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Five Knives  作者: 直弥
第三章「不死なる山椒魚」
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その2


 ひびの入った窓が、風に叩かれて小うるさい音を立てている。蝶番が錆びて閉まり切らなくなった扉が揺れ動き、耳障りな金属音を鳴らしている。贔屓目に見ても裕福でない家。唯一の部屋である四畳半の畳部屋は、そこここがささくれ立っている。火鉢の中、灰に乗った二つぽっちの炭は穴ぼこだらけになっていて、今や火は着いていない。

「ううううっ、はあっはあっはあっ、ううっ…………」

 莚の上、仰向けに寝かされた童女。寒風吹き荒ぶ季節だというのに透き通るほど薄い麻の着物一枚しか着ていない彼女は、しかしその召し物さえも乱れに乱れるほど、苦しそうに呻いている。

 童女の傍らには一人の年若い娘が、両目を閉じて正座していた。真白い小袖に真赤な長袴という恰好の娘は、何やらぶつぶつと呟いている。そんな調子で得体の知れない何かを長々と詠唱していた彼女は、突然に言葉を研ぎらせて真一文字に唇を結び、かっと目を見開いた。そして。

「えーいっ!」

 精悍な顔つきとは裏腹に、弱々しい少女が必死に絞り出したような声を上げつつ、童女の額を右掌で打った。瞬間、童女は呻くことを止め、代わりに寝息を立て始める。

 一仕事終えた娘は疲れから来るものであろう大きな溜息をひとつ吐き、背中から倒れた。

「ふうっ、疲れた」

 そう言って再び溜息を吐いてから立ち上がり、娘は部屋もとい家を後にした。

 

 あばら屋の前に、みすぼらしい恰好をした老爺が自らの両腕を擦って寒さに耐えていた。老爺のすぐ傍では青年車夫が、自らの牽く人力車にもたれかかっていた。と、あばら屋の扉が開いた。

「あ、陰陽師様!」扉から出てきた娘に気付いた老爺が、寒さも忘れて駆け寄る。「ど、どうでしたか? うちの孫はどうなったんですか!?」

 掴みかからんとする勢いで迫る老爺に圧され、娘は足元がおぼつかなくなる。転びそうになりながらもなんとか踏み止まり、やや力を込めて老爺の肩に両手を置く。

「あの、落ち着いてください。大丈夫です。もう瘴気は取り払いましたから」

「ほ、本当ですか!? あの子は助かるんですか?」

「ええ、心配は要りません。今は眠っていますが、目が覚めた時には元気になっていますよ」

「よ、よかった……」安堵から全身の力が抜け落ちたのであろう老爺は、そのままその場にへたり込んでしまう。「本当によかった。ありがとうございます。あの、それで……本当にお代は何も支払わなくてよろしいのですか? 確かに儂の家には金も差し上げられるような物も何もありませんが、何かおっしゃってくださればこの身に代えてでもお力添えさせていただきますよ。あなたは、孫の命の恩人なんですから」

「そんな。最初の約束を反故にするような真似は致しません。私はただ、助けることが出来たという気持ちだけで満足なんです。ただ一つお願いが出来るなら、これからはもっとお孫さんの傍にいてあげてください。あの子がまた瘴気に侵されたりしないように」

「ええ、ええ、それは勿論。儂なんぞには瘴気など目に視ることも叶いませんが、これからはきっと気を付けますとも」

 それからもずっと、人力車に乗って去り行く娘の姿が見えなくなるまで、老爺は頭を下げ続けていた。


 娘を乗せた俥を牽いて青年が駆ける。人通りは決して少なくない街中を、危なげなく悠然として、人にも物にもぶつかることなく、慣れた様子。人一倍に広い視野を持つ眼を前に向けたまま、真後ろに居る娘と会話する余裕すら持って。

「槐子お嬢様、お優しいのは結構ですが、自分のことももっと大事にしてください」

「どういう意味ですか?」

「最近、体調を崩されることが殊に多くなったような気がしますが」

「それは……季節のせいですよ」

 空々しい態度で言いながら、娘はそっと顔を背ける。そんなことをしなくとも、前を見つめている青年の目に娘の姿は映っていないのだが。

「季節のせい……ですか。日本橋の母も、冬にはよく体調を崩していましたが……あ、歳のせいの間違いなのでは?」

「えうっ、あううっ。失礼ね! 折角出してあげた暇を取り消されたいの?」

「それはずるいですよ、お嬢様」娘が本気で言っているわけじゃないことが分かり切っているからこそ、青年は苦笑する。「冗談はさておき、お体には気を付けて下さいね。風邪で済んでいる内はまだしも、こじらせたりしたら大変ですから」

