その1
――――1890.01.12_
――夕暮れ時。インド亜大陸北東部、仄暗いジャングルの奥。
「はあっ、はあっ、はあっ」
息も絶え絶えに。何かから逃げるように走る、一人の若く美しい女。長く艶やかな黒髪を靡かせて、裸に近い恰好で豊満な肉体を曝け出して裸足で駆ける姿は、しかしあまりにも必死過ぎて扇情さに欠ける。必死なのも当然のことで、彼女は逃げるように走っているわけではなく、実際に逃走の真っ最中であった。追いかける人影は脚力において彼女に劣るのか、二者の距離は段々と広がっていく。
舌打ちした人影が腕を振り上げる。するとその掌の中に現れた、橙色に輝く球。人影はそれを、躊躇することなくアンダースロー。
「!?」気配に気付いた時には既に遅い。光の如く真っ直ぐに飛んだ輝く球は、女の右脚にぶち当たって消失した。それで。女の右脚は焼失した。「う、あう!」片足のまま走れるほど器用ではなかったのか、バランスを崩した女は盛大に転倒してしまう。灰と化した脚。煙が上がる。なおも手で這って逃げ延びようとする女だが、今や人影の方は歩いてでも容易く追いつく。「ま、待って! 待ちなさいよ!」
もう一足踏み込めば頭を足蹴に出来る近さまで歩み寄っていた人影が、その一言で静止し、言葉を発する。
「なによ」人影の正体は女。二十歳直前の十九歳であるが、見る人によっては女の子と呼ぶことも憚られないほど、若いと言えばいいのか幼いと言えばいいのか分からない顔つきと体躯。紅茶色の肌とルビーのような瞳を持ち、先端が腰近くまである三つ編みを一本垂らす、裸足の女性であった。「命乞い?」
「そっ、そうよ! だいたい、どうして私はあなたに殺されそうになってるのよ! 今日初めて会ったばかりなのにっ。私があなたに何かした!?」
「別に、何も」三つ編みの女はあっさりと即答する。「でも、アタシじゃない誰かには何かしたじゃない。一つの村で男が同時期に六人も不能になった件――アンタが夢の中で如何わしい真似をしていたせいでしょ? そのせいでそいつらの奥さんがどんな理不尽なとばっちりに遭ったか知ってる?」
「そっ、それは。……っ、私たちにとって人間の精気は生きるための糧なのよ!? 悪者呼ばわりされる謂れはないわ!」
ストレートヘアの女の必死な言葉に、三つ編みの女は嘆息する。
「悪いだなんて一言も言ってないし思ってもいないわよ。ただ敵として始末しようとしてるだけ。人間を糧とする種族なら、それは人間の敵でしょうが」
言って。三つ編みの女が最後の一歩を踏み出す。
「うっ」覚悟して。目を閉じるストレートへアの女。しかし。「え?」
いつまで経っても死は訪れない。不思議に感じた彼女がゆっくりと目を開けると、三つ編みの女の方が泣きそうな表情になっていることに気付いた。
「…………勘弁してあげるから、さっさと仲間のところへ戻って脚を治してもらいなさい。これからはもう少し弁えて食事することね。何も相手を不能にしなきゃならないほどヒトの精気が必要なわけじゃないでしょ。食い意地を張るのも大概にしないと、アタシ以外の〝誰か〟にも狙われることになるわよ。仲間にもそう伝えて」
泣きそうなまま、明らかに強がりと分かる口調で言い捨てると、そのまま三つ編みの女は去って行った。わけのわからないまま見逃された方の女は、ただその背を見送るしかできなかった。
「今日もまた屠畜場が襲撃されたんですって?」
「ええ。しかも犯人は十四、五歳の子たちだったらしいわね」
二人の若い婦人による、夕食の準備ついでの物騒な井戸端会議。町からそれほど離れていないとある村では、絶えず入ってくる小規模な諍い情報がもっぱらの話の種となっていた。国民会議の発足以来、イギリス領インド帝国は僅かずつにでも現地民を主体とした民主化への兆しを見せ始めている。とは言えやはり穏健的で緩やか過ぎる事態の向上はむしろ国民をやきもきさせ、細かな暴動を頻発させるという皮肉な状況も生んでいた。二人の傍を、三つ編みの女が通り過ぎようとする。目聡く彼女を見つけた婦人の一人が、声をかける。
「あら、アジータ。お帰り。……またジャングルに行っていたの?」
「はい、まあ」
「ふうん……」婦人の内の一人が、三つ編みの女の衣服を、服の裾を凝視する。ジャングルを駆けたせいで撥ねた土や苔が付着した部位を。「何をしていたのかは聞かないけれど、旦那さんに見咎められるような真似はあまりしない方がいいわよ」
