その6
「アンタがヒトをからかうのを趣味みたいにしてるってことはよく知ってるよ。だけど……本当に、本っ当に、あそこまで笑えない悪ふざけをするなんてな」
「だからすまなかったと言っている。ちょっとした冗談だったんだ。捕まえる時に軽く怪我をさせてしまったぐらいだと思っていたが、まさかそんなことになるとは夢にも思わなかった」
真実申し訳ないという気持ちで、男は謝罪していた。真祖バットエッグ。アジータが森で出逢ったあの真祖。
ゼファロの推測は正しかった。結局のところ、アルンの事件なんてものは最初から存在しなかった。ただの冗談好きな年寄りの悪ふざけ、狂言、それだけのことだったのである。
「馬鹿の常套句だぞ。そうなるとは思わなかった、なんて……っ!」
冗談などと言うものでは到底すまされないと、ゼファロは声を荒らげる。
アルンの一件などなくとも、あのネクロマンサーは今宵どうにかしてアジータ宅に侵入していたことだろう。ゼファロにもそれは分かっていた。何せ相手は五年間も時機をうかがっていたのだから。加えて言えば、ネクロマンサーの侵入があろうとなかろうと、最終的な結果は何も変わっていなかったことだろう。ワイズネルラはアジータとキリを叩き伏せ、村人を皆殺しにしていたはず。だがそれでも、ゼファロは怒らずにいられなかった。
「どう落とし前つける気だよ、ジイさん」
「落とし前と言われても」責任は感じながらも、特筆すべき被害が出ていない以上、落とし前と言われてもピンと来ない。何をすればと考えた時、バットエッグの脳裏に思い出されたのはジャングルの中でのやり取りであった。「よし、例のネクロマンサーが残した影響の残滓がすべて消え去るまで、あの土地は儂が守護しよう。町の方にはまだまだ人間が残っていることだしな。その間は勿論、もうあんな悪ふざけもしない」
「今の言葉に嘘はないな? なら、明日にでもあの近くへ引っ越せよ」
「はいはい。あと、非常に言い難いんだが……ちょっと、この子を連れて行ってくれないか」
そう言って。大きな桐の箱の中から真祖がそっと取り出したのは。
「赤ん坊?」
眠っている赤ん坊であった。果たしてその正体は。
「昼間攫ったあの娘の子だ。いやいや、もちろん、ちゃんと返すつもりだった。ほんの一日、あの娘さんを恐々とさせてやりたかっただけなんだ」
ゼファロはもはや絶句していた。大昔には人間だった男が、生まれつき人外である自分より遥かに常人と掛け離れた価値観を持っているとは皮肉過ぎる、と。一日だろうが半日だろうが他人の子を拉致して洒落で済まそうとは――慣習や生態ではなく、単なる趣味である以上、永遠に子どもを攫ったままのチェンジリングより尚性質が悪いだろう、と。しかし取って食いまではしない以上、鬼子母神よりはまだマシか。だがなんにせよ。
「ジイさん……五、六〇〇発ほど殴らせろ」
両拳を赤く腫らしたゼファロが帰宅したのは、キリたちから数分遅れてのことであった。帰宅――家といっても、だだっ広いだけの洞穴。純血、混血、次代、合わせて十四人のヴァンパイアが住まう住居は、半砂漠地帯の一角に開いた大穴からのみ入ることが出来る大洞窟であった。かつて地上が緑豊かな土地であった時代から存在し、ヒトの手が加えられたその洞窟には、蟻の巣状に幾つもの部屋が点在していた。また、遥か遠くからの水路を伝って流れてくる地下水によって一定の湿度が保たれている。温度も大気も、人間が暮らしていけるに十分な環境が造り出されていた。ただ、食料だけは外で調達するしかないのだが。
「ただいま」
「おう、おかえり」入口に最も近い小さな部屋でゼファロを出迎えたのは、カブ一人であった。「どうだった?」
「大正解どころか……キリは?」
「私はここよ」洞窟の奥から顔を出したキリが、早足でゼファロたちの元にやって来る。怪訝な顔を浮かべている。「その子はなに?」