「そうね、分かってます。これからは仕事の量を加減することにします」

 その言葉でようやく安心したのか、青年は話題を変える。

「もうじき、藤むらが見えてきますが、羊羹でも買って帰りますか?」

「いいえ、今日は結構です。ちょっとは倹約しないと」

「そうですねえ。陰陽寮が解体されてこの方、まともな収入もありませんし。お嬢様がお代を戴くのはよほど裕福な家を相手にした時だけですし」

 しかもそういう者たちはもっぱら、陰陽師よりどこそこの高僧を頼る。憑きもの祓い師としての陰陽師の格は下の下。陰陽師は元々庶民のための祈祷師なのである。陰陽寮さえ解体されてしまった今では尚更。結局、南木家に入る銭はほんの僅か。だが槐子は言う。

「仕方ないじゃないですか。一銭一厘が明日の命に係わるような暮らしをしている方々からは、お代なんて取れませんもの。かと言って見殺しにも出来ませんし。でもありがとう、嬉しいです。心配してくれて」

「止して下さい。当然のことなんですから」

 気恥ずかしさからか、二人が南木家に着くまでそれ以上の言葉を交わすことはなかった。


「では、ありがたくお暇を戴きます。火や刃物の扱いには十二分に気を付けてください」

「それは勿論。一郎太さんも気を付けてくださいね」

 こうして。南木家専門車夫を兼任する使用人である青年を束の間の里帰りに送り出した槐子は、部屋に戻ってくつろぎ始めた。神社の巫女さながらの恰好のまま、両脚を伸ばして座り込む。

 南木家。真壁家と同等の敷地を誇る南木家本宅は、しかし庭と呼べる場所が殆どなく、屋敷の大きさだけならば真壁家を遥かに凌ぐ大屋敷であった。部屋は全部で二十四。

 ――小梅ちゃんが戻ってくるまでは、この家で一人っきりか。

 青年より先に暇を出したもう一人の使用人が南木家へ戻るまで、少なくとも四日の間は一人きりで過ごさなければならないことを再確認した槐子は溜息を吐く。その後も暫くの間ぼうっとして天井を見つめていた彼女であったが、やがて立ち上がり、別の部屋へと向かった。

 書斎。応仁の乱直前に京から持ち出されたような貴重極まる書物も収められた南木家の書斎は、そこ一部屋だけで寺社仏閣並みの価値を持つ。そんな中で槐子が手に取ったのは、別段希少価値の高い物を収めたわけではない棚に陳列されていた巻子本、いわゆる巻物の内の一つ。括り付けられた紐を解き中を開くと、桃の実を持った老婆が、十二単を着た女性にそれを渡そうとしている絵が、色落ちもしていない鮮やかな色彩で描かれていた。傍には変体仮名で短い文章が添えられている。更に開くとまた別の絵――先の女性が死んだように横たわっていて、七体の小鬼に囲まれているもの――が登場し、傍にはやはり文章が添えられていた。絵物語。

 ――こんなものでも、暇つぶしにはなるかしら。

 巻子本を十数本と、幾冊かの折本を手にした槐子は、それらを埃っぽい書斎から茶室へと運んだ。小さい頃、まだ字が読めなかった頃、親に読み聞かせて貰ったきりであったものを、今度は自分で読もうという試みに些かの興奮を覚えながら。

 

 二十近くある絵物語のすべてを、槐子は鮮明に記憶していた。だからもう、はらはらした気持ちでそれらを読むことは出来ない。だが〝自分で書を読む〟という行為自体に新鮮さを覚えた槐子は、自身が想像していた以上に楽しんで読み耽っていた。少しずつ読み進めるつもりだったのに、もう三冊目を読み終えて、次なる書に手を伸ばすところであった。

「あっ」

 四冊目。簡易な折本装のその書は、表紙に大きく『不死山椒魚』と書かれていた。捲った一頁目には、紙一杯はみ出さんばかりの山椒魚が描かれていた。

 ――やっぱり、これ覚えてる。

 懐かしい記憶を辿りながら、槐子は頁を捲っていく。

 本来、子どもに読み聞かせるためのものであるから、物語はとても単純。

 ある川に九尺八寸の巨大な不死身の山椒魚が棲んでいた。後からその村に入ってきた人間たちはこの山椒魚を恐れ忌避する。だがある時、山椒魚が村を救ったことで評価は一転。山椒魚は村人に受け入れられる存在となった。ところが当時の人々が皆老衰して村の世代が丸々入れ替わると、山椒魚は再び疎まれるようになる。しかしまたある時、山椒魚が村を救って……その繰り返し。四度村を救い、また村人たちに感謝されるところで物語の幕は閉じられている。

 ――子どもの頃は、この結末でホッとしていたっけ。ここで終わっているから、馬鹿正直にやっと山椒魚さんが村の人たちに受け入れられたんだって思ってた。……本当に馬鹿みたい。

 今では分かる。分かってしまう。この物語の残酷さ。存在しない先にある頁の展開が、容易に想像できてしまう。

 ――ある意味では、最後に山椒魚が死んだ方が良かったのかもしれない。村を救って、その代償で死んじゃった方が、感謝の気持ちは永遠に受け継がれていったかもしれない。

 だけど山椒魚は死ねないのだ。不死だから。またいつか、孤独へと帰るのだろう。

「…………はあっ」

 胸を締め付けられるような寂しさを覚えた槐子は、大きな溜息を吐いた。彼女が山椒魚に対して強く感情移入してしまうのにはわけがある。ありきたりなことではあるが、自分自身の半生を顧みてのことである。