その口調に厭らしさはなく。ただ本当に心配している様子。だからこそ三つ編みの女アジータも、優しい口調で応える。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、ウチの人はちゃんと分かってますから」
「なら、いいのだけれど。……あれ、いいのかしら?」
自分で自分の言ったことに確信が持てないで当惑している婦人をよそに、アジータは過ぎ去っていく。時刻は六時を回ろうとしていたが、陽はまだそれほど低くない。どこの家でも、先の婦人たちがそうしていたように夕食の準備が始まっていた。生まれたばかりの赤ん坊を背負ったまま何かを燻している、十三歳ほどの少女がいる。紅茶色の肌とルビーのような瞳を持ち、捲れたスカートから覗く太腿に幾つもの蚯蚓腫れが見える少女は、アジータの姿を認めると、無言で笑いかけた。アジータは言葉も力もなく取り繕ったように笑い返し、足を止めることなく歩み続けていく。そしてやがて、一つの家へ、我が家へ辿り着いた。扉を開けて中に入っても、誰もいない。はずだったが。
「よう、おかえり」
「ただ今……って、なんでいるの」
後ろ手で扉を閉めながら、アジータは訊ねる。床の上で胡坐をかいて待ち構えていた壮年の男に。見目三十歳前後、褐色の肌と赤銅色の眼を持ち、真黒い髪をしたその男は、頬杖をついて答える。
「なんでってお前、たまには寄っておかないと、近所の人間にも疑われるだろう。『放浪癖があるから滅多に家にいない旦那』なんて実在するのか? ってな」
「それをそう思わせないための魔術じゃなかったの? 『認識麻酔』とかいう」
「そりゃあ、その通りなんだが。精神干渉系の魔術は特に苦手なんでな。不安もあるんだ。それとは別に、生活費だって入れなきゃお前も困るだろう」
膨らんだ頭陀袋を乱雑に床へ投げながら、男は言った。アジータはそれを目で追いつつ拾うことなく、溜息を吐いた。
「せめてアタシが魔術の一つや二つまともに使えたら、ここまで世話にならなきゃいけないってこともないんだろうけど。使えないわけじゃないんでしょ?」
「ああ、生まれつき魔力の流れが調整され切っている絶対能力者は魔術師になれんが、お前は化身能力者だからな。魔術を使うのに支障はないはずなんだが……どうも下手くそだよな。そればっかりはお前の個人的な性質だろう。魂魄的に魔術師に向き不向きってのがあるしな。というかな、どうせ俺は時間なんざ有り余っている身なんだ。遠慮などしなくていい。迷惑だって言うんなら考え直すが」
「迷惑だなんて……」自虐的な台詞を吐く男に、アジータは明言出来ない。「ありがたいとは思ってるよ、本当に。でも、何だか皆に申し訳なくって」
「皆というと、うちの手合いたちのことか? 気にするな。元々個人主義の強い奴らがわいわいやりたいだけで集まっているような一派だ。自分の面倒ぐらい自分で見られるとも。何かあってもカブやキリがいる」カブ、キリ。〝一派〟の中でも男が特に信頼する者たちの名であろうか。「ところで。最近の調子はどうなんだ? 相も変わらず夜留を相手に暴れ回っているのか?」
「暴れ回るって……もうちょっと他に言い方ないの?」嘆息。「仕方ないじゃない。こんな力を持つ者の責任だもの。夜留退治は」
夜留。それは、夜の世界を生活圏とする魔物たちの総称。たとえば吸血鬼。たとえば夢魔。たとえば人狼。たとえば屍鬼。
「太陽の力をその身に宿す化身能力『太陽の化身』か。確かにお前のその力はとんでもない代物だ。だが、絶対じゃあない」
「言いたいことは分かるよ。これまでは運よく大した夜留とぶつかって来なかったアタシだけど、これから先もそうとは限らない。相性の差では到底埋め切れないような相手と戦うようなことになったら、ってことでしょ?」
「分かっているなら少しは自重してくれ。せいぜい普通の人間に毛が生えた程度のお前の身体能力では、如何に『太陽の化身』の力を用いてもどうにもならない夜留が腐るほどいる。本当ならいつ返り討ちにされてもおかしくないんだぞ」
「そうね。というか。あなたという後ろ盾がなければ、むしろ夜留の方から積極的にアタシを殺しに来ているだろうし。ふふ」
「笑い事じゃないだろうが。せめてもうちょっとだけ大人しくしてくれ。俺の名前だってどこまで通用するか分かったもんじゃないんだぞ」
