その8
あまりにも奇妙な夢――実際にはそれは夢などではなかったが――より目覚めてから、南木槐子は綺麗に片付いた茶室で寝転がったままずっとぼうっとしていた。夢の内容のせいで、彼女の意識は今や大きく変わっていた。孤独のままに生きるなら、いっそ慕われたまま死んだ方がいいなどという考えが、如何に時代遅れで英雄願望の強いものであったか、痛烈に思い知っていた。あの時彼女が真に感じていたのは、死への恐怖。何度も何度も殺されながら、しかし死ねない。だがそれでも、もういっそのこと殺してくれなんてことは思えなかった。死にたくなかった。生きている。ただそれだけでなんと喜ばしいことか。そんな幸せに浸っていると、
「槐子ちゃん、いる?」
不意に、外から聞き知った女性の声。
――隣のオバさんだ。何だろう?
とにかく応対しなくてはと、大儀な身体を起こした槐子は玄関へと向かう。
玄関の向こう側では、青褪めた顔の中年女性が立っていた。
「あの、どうかしたんですか?」
「ああ、槐子ちゃん。お宅の車夫の一郎太さんなんだけど」一度そこで言葉を区切らせた女性は、言い難そうにして、告げた。「実は昼頃、実家の近くで、鬼の恰好をした暴漢に刺されて……。かなり危ない状態らしいの。鈴谷病院にいるから、早く行ってあげて!」
「う、うそ……」
あまりにも急な報せに、槐子は頭が真っ白になる。だがすぐに我に返り、草履を履いて飛び出した。
「待って、俥を呼んだ方が」
背に掛けられた声も聞かず、走り出す。南木家から鈴谷病院までは決して遠くない。体力に自信のない槐子でも、全力で駆ければ十分とかからない。まして今の彼女は半ば取り乱しており、疲れを知らぬ状態にある。すれ違いざま、奇異な目で振り返る人々を意にも介さず、彼女は駆け続けた。
鈴谷病院は、病院とは言っても東京大病院のようなものとは程遠く、内戦によって家主を喪った士族の小屋敷に少し手を加えただけの治療施設である。一郎太は、そこの一室、江戸間十六畳の畳部屋に、腹に包帯を巻かれて寝かされていた。他にも数人の患者と雑魚寝状態。彼のすぐ傍には、医者ではなく、一人の中年女性。息も絶え絶えに到着した槐子は、医者からの説明を受けるより前に、その光景の指す意味を悟った。彼女はおぼつかない足取りで一郎太に歩み寄る。虚ろな目で一郎太の顔を覗き込んでいる女性の隣りにしゃがみ込んで、一郎太の手をそっと掴んだ。
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熱くはない。ただ暖かいだけの火が、自身の身体を包み込んでいく感覚が、一郎太に浮かぶ。このまま沈み込んでどこかに溶けていくだけだと感じられていた意識が、再びくっきりとした輪郭を帯び始めるイメージ。混濁していた自分自身が鮮明になる。薄らと目が見開かれる。
「イチ!」
「………………母、さん?」まだ判然としない意識のまま声を発した一郎太の目に、続いて映り込んだのは。「槐子お嬢様……?」
泣き腫らした目で己を見つめる主の姿であった。
一連の事件の翌日、九条の元に一人の使者がやって来た。見た目は十一、二歳の少年。
「おはようございます、九条様。降魔衆が一人、鈴谷宗平の使いでございます。南木槐子に憑いた精霊種サラマンダーに関する案件について報告します。件のサラマンダーは完全に消滅。死の際にいた人間を一人再生させたことにより、存在を保てなくなったものと思われます」
「そりゃあ、どういうことだ? サラマンダーは南木槐子の魂と完全に癒着していたのだろう? 第三者の再生など可能か?」
「宗平様の見解によりますと、実は『鬼一刀』が僅かながらに機能していたのではないか、ということです。つまり、青木氏が術式を行なった段階では即分離とまでいかなかったものの、剥がれ易くはなっていたのではないか、と。加えてワイズネルラによる数度の殺害によっても拍車がかかったとも」
「なるほど、ありえる。で、南木槐子は今どうなっている?」
「諸々の反動により一時昏倒状態に陥っていましたが、我が主によって昨日今日は何とか永らえました。しかし、子宮をかなりひどく損傷しています。と言ってもこれはワイズネルラとは無関係でして、寄生していたサラマンダーが主要な原因のようです。手は尽くしましたが、今後子供を生めるかどうかとなると難しいかと」
「……残酷だが、人間一人再生させた代償としては適当なのかもしれないな。報告ご苦労」




