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ワイズネルラの封印という未曽有の事件は瞬く間に世界中の魔術師たちに広まった。当初はとにかく混乱だけが大きかったが、徐々に落ち着いてきた頃、封印の実行者である『降魔衆』たちを待ち受けていたのは非難の嵐。今日明日の命かもしれないと怯えていた魔術師たちも始めこそ安堵に包まれていたが、時が経つにつれて別の感情が湧き起こるのを抑えられなかった。
「本当なら次に奴が現れるのは二百年も後だったはずなのに」
ちょうど、ワイズネルラの本来の活動期が終わる頃に浮上し始めた世論。とかく人間は現金な生き物で、それは魔術師たちと言えども同様であった。が、そこはさすが皆『第一の壁』を越えた超人たち。いつまでもぐずり続ける者などごく少数で、多くの魔術師たちの思考は割に早く次の段階へと向かっていた。すなわち十数年後に必ず封印から解かれるワイズネルラへの対処に向けて、『連合』各組織及びフリーの魔術師たちが、早くも動き始めていたのである。そしてそれは、あの男も例外ではなかった。
「一人で屑になる覚悟もない人間は屑以下だ」
――子供の頃、誰かにそう言われた。
「自分のことしか考えられない屑ってだけならまだいい。だが、自分がそうだからって、誰もがそうだと決めつける奴は最早どうしようもない。例えば凶悪な事件が起きて皆が憤っているところへふらっと現れて『自分に直接関係ない事件なのに何を怒ってる? 偽善者め』と抜かす輩。例えば飢餓で苦しむ子たちのために寄付を募る活動に対して『何の得にもならないのによくやるね。偽善者め』とほざく輩。そりゃあ屑からすれば関係のない誰かの為に怒れるだなんて信じられないのかもしれない。無償の好意なんて更に信じられないのかもしれない。でもそれは所詮屑の価値観に過ぎない。見返りがなくても誰かを助けたいって気持ちを持ってる人なんて幾らでもいる。屑以下の人間はそれを認識しない。要するに自分だけが最低な奴だっていうのが信じられないからって『どうせ皆も俺と同じような屑のはずだ』と思ってるってことだろう。そんな風に一人で屑になる覚悟もない奴は屑以下だ」
――と。言われた時、俺はまだ本当に子供だったから、言われたたことの半分しか理解出来てなかった。でも、今はそれでよかったと思う。もし全部を理解できていたら、俺はきっと、ただの屑にしかなれていなかった。半端にしか理解してなかったから、今の俺がいるんだと思う。自分で言うのもおかしな話ではあるが、俺は人一倍、誰かの為に何かをしたいという気持ちの強い人間になれた。でもそれも終わりだ。俺は今、誰でもない自分のためだけに、あることを為そうとしている。誰一人幸せにしない、どころか幾人もの幸福だとか平穏だとかをぶち壊してまで、やりたいことをしようとしている。ただ俺は、屑以下にまではなりたくないから、己が屑だと自覚した上で行動を起こすつもりだ。俺はただ自分のために、自分のためだけに、死ににいく。
――――ワイズネルラの封印から四十九日後、関西某所。
真夜中、住人たちの殆どが寝静まった長屋の前で。
「本当に行かれるのですか?」
二歳そこそこの男児を腕に抱えた女が、彼女に背を向けて行こうとする男に問い掛ける。男は振り向かず、しかし足を止めて、
「ああ」即答する。「お前には色々と押し付けてばかりですまないと思ってるが、どうしても、行かなきゃならないんだ」
「また、会えますか?」
「いや……恐らく、もう会うことはないだろう」ためらいがちにそう言って、男は、女の腕の中で眠そうに首を揺らしている男児へと目を向ける。「真壁の家はお前とその子に譲る。物の分別が着くぐらいの年頃になったら、二人であそこへ帰るといい。もっとも、それをその子が承諾したらの話だが」
「承諾しなかったら?」
「幸生を連れ戻せばいい。兄がいなくなったら弟が家を継ぐのが道理……いや、急にそんなこと言い出せば流石にあいつも怒るだろうが、なんのかんのと言って折れてくれるだろう」
「了解しました。」
「うん。代、今までありがとう」
最後に素直な思いを告げて、真壁幸守は歩き出す。荷物はたったひとつ。胸に仕舞った鬼一刀。
――とんでもない泥棒だな、俺も。
自嘲しながら、幸守は行く。
代もまた、もう彼を引き留めることをしない。万感胸に迫れど言葉に出来はしない。赤ん坊の頃から知る男が自分の前から去っていく姿を、見えなくなるまでただずっと眺めていた。
――――アメリカ合衆国メイン州ポートランド
「何もかもを捨てて、よりにもよって私のところへ来るとはな。師をつけるなら、もっとマシな魔術師が幾らでもいるだろうに」
そう漏らす見目三十歳ほどの男に、幸守は頭を下げ続けていた。
男の名はバリアー・マクベイン。錬金術師の大家にしてホムンクルス精製の第一人者。真壁家に仕える人型式神『代』も、彼のホムンクルス理論を応用して造り出されたものである。
「第一だな、ワイズと戦いたいというのであれば、今から自己を鍛えるよりも仲間を募った方がまだ建設的だぞ」
「俺が自分でやらなくては意味のないことなんです。俺はワイズネルラに消えて欲しいわけじゃない。誰かに倒されて欲しいわけでもない。俺があいつに一糸報いたいだけなんです」
「なるほどな」
幸守の気持ちを悟ったバリアーは、額に手を当てて考え込む。
――これ以上犠牲者を増やさないように、とかじゃなく、ただ自分の意地を通すためだけに、か。
「分かった。しかし、私だって暇じゃない。子孫のためとはいえども、常に直接指導出来るわけじゃないぞ。三日の内の一時間でも見てやれればよい方だ。土地や道具は好きなだけ貸してやろう。その程度でもいいなら」
「はい。よろしくお願いします。それから、謝礼の方は」
「そいつはまあ、追々考えよう」