 陰陽寮が廃止されてからというもの、かつての陰陽師たちの多くは仕事の場を大学機関へと移して行った。そんな中、南木家はあくまで旧き陰陽師のあり方を守り続けようとしていた。と言っても、南木家が行っていたのは、暦を読み、吉凶を占うといった類のものではない。どちらかと言えば、旧くは呪禁師と呼ばれた者たちが行っていたものに近い。人にとり憑いた『瘴気』を祓い、病を治す、要はお祓いである。槐子はその天才としてこの世に生を受けた。何せほとんど手で触れるだけでたちまちに瘴気を完全に祓い除けてしまうのだから。彼女はその才能で数多くの患者を救ってきた。救われた者やその親族友人たちは皆一様に彼女に感謝し、後に恐怖するようになるのである。得体の知れない強すぎる力は、たとえそれが何かを救うためのものであっても恐怖を喚起する。

 ――あのお爺さんも、今度会った時にはちゃんと目を合わせてくれるかどうか……。

 要するに不死なる山椒魚と南木槐子は、似たり寄ったりな生き方を送っていたわけである。強いて違いを挙げるとすれば、順番が逆であるという事。

 精神的な疲れがどっと出たのか、槐子はそれ以上の読者を止めてしまう。はしたなく、ごろりと仰向けになって倒れ込み、天井を見つめる。特筆する要素などない、ごくありきたりな天井を。

「すみません、誰かいらっしゃいますかあ?」

「ひんっ!」

 唐突に耳に飛び込んできた清楚で巨大な女性の声に驚き、槐子は反射的に体を起こした。声の主に、彼女はすぐに気づいた。

 ――今のって、真壁さんのところの……代さん?

 それは、最近やたらと頻繁に南木家を訪れる女性の名前。南木家からほど近くにある真壁家の女中。

 ――今日は何かしら。

 大量の書物はその場に放っぽり出したまま、槐子は玄関を目指して歩き始めた。いつもの調子。いつもの心持で玄関前まで辿り着いた彼女は、扉を開いて驚いた。

「え、ええっと」予想外の事態に面喰って言葉に詰まる。来客は一人ではなかった。代の傍らには一人の男が付属していた。幸守ではない。槐子にとって、まったく未知の人物。となると絞り出すべき言葉はただ一つである。「代さんと……そちらの方は?」

「ああ、初めまして。いきなりですみません。自分は青木春という者です。今日はこの代さんに案内されて此方へやって来ました。陰陽師であるという貴女とお話をしてみたくて」ところどころ訛りを残した語調で、青木春と名乗った男は述べる。「今日はお休みでしょうか?」

「ああ、いえ、その」

 返答に窮した槐子はまたも言葉を詰まらせる。これまで代はやれお土産を持って来ただの、やれ読ませてもらいたい本があるだのと言った理由をつけて南木家を訪れてはいたが、客を紹介したことは一度もなかった。今日に限ってどういう風の吹き回しか。

「槐子さん、今日は都合が悪かったかしら。それとも彼に何か不満でも?」

 遠慮ない物言いをする代に、春は非難がましい視線を送っている。そんな様子を見て、ああこの二人は昨日今日会った仲ではないのだなと確信した槐子の緊張が緩んだ。〝家へ上がり込む理由づけのためだけに適当に見繕ってきた客人〟を連れてきたというわけでないのなら、特別に拒む必要もない。そもそも今は暇を持て余している。そういったわけで、

「どうぞ入ってください」

 代と春は南木家に足を踏み入れることを許可された。

「お邪魔します」「お邪魔します」

 先に代が、後ろに春が続いていく。


「へえ。瘴気なんてものが、目に見えるんですか。しかも触っただけでそれを祓ってしまえるとは。貴女ほどの陰陽師、ちょっと他にいないのでは?」

「いや、そこまで大げさなものじゃありませんよ。珍しいことには珍しいそうですけれども、過去にも何人か、私のような者はいたそうですし」

 江戸間十畳という、屋敷全体の大きさから考えるとやけに小じんまりとした客間で。春と槐子との会話は繰り広げられていた。実質は春からの一方的な質問の連発に槐子が答えているという形であったが。代はと言うと、屋敷に上がってからというものほとんど口を開かず、二人の様子をただ傍観しているだけ。

「ところで。自分のような者は、陰陽師と聞けば式神を自在に操る呪術師か仙人めいたものを連想してしまうのですが、槐子さんはそういった類の物は使われないんですか?」

「まさか。戯作の中の陰陽師じゃないんですから、式神なんて使えませんよ」

 冗談ばっかりおっしゃって、と槐子は笑う。同じように笑いながら、春は告げる。

「はははっ、やはり貴女は表側の人間だったんですね」

「はい?」

 言葉の意味を聞かされることなく、槐子の意識は消し飛ばされた。

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