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―――ワイズネルラの封印から十年後。
太陽の光が一切届かない、奥深い地下の洞窟。澄んだ地底湖であるとか煌めく水晶などない常夜の世界。そんな場所で、
「まっず! なんじゃこりゃ。こんなもん食うぐらいならニンニク生で齧ってる方がまだマシだ」
「お前、そりゃ俺が作ったビーフストロガノフじゃねえか」
「キバが作ったんじゃあ、まずいに決まってるわね」
「どういう意味じゃこらあ!!」
異常なまでに騒々しい食事が行われていた。総勢十五名。
大小幾つもの部屋が蟻の巣のように点在する大空洞の中でも一際広いその大広間は、この洞窟に住まう者たちの食堂であった。
「ちょっと最近脂っこいもの多すぎるんじゃね? バランスよく野菜も食わせろよ」
「うるせえ、文句あるならてめえの食い物はてめえで獲りに行け」
「それじゃ何のために食事係を当番制にしてるのか分からないじゃないの。開き直らないでよね」
「つうか今日なんかヒト多くねえか?」
松明と蝋燭の灯りだけが照明となっている空間は、しかし太陽よりも明るく活気に満ちていた。彼らの内、実に十三名が、まさか夜の住人である吸血鬼であるなどと、一体誰が思うことであろう。
ヴァンパイア。吸血鬼の中でも最大の個体数を誇るこの種は、三つの派閥に分かれていた。内二つは、方向性の違いこそあれど、概ね似たりよったりな性質を持つ。すなわち、大主を頂点にした完全なる序列制である。
唯一、ゼファロ派と呼ばれるこの派閥だけが違っていた。ヴァンパイアの変わり者集団、ゼファロ派。彼らに序列などというものはない。似たようなものがあるとすれば、それはせいぜい先輩後輩の分別ぐらいのもの。だからこその、この光景。ただ彼らがヴァンパイアの中でも変わり者集団とされるのは単にそれだけが理由ではなかった。純血種を絶対視して混血や次代を奴隷としか看做さない派閥・甲や、ヴァンパイアを至高の種族へと高めるあまり異種族すべてを敵対視する派閥・乙とは根本から異なる一点が、ゼファロ派にはあった。
「ん、うぅ」
人間で言えば二十代か三十代ほどの外観年齢の者が大半を占める中、ただ一人だけ混じった見目七、八歳ほどの褐色の童女が、短い手を必死に伸ばしていた。彼女の指先に触れるか否かの位置に置かれているのは、フライドポテトが盛られた皿。身を乗り出してもまだ手が届かない童女が泣きそうになっていると、すっと伸びた手が横から現れて、件の皿を易々と引き寄せた。
「はい」
「あ……ありがと」
「どういたしまして」
童女の右隣に座っていた女ヴァンパイア――キリは、優しく微笑んだ。さっきまで泣きそうになっていた童女は途端に顔を綻ばせ、不格好なフライドポテトを一つ手に取り、小さな口で齧りついた。事情を知らぬ者にすれば、どこからどう見ても仲睦まじい母娘のやり取りにしか見えない光景であるが、二人に血縁関係はない。いやそもそも同じ生物ですらない。この童女――カレンこそ、ゼファロ派の特異性を示す最も分かり易い証拠であった。
「カレン、ケチャップ使うか?」カレンの向かいに座る、空手の道着を着た坊主頭の男が、半固形状の赤いものが詰まった瓶を掲げながら訊ねる。「今トマトの方は切れてるから、血のケチャップしかねえけど」
「え、ち、ちはやだよう」
「好き嫌い言ってるとでかくなれねえぞ」
「人間相手に無茶苦茶言ってんじゃないわよ」
カレンの左隣に座る女は、そう言って坊主頭の男を詰った。ワイズネルラに襲撃された村で唯一生き残ったカレンをゼファロが引き取って来たのが十年前。カブとキリを中心に、ゼファロ派のヴァンパイアたち総出で育てられたかつての赤ん坊は、もう十歳になっていた。豪放磊落大胆不敵で恐れ知らずな吸血鬼たちに囲まれて育った彼女は、繊細微妙慈悲深甚で怖がり屋な少女に育っていた。
食後、片付け係以外の面々が各々の自室へ戻っていく中、カレンとキリだけは外へ向かっていた。カレンはキリに手を引かれて、滲み出す水で滑りやすくなった地下道を、足下に気を付けながら進んでいく。真っ暗だった少女の視界に、徐々に白い光が差し込んでくる。ようやっと穴から這い出して二人がやって来た地上は、ある意味において洞窟の中よりもっと寂しく殺風景な場所。回転草に似た植物が所どころに生えている――見た目としてはもはや生えているというより置かれている感じの――半砂漠地帯。もともと夜の世界の住人ではない少女を日中年中暗闇の洞窟に閉じ込めることに抵抗を感じたキリが、ワイズネルラが封印された時から始め、今や欠かせない習慣となっている食後の散歩。まだ朝靄のかかった時間帯であり、気温的には涼しいくらいなのだが。
「ふう」
ヴァンパイアのキリは手で首筋の汗を拭っている。純血種である彼女にとって空の太陽はそれほどの脅威ではない。かといって存在を無視できるほどのものでもない。ヴァンパイアである以上、やはりキリも夜の世界の住人に違いない。そんな彼女にとってみれば夜の暗がりで遊ぶ少年少女こそが子どもらしい子どもなのであり、太陽の光を身に浴びて生き生きとしているカレンの姿は不気味にすら感じられていた。
――人間なら逆なんでしょうけどね。
遺伝子か。環境か。或るいは霊魂か。何れがヒトを形作る上でより大きな要因となるのかを論じる者は多い。だが生物の差で論じる者はいない。人間の他にヒトが有ることを知らぬ者たちを除いて。
