その4(甲)
清朝国領最北某所。ゼファロとカブ、ワイズネルラの戦いは続いていた。カブは無数のコウモリとなって、未だ肩から血を流し続けるワイズネルラに纏わりついて、視覚や行動を制限しようとしている。直接的な攻撃はせず、あくまでゼファロの援護に徹している。そういった援護を受けたゼファロは、膨張させた爪で、コウモリたちの間を縫ってワイズネルラを引き裂こうとする。しかしワイズネルラは寸でのところでコウモリの群れを脱し、逆にゼファロを蹴飛ばさんとする。もちろんゼファロも躱そうとするが、完全ではなく、背を掠めるワイズネルラの爪先。鎌鼬のそれによるものの如く浅い傷から、僅かに血がにじみ出る。
「ああっ!」
背に走る激痛に、ゼファロは顔を歪ませる。
――どうなってんだよ、さっきから! まともな攻撃は一発も入ってないってのに、痛みだけがどう考えても規格外だ……っ! 掠った程度のもんじゃない!
「ゼファロ!」
今にも膝をつきそうになっていたゼファロは、両腕の代わりにコウモリの翼を生やしたヒトの姿となっている友に名を呼ばれたことで気合を入れ直す。しっかりと立つ。
「っ、次だ、カブ!」
本当に返したい言葉を呑み込んで。カブは再び身体をばらけさせ、ワイズネルラに纏わりつかんとする。当のワイズネルラは、大仰に溜息を吐いている。
「素直だな。いや、愚直だな。少しは変化をつけてみろ。こっちがわざと付き合ってやってることに気付いていないほど愚鈍ではないだろ?」
「だから! そういうてめえの慢心を突くぐらいしかできねえんだよ、こっちは!」叫び、爪ではなく拳を叩き込もうと、猛然とダッシュを仕掛けたゼファロは、ワイズネルラに到達することなく、「がっ!?」前のめりに倒れ込んだ。
「なっ、お、おい!」刹那で集くし、完全なるヒトの姿を取ったカブが、ワイズネルラから離れて友の元へ急ぐ。「どうした! ゼファロ! おいっ!!」
「う、ぐ、あああああ!! はっ、はあっ、はあっ、はあっ…………」
カブに抱き抱えられながら。顔面蒼白のゼファロは荒い息を吐き続ける。見たところ大した傷はどこにもありはしないし、そもそも今度はワイズと接触すらしていないというのに。
――まさか、毒?
カブの推測は、可能性としては確かに一番高いと言えるだろう。掠めただけで激痛を与えていた蹴りの正体が、ワイズの靴の爪先に仕込まれていた毒だとすれば。それが蓄積していたとすれば。勿論〈物質域〉に普通に存在する毒がゼファロに通用するはずはないが、〈竜巣域〉から仕入れた、或いは魔術的に作られた、若しくはワイズ自身の毒であるならばどうだろうか。
「はあっ、はあっ、ふうっ、ふうっ、ふ、うっ」
徐々に、ゼファロの息が整い始める。苦痛に歪んで青褪めた表情はそのままに、しかし確かに彼は意識を回復させつつあった。遂には立ち上がるほどに。
「ゼファロ……」
「サンキュー、カブ。もう、大丈夫だ」
誰がどう見ても聞いても無理をしていると取るであろう表情と声でそんなことを言って。ゼファロは友の肩を叩く。
「タフだな。そこら辺の人間ならショック死してもおかしくないほどの〝痛み〟だっていうのに、もう立てるのか。そりゃお前がヴァンパイアだからか? それとも、ゼファロだからか?」
「知るか、そんなこと……」
形ばかりの悪態をつくと。ゼファロは、一番近くに転がっていた人間――女性の亡骸を引っ張り上げて、その首筋に齧り付き、咽喉を鳴らした。途端、細かいゼファロの傷も汚れもすべて、瞬間的に消えてく。ゼファロの身が復元していく。顔色さえも、彼特有のあの褐色に戻っていく。
「お、おい……」
「なんてこった!」絶句するカブとは対照的に、ワイズネルラは驚嘆の声を上げる。「かのゼファロが! 『種族最強』の称号を冠するヴァンパイアともあろうものが! 事もあろうに屍の血を啜るとは! しかもただ復元の時間を縮めるためだけに!?」
「形振り構ってられないんだよ、今度ばかりは。命懸けて戦うってのはそういうことだろ」
唇を伝う血を拭いながら、血を吸い尽くした女性の亡骸を地に放り棄てつつ、ゼファロは言う。自らの行為を恨むような、低くくぐもった声で。
――呪いたければそうすればいい、死者たちよ。お前たちにはその資格がある。俺は何も、お前たちの弔いにこの鬼と戦っているわけじゃないんだからな。
後悔はなく。だがあまりにも重い負い目を感じながら。ゼファロは、ワイズネルラを睨み付ける。傷はすっかり消えていて。痛みもまったくなくなっていた。だがヴァンパイアの回復能力は、自身の魔力を消費する自力の復元である。世界からの加護による他力の再生ではない。故に有限。ゼファロは、覚悟を決めていた。
「……カブ」耳打ち。「お前は一足先にキリたちのところに戻っておいてくれ」
「だ、だけどゼファロ」
「頼む。……もうはっきり言うけど、勝てねえよ、こりゃ」はっきりと言われてしまい、カブも返す言葉を失う。「俺に出来るのはもう、一秒でも多くこいつの時間を奪うことだけだ」
「……わかった」
最後、ワイズネルラをきっと睨み付けたカブは、巨大な一疋のコウモリとなって夜の空へ飛び去って行く。その様を見送りながら、ワイズネルラがぽつり。
「結局、こうなるか」
「不服か?」
「いやいや、とんでもない。あの混血もオマエも、まあそれなりに成長しているみたいだったし、どうせならやはり一対一で実力を見たかったところだ」
「相変わらずの上から目線、見下してくれんじゃねえか」
「上から下へは見上げられないからな」
「頭の上に鏡でも掲げりゃ、そうでもないぜ」
「なかなかウィットに富んだ屁理屈だ」
ワイズの肩から流れ出ていた血がようやく凝固し始めていたその瞬間、戦いが再開した。