「なによ、心配だからとか何とか言いながら、結局説教しに来たの?」
「いや、そんなつもりはなかった。心配して来たっていうのは嘘じゃない。目の届かない場所にいる内はいつだって気にかけているさ。だから今夜は泊めてくれ」
溜息を吐きながらも了承したアジータは夕食の準備に取り掛かり始めた。
――――翌日。
留守番を買って出た褐色の男を家に置いて、アジータは朝も早くから町の市場へ出てきていた。乱暴に腸を取り出しただけで鱗も泥もそのままの魚を三尾買ってから、米屋へ足を向けた時であった。
「あ」目に映ったのは、少女。昨日は言葉も交わさずにただ通りすがっただけのあの少女であった。今日もまた、目も満足に開け切らない赤ん坊を背負っている。「アルン!」
「はい? あ、アジータさん」
あからさまに気まずそうな少女の素振りなど無視し、アジータは詰め寄っていく。
「あなた、子ども産んでからまだ七日も経ってないのにもう出歩くなんて。家の周りで済む仕事まで控えろとは言わないけど、こういうのはせめてあと三日四日遠慮出来ないの?」
「大丈夫だよ、そんなに遠出しているわけでもないんだし、重たい荷物もないから。大げさですよ、アジータさんは」
「そう? ごめんね。……ん……ええっと」嘘や強がりと分かっていてもそれ以上追及できないアジータは、大人しく引き下がって他の話題を探すが。「じゃあね」
何も思い付かなかったアジータは別れの言葉だけを言い足して逃げた。逃げながら自分に言い聞かせていた。
――アルンの夫は決して善人じゃないけど、だからって極悪人でもない。親類たちの手前、多少は嫁にも厳しく当たらないと、と思ってるだけよ。そう、あれぐらいなら普通のこと。普通のことなのよ。
心にもない言い聞かせは、アジータを増々惨めにするだけであった。暗澹とした心持のまま家に着いた彼女は、力なく扉を開けた。
「おかえりなさい」
「もしかしてその待ち構え方、どこかで流行っているんですか?」買い出しを終えて帰ってきたアジータを、昨夕の褐色男とまったく同じ言葉で迎えたのは色白の女であった。若くは見えるが、実際に年若いと言うよりは若く見える妙齢の女性といった風貌。黒を基調としたサラファン(ロシアの民族衣装)を身に着けた彼女に、アジータが訊ねる。「ゼファロさんは?」
「私と入れ替わりで出て行ったわよ」
「そうですか。……で、一体何なんですか? 昨日はゼファロ、今日はキリさんと。二日続けてというか、二日に分かれてというか。今までこんなことなかったのに、珍しいじゃないですか。アタシの家に突然押しかける遊びでもやってるんですか?」
「そんなわけのわからない遊びしないわよ。たまには来客が続くことぐらいあったっていいでしょ。そんなことよりあなた、また何か悩んでるんじゃない?」
「……わかりますか」
「顔を見れば一発よ。もっとも、あなたは年中悩んでるようなものだけど」女、キリの言い草にむっとしたアジータであったが、それも一瞬間だけ。「私でよければ話を聞くわよ。ボスやカブよりは私への方が幾らか話し易いんじゃない? 仮にも同性なんだし」
「じゃあ――」
催促されるような形ではあったが、アジータはようやく重い口を開いた。
アジータは出生からまともとは言えなかった。何せ実の兄妹の間に生まれた子どもである。それでも、父母が兄妹であることを隠し通せている内はよかった。その頃はそもそも彼女だって、まさか自分の両親が実の兄妹どうしだったなんて夢にも思っていなかったのだ。事態が悪い方へ運び出したのは父母たちの母――つまりアジータにとって祖母に当たる人物が突然訪ねてきて、殊もあろうに己の息子と娘を強請り始めた時からであった。
◇
「母さん、もういい加減にしてくれないか……!」人間三人が暮らすにしてはかなり手狭な家の中。息子が母に、縋る思いで声を張った。しかし悲壮感漂う叫びは黙殺され、母親は黙ったまま金だけを持って出て行こうとする。息子の胸中には、言いようのない口惜しさが込み上げてくる。恰好から、母が貧窮のために金を欲しているとも思えなかった。「人でなし!」と、罵りの言葉を投げかける。それでも母親は振り返らない。「これが親のすることかっ」
母親の足が止まる。振り返りはしない。だが応える。
「家を出て行った時から、あんたたちを息子や娘と思ったことはないよ」
