その1
……こうして子供たちを鬼から助け出した巨大な不死なる山椒魚は、今まで彼を蔑み疎んでいた村人たちに感謝され、平謝りすらされ、その村で暮らすことになった。だけど山椒魚は不死であったから、彼をよく知る人々はどんどんと亡くなっていって、終いにはあの時の子供たちも皆、年老いて亡くなってしまった。そうなると村に残ったのは、昔話程度にしか彼のことを知らない、新しい世代の者たちだけである。
誰かが言った。
「山椒魚が昔、村を救ったのは本当かもしれん。でも、儂らがあいつに助けられたじゃない」
また誰かが言った。
「あんなんに村ん中を歩き回られたら、子供が怯えて困る」
人が代わり、世代が移り、何時しか山椒魚に感謝する者はいなくなり、不死なる山椒魚はまた孤独になった。だが或る時、村を山賊が襲い、山椒魚は再び村を救うことになった。改めて村人たちから感謝されるようになった山椒魚は、また孤独ではなくなった。だけど山椒魚は不死であったから……
◇◆◇
明治二十年一月十六日。帝都東京の陸の玄関口とも云うべき上野駅に、見目二十歳そこそこの青年が降り立った。五年ぶりに、同朋と会うために。
完全なる洋装か和洋折衷といった風体の者が数多い中、五分刈り頭に、枯茶色の着流し、黒の帯、駒下駄という出で立ち。切れ長で鋭い目つきも相まって渡世人さながらに見える青年は、周囲から浮きに浮いて、はっきり言えば避けられていた。
――もう古臭いんか、こんな恰好は。
自分と他人の服装を見比べてみて、青年は心の中で呟いた。自身の祖父母ほどの歳とも思われる老爺や老婆が、しかし自身より遥かにはいからな恰好をしている様を目の当たりにした彼は少なくない衝撃を受けていた。不快な感情を覚えているわけでなく、純粋な驚きで。蒸気機関車に乗った時から既に彼のような恰好をした者は珍しく、それは駅を過ぎるごとに顕著になっていったが、いざ辿り着いた帝都は、青年からするとまさしく異界であった。
――とりあえず、外に出んと。
幸いにも人が向こうから避けてくれるため、難なく駅舎から脱することが出来た青年は、またも驚きを禁じ得ぬ呆けた面になった。上野駅近辺には、江戸自体の日本には在り得なかったような巨大で無骨な建築物が立ち並んでいた。所々に残された旧時代的な木造屋敷がまるで酔狂か何かで置かれているよう。容赦なく押し寄せる近代化西洋化の波をもろに受けて、日本という国は目まぐるしく変わりゆく時代の渦中にあった。富国強兵を掲げる『大日本帝国』を名乗るようになったのは一年前のことである。先陣を切る帝都の中心が地方より十年二十年先を進んでいるのは無理もない。全国的なインフラ整備は、後回しとまではいかなくとも、相当に遅れている。科学的にも、文化的にも。
「なに街中で呆けてるんだ。スられても知らんぞ」
「あ? あ!」不意に肩を叩かれて振り向いた先に見知った顔を見とめた青年は、安心すると同時に声を上げた。「おお、幸守! 幸守やんか! 久しぶりやなあ! ……ん?」
青年は怪訝な顔で、五年ぶりに会う友人の顔を見つめた。姓は真壁、名は幸守。歳は数えで二十三。もやしも大抵にしろと言いたくなる生っ白く細い身体つき、頬がこけ過ぎて幽霊じみた顔つき。それらは青年の記憶にあったものと寸分違っていなかったが、恰好までもが代わっていなかったことには違和感を禁じ得なかった。側を通り過がる紳士たちとは違う。自分と同じような和装。
「なんや、お前は他の輩みたいに豪そうな服は着てへんのけ?」
「豪そうな、って」青年の乱暴な言葉遣いに、幸守は嘆息する、「あんな恰好してるのは、汽車を使ってるようなもんだけだ。この界隈でも、まあもう少し離れたところへ出たら俺みたいな人間ばかりになる」
「ほう、そら安心したわ。どうもここは落ち着かんねん。早う行こう」
「相変わらずせっかちだな、春」
そうして春と幸守は歩き始めた。幸守が半歩先を歩き、春を導く形で、談笑しつつ。久方ぶりの再会、話の種は幾らでもある。
「今は何して飯食ってるんや?」
「自家を使って、子供に読み書きと古典を教えてるよ。今日からは暫く休業だけどな」
「へええ。しっかりしとんなあ」
「別に……親父の教え子を引き継いだだけだし、感心されるほどのことはしてないって。そう言えばお前、弟は置いてきたのか?」
「ああ、あいつは近所に預けてきた。まだ赤ん坊やからな。幾らなんでも、まだ仕事に連れてくるわけにはいかへんやろ」
「まあ、そうだな」
そこからは、両方の口数が急激に少なくなる。代わりに、大きな溜息を吐く二人。
この日、春を東京に呼び寄せたのは幸守であったが、幸守に春を呼び寄せるように言った人物はまた別にいた。より正確に言えば、人物と言うよりは組織の声であったが。要するに彼らは自分たちの属する組織からの令状を受け取ったというわけである。
