりとした白髪が肩まで伸びて広がっていて、同じように生える顎髭と一体化しているかのような面相。一羽の小鳥が止まった鼻は恐ろしいほどに高く突き出ていて。肌は朱色。そんな男が不動堂の前に座り込んでいた。
かつて人間の陰陽師であった男は、寿命という『第二の壁』を越えてから新たな生き方を模索し、鞍馬山に籠り修験者となった。そうして遂には『第三の壁』をも越え、人間ではなくなっていた。彼にとって鞍馬山は潮干の山。
「ん」目を瞑り黙想している様子であった彼は、不意に目を見開いて言葉を発した。「来たか、小僧」
「うっ」観念した様子で堂の影から現れたのは、自分と似通った道を選びとった少年。陰陽師の家に生まれながら、修験者へと鞍替えした春竜であった。「気配は完全に消しとったはずやのに……」
「まだまだ。結局、最後まで先手は取れず仕舞いだったな」
「くううっ!」
今にも地団太を踏み出しそうな勢いで口惜しがっている春竜。男は「くくっ」と愉快げに笑っている。彼の鼻に止まった雀までもが笑っている。それがまた、春竜の気分を煽る。「これじゃ勝ち逃げやないですか」
「去るのはお前の方なのだから、どちらかと言えば負け逃げだろう」
「……じいちゃんもついて来たらええのに」
「それは無理じゃな。儂はここに封じられた身なのだから。しかし兄弟続けて儂を誘ってくれたのは嬉しいことだ」
「兄ちゃんも、おれと同じこと言ってたん?」
「ああ、東京まで来いというほど極端なものじゃなかったがな」
「ふうん……」
「さあ、さっさと始めるぞ。今日は暫定卒業祝いとして、第七道の法を授けるんだからな」
「はい。でも、おれなんかがほんまにそんなもん使えるんかな?」
「使えるわけなかろう」
「ええー……」
あまりにキッパリ言い放たれて落胆する春竜に、男は更に厳しい言葉を重ねていく。
「東京へ行くお前に、あくまで餞として伝授するだけじゃ。使えるようになりたければ、もっと精進を積むんじゃな。そもそもが六道の内に囚われた人間の使えるものでないことを忘れるな」
「分かりました、よく心得ときます」
そして。男から春竜への、最後の師承が始まった。