吐き捨てるような口様であると同時に嗚咽交じりの語調でそう言って、彼女は出て行った。息子は何も言い返せなかった。自分の子どもと思っていなければ強請ってもいいのか、という正当な反論すら出来ない。ただただ惨めだった。母も、自分自身も。二月後に彼女が訪れた時、彼は親殺しになった。
「兄さん、なんてこと……っ!! う、おええっぐうっ」
刃がぐにゃぐにゃと湾曲したナイフが首に突き刺さったまま血溜まりに倒れ伏す母親と、返り血を浴びて立ち尽くしている夫。妻が我慢できず、膝をついて吐瀉物を撒き散らしてしまったのも無理はなかった。そこへ、最悪なタイミングで、娘が帰宅してきた。
「え、な、なにこれ……お父さん? どういうこと?」
目の前に広がる信じ難い光景に、十四歳のアジータは激しく混乱した。一家団欒の場であるはずの家が、今は凄惨の極みにある。床に敷かれているのは莚ではなく、見知らぬ女(アジータこの時点で祖母の存在すら知らなかった)の死体。
「アジータ…………アジータ、アジータ! アジータっ!!」
死人の如き眼をして腕に掴みかかってくる父に、娘は怯えた。本気で、殺されるとすら思った。だが何故か、逃げてはいけないと思った。最近、父母の様子がおかしいことは、彼女も薄々気付いていた。ここで自分が逃げては、父が本格的におかしくなって戻って来られないと思った。だからどれだけ怖くても逃げられなかった。
異様な状況のまま時間がどれほど経っただろうか。正体を取り戻した始めた父が、手の力を緩めつつゆっくりと口を開いた。
「アジータ、今から言うことをよく聞いてくれ」
もう吐く物もなくなってしまった母が憔悴しきった顔で無言のまま自分たちを見つめていることに胸を締め付けられながら、娘は頷いた。そして聞かされる自分の出生とやら。嗜虐趣味の噂がある男の元に嫁がされそうになった妹を連れて逃げた兄。最初こそ兄妹として暮らしていた二人が、ただでさえ人気のない土地で暮らし、更にごく稀に現れる来客を欺くため仮の夫婦を演じている内に、いつの間にか――。
長年連絡を絶ってきた母親(アジータにとっての祖母)が自分たちの居場所を突き止めて現れ、この二年ほどずっと金を強請っていたことも知る。無論、その結末も。
すべてを知った娘の心境は冷たかった。妹のために人生を捨てた父を見直して、妹に手を出した父を女性として憎悪し、こんな結末を選んだ父を見下げ果てた。自分のために人生をかけてまで助けてくれた頼れる兄に、妹が女性として本気で惚れ込んでしまった可能性は否定できない。というよりも恐らくはそれが本当だろうと、アジータも理解していた。曲がりなりにも十四年間娘をやって父母の性格はある程度把握している。先に迫ったのが母の方だったのだろうと確信すらしていた。その時の母の気持ちまでもが手に取るように窺い知れた。しかしそれでも越えてはいけない一線があったのではないか。妹から兄への愛、あるいは兄から妹への愛がたとえ本物であっても、兄弟愛ではなく恋愛であっても――。
アジータはどうすればいいか分からなかった。途方に暮れて、とりあえず母をもう一度見ようとして、頭を上げたその時であった。
絶対に生きているはずのない屍が動き出し、自身の首に深々く突き刺さっていたナイフを抜いたのは。
この時、アジータの心に湧き起こった感情は安堵である。全部手の込んだ演技、作り話だったのだという。無論、それは混乱の極致を越えた者の単なる現実逃避である。だが実際問題、逃避というのもやや言い過ぎなのかもしれない。常識的な人間としての真っ当な反応であったと言えなくもない。死体が一人でに動き出すという状況と、嘔吐まで伴った迫真の演技で洒落にならない悪ふざけをする大人。どちらがより非現実的なのかということを、程度問題のみで比較して考えてみれば。
頭の中が真っ白で声を出すことも出来ないアジータの視界にとりあえず収まっている父と母。うな垂れている二人は、動く死体に気付いていない様子。とにかく何か言わなくちゃと、アジータが口を開きかけた矢先。祖母の死体が、手にしたナイフを己の娘に振り下ろした。
「ああっ!?」
母の死体に額を割られた娘は、断末魔の叫びとともに倒れた。それでようやく異変に気付いた息子がはっとして振り返ると同時、彼の首は母の両手によってへし折られた。
