その3(甲)
清朝国領最北。アルンたちの住む村からほとんど同緯度上にある一つの里が滅びていた。たった一人の怪物によって。月と星だけに照らされた雪面は血に塗れて。里全体に、擂り潰した苺をぶちまけたような惨状になっている。
「さすがにただの人間だけが相手では退屈だったな」身勝手な文句を溢しているのは、この惨状を作り上げた張本人たる殺人狂鬼。ワイズネルラは、自らが殺害した人間たちの血肉に塗れながら、何十頭というイヌに吠え立てられていた。「ああ喧しいな、もう。オマエたちには一切手を出していないだろうが。何をそんなに猛っているのやら」
などと言いながら。狂った鬼が首を捻っていると。
「お前に家族を殺されたからじゃないのか」揺れ動く空間。闇と闇の隙間から滲み出すように現れた褐色の男は、激昂した様子でワイズネルラを睨み付け、歩んでいる。「家族を殺されたなら、人間だろうが畜生だろうが怒りたくもなる」
「おう、ゼファロじゃないか。久しぶりだな」
「そうだな、ワイズ」答えつつ、ゼファロは辺りを見渡した。中には庇うように幼な子を抱いたまま絶命している母親らしき女性もいる。子もろとも胸を貫き通されて。強く歯噛みするあまり、ゼファロの歯肉からは血。『種族最強』の称号を冠するヴァンパイアは、名も知らぬ人間たちの死に胸を痛める。強く強く。彼らが殺される理由など、どこにもなかったはず。強いて言うならば人間であったから、ワイズネルラという狂った鬼の殺人対象になった。「いい加減飽きないのか。どれだけ殺せば気が済むんだ」
「呼吸をするのに飽きたら死んでしまうじゃないか。オレには肺も鰓もないが」
「ふざけたところは相変わらずか。道化師め」
「いやいやいや、相変わらずと言えばむしろオマエの方だろう。二百年振りだというのに、ツラはまるで変わってないな。活動期ごとに、成長したオマエの姿を見ることで時間の流れを感じていたものだが、遂に頭打ちか」
「これでも一応『純血種』だからな。今以上に歳を喰うことはないだろうよ」
純血種のヴァンパイアは長命種族ではなく不老種族。ただでさえ人間より遥かに緩やかに歳を取り、更に一定の年齢に達した肉体はそれ以上老化しない。生まれながらにして『第二の壁』突破(=寿命克服)が約束されている種族。……実の子どもたちを強請ってまで手にした薬で若さを保つ必要もない。そしてそれは。
――お前も一緒だろうが、ワイズ。最初に会った時から変わっていないのは中身だけじゃない。……寿命で死なないなら、やっぱり誰かが、何かが引導を渡さなきゃな。
そんなゼファロの心中を知ってか知らずか、ワイズネルラはにやけた顔を浮かべている。
「おい、そろそろ始めるか。どうせまた、戦いたくて来たのだろう?」
魔術社会のブギーマンこと、殺人狂鬼ワイズネルラ。
種族最強のヴァンパイアこと、褐色のゼファロ。
二者の激突は過去数えること五回。一度ごとに二百数十年単位の間を挟む戦い。回を重ねるごとにゼファロは飛躍的に強くなっていた。幾ら回を重ねても、ワイズネルラは強くも弱くもなっていなかった。而して。戦いの結果はいつも同じであった。
「ワイズ。今回は別に、戦いに来たわけじゃない」
「あ?」
「お前を滅ぼしに来たんだ」
ゼファロの宣言と同時、ワイズネルラの背後に人影が現れる。直後、右脚を振り上げて人影に踵を叩きつけるワイズ。
「おう?」
暖簾にひねり蹴りしたような感触。手応えもとい足応えはなし。