「俺も今聞こうと思っていたんだ」
キリとカブは二人同時に、ゼファロが抱えた赤ん坊を指して問い掛けた。ゼファロの腕の中で静かに眠っている赤ん坊の正体は。
「アルンの娘だ」
「はあ? え? なんで?」
頓狂声を上げたのはカブ。あの地の死体一つ一つを確認したわけではなかった彼だが、アルンの子も無論ワイズネルラに殺されたものと早合点していたから。
「ジイさんがな、アルンたちをからかうために少しの間攫っていたんだ。それが、こういう結果になった」
キリもカブも、普段なら烈火の如く怒っていたであろう、度を越えた悪ふざけ。だが事ここに至っては〝生きている〟という現実ひとつがあまりにも大きかった。だから湧き上がる感情は怒りではなく、安堵と喜びと同情。
「どうするつもりなの? その子を」
「お前たちに育ててもらいたい」
あまりに端的に質問に答えたゼファロ。キリとカブは思わず顔を見合わせた。
「おい、本気で言ってるのか?」
「本気だとも。少なくとも俺よりはお前たちの方が適任だろう。子育ての経験もある」
「突然そんなことを言われても困るわ。私たちの子どもは皆、純血ではないにしてもヴァンパイアよ? 人間の子を育てた経験はないわ」
「それでもだ。俺は畜生ですら育てたことがないんだぞ。……『認識麻酔』を使えば、どこか適当な人間の家庭に押し付けることも出来るだろうが、それはしたくないんだよ。少なくともワイズが動いている内は。危険もあるし」
――それに。
ゼファロにはもう一つの真意があった。
――もうこれ以上、偽りの家族を作り出したくはないからな。
血など繋がってなくていい。種族すら違っていて構わない。そこに本物の絆があれば本物の家族に違いない。しかし、嘘で塗り固められた家族は、偽物。紛うことなく紛い物。
「……そこまで言うなら、何とかしてみよう。いいか、キリ?」
「ええ。どの道誰かがやらなきゃいけないんだもの」
「ありがとうな、二人とも。じゃあ、頼む」言って。ゼファロは赤ん坊をキリの腕の中へと託す。「押し付ける形になってすまない」
「馬鹿言うな。お前はお前で、何かすべきことがあるんじゃないか?」
「なんだよ、見透かされてたのか」照れたように、ゼファロは笑う。「まあなんだ、大層なことをしようってわけじゃない。もう一度自分を鍛え直そうっていうだけの話だ。その為に暫くの間ここを離れる。勝手なことばかり言ってるのは分かっているが」
「勝手なのは今更でしょうよ。気にすることないわ。あなた以外も皆、ここにいるのは勝手者の集まりなんだから。だけど、いつ帰って来るの?」
「予定は未定。正確なことは言えんが、その子がそれなりに大きくなった頃に、一度は顔を見せたい」
「是非そうしてくれ」
「ああ、約束する」
決意を秘めた瞳を燃やし、ゼファロは頷いた。
間もなく夜は完全に開け切ろうとしていたが、陽の光が届かぬ洞窟に朝は来ない。ただ人間であるアルンの子には赤ん坊ながら体内時計が働いているのか、一秒前までの熟睡具合が嘘のようにいきなり目覚め、ぱっと目を見開いた。
「あえ?」目覚めた赤ん坊は、きょとんとした目でキリたちの顔と洞窟の天井や壁を見渡したかと思うと。「ふう、ふえ、あえぇ」ぐずり始め、遂には大声で泣き出した。
途端にゼフォロたちは大わらわとなり、必死に赤ん坊を宥めすかせようとし始める。騒ぎに気付いた他のヴァンパイアたちも、何事かと、洞窟の奥から次々にやって来る。やっと寝付いたところだったのにと、目を擦りながら現れる者もいる。太陽や鶏に変わって朝を知らせた赤ん坊であったが、残念なことに、ここには夜行性の者しかいないのである。しかしこの赤ん坊を拒む者は一人としていないことだろう。太陽の娘ですら受け入れられる吸血鬼ばかりなのだから。