「ねえ、カレン。昼と夜、どっちが好き?」
「へ?」唐突な質問に目を丸くしながらも、一生懸命に考え込んでから、カレンは答える。「よる、かなあ。おひるもぽかぽかしててすきだけど、よるのほうが、みんなげんきだから」
「そう」
邪気のないカレンの答えに、キリは複雑な心境。カレンは既に人間として歪みを生じてしまっている。当然と言えば当然な話。どれだけ気を遣って一緒に暮らしているつもりでも、人間とヴァンパイアとにはあまりに大きな〝壁〟がある。まずヴァンパイアの生活とは、単純に人間の生活を昼夜逆転させたものではない。そもそも眠りを必要としないヴァンパイアは基本的に起きっぱなしである。ただ時折、人間が昼寝をするのと同じ感覚で横になることがあるという程度。そんな彼らに囲まれて暮らすカレンは、眠くなったら寝るという、まったく不健全な生活習慣を当たり前のものにしてしまっていた。結果、彼女の体内時計は幼少時に壊れてしまった(人間の体内時計とは――機械仕掛けの時計と同様に――時折調節せねば容易に狂ってしまうものであるから)。カレンの身体的な成長が同年代の人間と比べてかなり遅れているのも、それが大きな原因の一つに違いなかった。
――もうすべて元通りにすることは出来ない。だけどやっぱり。
「……あなたは人間だし、いつかはこの世界へ帰って、いい人を見つけた方が幸せになれるのかもしれないわね」
「ふえっ? な、なんでそんなこというの?」
「ああ、誤解しないで。あなたを追い出そうってわけじゃないんだから」カレンは今にも泣き出しそうになっているが、キリはあくまで落ち着いて言葉を紡ぐ。「いつまでも私たちと暮らしたいなら、それでもいいの。だけどそれなら、あまり歳を取らない内にあなたも吸血鬼になった方がいい。……人間のままで私たちと暮らしたいって言うんなら、それはそれで構わないけれど。あなたがどんな道を選ぶとしても、私たちは出来る限り手を尽くすわ。だけど忘れないで、選ぶのはあなた自身よ」
「うう。まだわからないよ。おとなになったときのことなんて」
「そうね。まだ分からなくってもいいわ。ただ、頭の片隅には置いておいて欲しいの。何せ一生のことだから。あなたが大人になった時にさあ今すぐどうするか決めて、ってわけにもいかないでしょ」
「そうなの?」
「そうよ。だけど、外に出ると言ったって、ワイズネルラが現界している内は駄目。あいつが完全な休息期間に入ってからね。極東の魔術師たちが余計なことしてくれちゃって……。まあ、少しは痛快だったけど」
「ワイズネルラ……」
カレンはその恐ろしい名前を反芻する。
――ほんとうのおかあさんたちをころしちゃったヒト。
自分は人間で、自分が『おかあさん』『おとうさん』と呼んでいる人たちはヴァンパイア。それを知っているカレンは、なぜ人間である自分がヴァンパイアである彼女らに保護されているかも知っていた。カブがすべてを話したからである。ワイズネルラ。それが、自分の本当の両親を殺害した化物の名前であるということを。だが彼女には、それが本当に自分の過去にまつわる〝すべて〟であるとは思えない気持ちがあった。
「おかあさん、わたしって」おかしな子だと思われるのを恐れて今まで口にしなかったことを、カレンは今、ようやく吐き出そうとしていた。「むかしはおとこのこだったのかな?」
「え? 何の話? あなたは赤ん坊の時からずっと女の子よ」
「そうじゃなくって、その、あかちゃんのときよりもっとまえ」
「ええ?」一瞬、カレンが何を言っているのか分からなかったキリだったが、考えてみれば今の言葉が意味するところはひとつしかないことに気付く。「つまり、前世ってこと? なんでそう思うの?」
訊ねられて当たり前のことを訪ねられたカレンは、難しそうな顔をして暫し考え込んでから、おずおずと口を開く。
「なんかね、ときどき、わたしへんなの。見たことない人のかおがあたまのなかにうかんでくるの。おとうさんとはべつのおとうさんとか、くまみたいにおっきな人とか、すごくこわい人とか……。その人たちのかおがうかんでくるときね、なんだかわたし、おとこのこみたいなの」
「……は?」
支離滅裂で要領を得ないカレンの言葉に思わず頓狂な反応を示してしまったキリは、しかしすぐ自分を落ち着かせて、彼女の言わんとしていることを頭の中で整理してみようと試みる。
――つまりカレンには断片的に前世の記憶がある。そしてその前世は男の子だったってこと?
輪廻転生は、魔術社会においては古くから実証されている現象である。某錬金術師が記した『魂魄寄生論』にはこう記されている。
ごく一部の魔術、及び化身能力を含む一部の異能力でなければ干渉できない半不滅の存在である『魂魄』は、それが宿る肉体が滅ぶと同時に一度上層界へと昇り、その後また下層界にて新たな肉体を見つけてそこに宿る。また、ヒトの記憶は肉体の一部である『脳』に宿るものであるから、転生後の人格に転生前の人格の記憶が継承されることは通常あり得ない。
と。この説は多くの魔術師たちに支持されており、キリも概ね信用しているものであった。それ故に、カレンに前世があることに対しては驚きなどない。問題は、断片的にとはいえ彼女に前世の〝記憶〟らしきものがあるということ。
――そう言えば、記憶を脳から魂に移し替えて転生するっていう魔術の噂、聞いたことがあるけど。まさか。
カレンの前世とは、その魔術を不完全に行使してしまった魔術師なのか……。