ワイズネルラの踵が触れるか否かという刹那、人影は無数のコウモリと化した。羽音を立てて夜空へ飛び去ったコウモリたちはそこで再び集くして、一疋の巨大なコウモリとなった。かと思うと、忽ちに、二臂の代わりにコウモリめいた翼を生やしたヒトの姿に変貌した。そうして。そのまま空に浮かんでいる。緩やかに羽ばたきながら。
「オマエも来ていたのか、混血」
「ワイズネルラ……っ」
コウモリの翼を生やした男が、宙に浮かんだまま憎々しげに狂鬼の名を呼んでいると。
「がっ!?」ワイズの左頬に走る衝撃。コウモリの男を見上げるために視界からゼファロのことを消していた彼は、そのゼファロに殴りつけられてよろめく。「ぐっ」よろめきつつも。なんとか踏み止まったワイズはすぐさま背方に跳びはねてゼファロたちから距離を取り、彼らの両方を視界に収められる位置に立つ。「二対一の上に躊躇なく不意打ちとはな。わかった、わかったよ。今度ばかりは本気でオレを滅ぼしたいらしいな。一体何があったのか、は聞かないが」
「聞かれたって教える義理はないからな。お前とはもう喋っているだけで時間の無駄だ!」
叫ぶと同時。膨張し伸長するゼファロの爪。両手合わせて十枚の爪が槍の如く。原形留めず変貌をし、ゼファロの指からも外れて、ワイズ目指して射出される。
「――」
やや後傾に飛び跳ねて一先ずゼファロの爪を遣り過ごしたワイズを、背後から、コウモリの男が襲う。右翼を右腕に変化させたコウモリの男が、その腕をゼファロの背に突き立てようとする。
「っ」
果たしてコウモリの男の腕は空を刺した。
「カブ!」
ゼファロの声は遅過ぎた。だがそれも無理からぬこと。
コウモリの男ことカブの背方に回り込み、その頭を殴り付けるまで――ワイズネルラにとっては、たっぷり余裕を以って実行出来る一連の行動であった。が。
「ちっ」
ワイズの拳はまたも手応えを感じ得なかった。カブの身体は再び無数のコウモリたちとなり、羽ばたく。蜘蛛の子を散らすように。とは言えこのままでは埒が明かないと判断したのか、ワイズは、飛び去ろうとするコウモリたちの内一疋を手掴みする。ワイズの手の内で一瞬だけ足掻きを見せた小さな黒いコウモリは、一度大きく体を震わせてから、ぐったりとして動かなくなる。
そうこうしている内に。どこからか旋回してきたゼファロの爪が、再度ワイズに迫っていた。
「ちょっ」音も気配もなく近付いていた爪に虚を突かれたワイズは、握っていたコウモリも手放して必死の形相。勢いつけて地に降り立とうとするもやや手遅れ。一本もとい一枚の爪が右肩に突き刺さる。「つうっ」
貫通し切らずにぶっ刺さった爪をワイズが引き抜くと、彼の肩から赤い血が噴き出した。指が三本は入りそうな風穴が空いている。
「へえ……やってくれんじゃねえかよう。せいぜい蚯蚓腫れ一つ遺すのが関の山だった坊主がっ! 大した成長じゃあないかっ!」
ヒステリックな声色で叫んではいるが、怒りの感情は含まれていそうにない。むしろ愉快そうで。調子に乗り過ぎた子どものようにはしゃぐワイズネルラに、ゼファロたちは空恐ろしい感情を覚えていた。
やばい。やばい。なにかやばい。意味不明なスイッチを入れてしまった。
ゼファロとカブ。二人は今、隣り合って立っていた。ワイズを挟む形ではなく、彼の眼前に棒立ち状態で並んでいる。それは、二対一というアドバンテージの多くを投げ捨てるような愚行であったが、どうしようもなかった。どうしようもなく、動けなかった。恐怖に駆られているわけではない。ただ純粋に、身体の動かし方を忘れていた。
「成長祝いだ。〝痛み〟を受け取れ」