今や場に生きていると断言できる人間は、かの死体の孫であるアジータ一人となった。この期に及んでもまだアジータは現実逃避を続けようとしていたが、現実はもう手を伸ばせば触れられるところにまで迫ってきていた。逃れようのない距離感。
「い、いや、いやあああああ!!」尚も目を閉じ耳を塞いで、少女は逃げようとする。なんだこれは。これはなんだ。血の繋がった兄妹でありながら姦通した二人への今更ながらの神罰、近親相姦で産み落とされた存在への粛清だとでもいうのか。湧き起こるそんな懸念から必死に逃れようとしている。「っっ!?」動く死体に掴まれ、耳から引き剥がされた少女の両腕。「あああああああっ!!」掴まれた部位から腐敗し始めたアジータの腕は、軽く引っ張られただけで肩から千切れ落ちた。激痛が、否が応にも現実感を突きつける。加えて、もう耳を塞ぐことすら出来ない。
そんな中で、またも異変が起きた。死体が苦しんでいる。声は出ていなかったが、明らかに苦痛に喘いでいる様相。それと同時にアジータは気付く。自分の腕があった場所から噴き出た血を、死体が浴びていることに。その血が、得体の知れない橙色の光を放っていることに。苦しんでいるのはこの血が理由か。気付いた瞬間、圧倒的なまでの情報の波が脳に流れ込んでいる感覚に襲われる。自らの魂に宿る力を知覚する。『太陽の化身』。化神。正と逆。膨大な情報量に対処しきれず、アジータはとうとう失神した。そうでなくとも彼女の肉体と精神は限界をとっくに超えていたのだ。
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「ゼファロっ、こいつは……!」
「ああっ、どうやら最悪な事態になったようだな」
事切れた男女と、両腕を喪失して失神している少女と、人型に盛り上がった灰。そんな狂気めいた現場に二人の男が現れた。ゼファロと呼ばれた男は褐色の肌で、呼んだ方の男は病的なまでに青白い肌。ドアをぶち破り突入した彼らは、凄惨すぎる場面に頭を抱えている。
「もう夕暮れ過ぎだってのに灰になってるってことは、この状況になってから既に一夜明けちまってるってことか? とてもそうは思えないが」
「なんにしても……間に合わなかった……っ!! それだけは確実だ。くそっ! 一般人相手に『ゾンビパウダー』を売りつけるなんざどうかしてやがる!」
状況を把握しようと努めて冷静に振る舞っている青白い男に対し、褐色の男は自分の感情を一切隠さないで声を荒らげている。
「大方、『若返りの妙薬』とでも銘打って高値で売り捌いていたんだろう。実際、生きている内に使えばその効果はあるからな。その分体内に蓄積されて、死んでからゾンビになるだなんて、夢にも思ってなかったんだろうよ」青白い男は相変わらず冷静に言葉を選んでいたが、彼のその態度も所詮は虚勢なのか。褐色の男から見えないよう顔を逸らし、歯軋りをしている。顔を逸らすと当然視線も変わり、そのお蔭で、彼は気付く。死に満ちている部屋の中、自分とゼファロを除いてもまだ一つだけ、呼吸している存在がいることに。「え? お、おい、ゼファロ! この子、生きてるぞ!」
「何!? 本当かカブ!?」
◇
「あれから五年、もう十分だと思うんです」複雑怪奇な事情を経て拾われた少女は、五年後の今、もう大人と言って差し支えのない年齢になっていた。「もう十分世話はしてもらいました。感謝しています、すごく。でも」本題、本音として。「辛いんです。ただ冷たい目を避けるためだけに、実在もしない夫の振りまでしてもらうっていうのは。だってそれって、父さんと母さんがしていたこととまるっきり同じじゃないですか……!」
嗚咽混じりに心情を吐露したアジータの背を擦りながら、キリは優しく声をかける。
「ごめんなさい。ゼファロの正義感は、正直ちょっと押しつけがましいところがあるし、私たちは私たちでそれに同調するような性格だから、あなたの繊細さを気遣えなかったみたいね。……いっそのこと、ゼファロとあなたが本当の夫婦になれればいいのだけれど」
さり気なく、しかし本心から漏らされたものであろうキリの考え。アジータはそれを、「無理ですよ」哀しげな目を浮かべて否定する。「だってアタシはただでさえ人間で、太陽の力なんてものを持ってしまっている。よりにもよって、太陽なんですよ? それがどうして、吸血鬼と夫婦になれるって言うんですか」