「九条さんも、少し気を遣ってくれればよかったのにな」
「しゃあないやんけ。早速、今日からでもやり始める気ぃか?」
「そりゃあそうだ。一分一秒を争うほどではないにしろ、遅れれば遅れるほど厄介になる確率が上がるのは確実からな。一旦家に戻って準備を済ませたら出掛けるぞ」
そして真壁家。上野駅から大人の足で二時間近く歩いてようやく辿り着けるそこは、公家屋敷に勝るとも劣らない規模を誇る大屋敷であった。東本願寺の阿弥陀堂門を模して造られたという、個人の邸宅としては有り得ないほど大仰な門をくぐると、真っ直ぐな石畳の路が、本宅の玄関にまでずうっと伸びている。渡り切るまで大人の足で凡そ五十歩かかるというその路を進む途中で左右に目を配れば、だだ広い枯山水の庭を眺めることが出来る。ちょっとした苔を除けば他に緑も水地もなく、砂利と大石だけで造られた石庭は、単純そうな見た目とは裏腹に細やかな手入れが行き届いている。現に昨夜は局地的な大雨だったにもかかわらず――それは石畳やら何やらと至る所が湿っていることからも瞭然――砂利の配置により形作られた文様は完璧。今朝にも整備された証である。
「なんべん来てみても、でっかいなあ……せやけど、そういえば、なんで仏教風なんや?」
「大祖父様の意匠的な趣味らしい。あくまで形だけだよ」
「ふううん」
落ち着きなく首と視線を動かしながら、春は幸守の後に続く。ようやっと二人が玄関扉の前に辿り着くと、幸守が手をかけるより早く、それは開いた。
「お帰りなさいませ、幸守様。いらっしゃいませ、春様」
「ああ、ただいま」
飄然とした面で中から現れた可憐な女性に、幸守は答える。女性は、春たちより見目若いが、童女とは言えぬ年頃といった容姿。雪のように白い肌。真新しい墨のように黒く長い髪は、真赤なリボンで一房に束ねられている。恰好はやはり和装で、白地に青紫の矢絣お召と紺色の袴。
「よう、代。元気やったか?」
「はい、春様もお変わりなく。ところで幸守様、先ほどこのような手紙が届きまして」
「ん? どれ」代と呼ばれた女性が袂から取り出した手紙を受け取った幸守は、それに目を通す。文面を読み進める内に、彼の顔色がみるみる険しくなっていく。「参ったな。別件で召集だ」
「……はあ? 召集? こっちの仕事はどないすんねん」
「呼び出されたのは俺だけだ。悪いが、こっちはお前一人でやっておいてくれ。大体のことは代に聞けば分かるから。代、頼む」
「畏まりました。何か御入用の物はございますか?」
「いやあ、特に要る物はないな。このまま行ってくる。じゃあな」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「しゃあないな。なるべく早よ帰ってこいよ」
頷き、踵を返した幸守が、門へ向かって歩き始めた。残った二人はその背を見送った。そうして、門をくぐった幸守が階段を降り始め、その姿が見えなくなってから。
「では。春様、お入りください。詳しい話は中で」
「おう。お邪魔します」
代に誘われ、春は幸守宅に足を踏み入れた。
真壁家、応接間。江戸間十四畳という半端な広さ、火の灯った囲炉裏が中心に据えられたこの部屋で、春と代は向かい合っている。春は胡坐をかき、代は正座をして。
「よっしゃ、大凡のことは把握したわ。標的の名前は『南木槐子』……って、南木やて? もしかしてこれ、旧土御門の?」
「ええ、旧土御門四家の一柱、南木です」
土御門家と言えば、平安期随一の天文博士として活躍した安倍晴明を開祖とする陰陽道の大家である。その土御門家が、かの織田信長の怒りを買って京を追放された際、四つの分家を創始した。彼らは暫くの間、地方でモグリすれすれの陰陽師として活動していたが、徳川の時代に京と江戸に呼び戻されてからは、陰陽寮に属する正規の陰陽家となっていた。それこそが。
「東山、西洞、南木、北条。陰陽寮自体が廃止されたっちゅうのに、未だに陰陽師を続けてんのは南木ぐらいやったか? あとはただの金持ちやわな、今や」
「金持ちというか、富豪ですけどね。維新以後は」
「違いがよう分からん。まあ、今日の標的は南木だけやから、他は別にどうでもええんやけどな。ほな、そろそろ行くわ。……出来ることやったら、平和的に済ませたいとこやな」
「まったくですね。私も、なるべくなら血はみたくありませんから」
「あ? 『私も』? なんや、お前も来る気か」
「幸守様の留守中は私がすべての代理を仰せつかっておりますので」
「幸守も何もこんなことまで手伝わせる気はないんちゃうかと思うけどな」苦笑しながらそう言ってから、春は神妙な顔になる。「それにしても陰陽師か。今日日そんなもん信じてる奴おんのかな」