第四話・幸せに思えた時間
指輪は、沙紀と僕が去年のクリスマスに買ったものである。二人で、その日、宝石店に行った。有名な宝石店で、値段などとても僕の懐ではまかないきれないものばかりが、整然と陳列されていた。僕の予算よりも、ゼロが一つも二つも上のものばかりだった。内心で僕は沙紀に冷や冷やしていたが、特に何も言うことが出来ずに、沙紀の香水の匂いを追っていた。僕を和ませるはずの柑橘系の甘い香りが、そのときばかりは鼻をつく臭いに感じられて仕方がなかった。突然、沙紀は、ショーケースの中の、ある指輪を指差し、驚くべきことを口にした。
「すいません。これ、はめてみてもいいですか」
僕は、どこからか鋭い視線を感じた気がした。それは、嬉々満面として指輪をはめる沙紀ではなく、ショーケースを空けた店員のものだった。表面上は笑顔を装っているが、内心では、そんな金を持っているのか、という疑心が、眉間のしわに色濃く込められていたような気がした。
僕は、努めて冷静を装って沙紀のはめた指輪を眺めていた。似合っていないわけではないが、沙紀にしてはとても仰々しく、なおかつ巨大な宝石が薬指の上で異彩を放つ。僕はそのとき、細い枝になっている熟し切った柿を頭に描いた。
「ねえ、真司」
沙紀が突然振り向いたので、僕は思わずたじろいでしまった。
「これにしようか」
僕は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。沙紀の口調といったら、まるで今日のおかずを作るのが面倒になって冷凍食品を買うような、そんな軽い衝動買いのような雰囲気を存分に充満させていた。もちろん僕自身は、冷凍食品を買うつもりも、その指輪如何に返答する気力もなかった。
だが、店員に背中を向けた格好で僕を見つめていた沙紀は、唐突に僕に対してウインクをした。目に異物が入ったわけではなさそうだった。しきりにウインクするさまは、もちろんふざけているようでもない。
そして、僕は、そこであることに気付き、沙紀の考えを理解した。
「それでいいんじゃないか」
沙紀はウインクをやめて、少々ほっとしたようだった。目尻が日常のそれより緩んでいる。
「そうね、これにしようかな」
沙紀のその言葉を聞いた店員は、僕たちに何かを感じ取ったのか、より一層愛想を浮かべ出した。僕をどこかの金持ちの息子と勘違いしたのかもしれなかった。とすれば、沙紀は、僕の婚約者といった役どころだろうか。
僕たち二人の間に、不思議な空気が流れ出した。
一度自分をそういった役どころにおいてしまうと、どこか心情に落ち着きを取り戻し、逆に泰然とした心持になってきた。
「沙紀、そのネックレスもいいんじゃないか」
「そうね、でも少し大袈裟すぎないかしら。首が疲れそうだわ」
店員は、その言葉に僕たちが相当な裕福な男女に見えたらしく、しきりに商品を薦めだした。慇懃に商品を取り出し、僕らの眼前に差し出すそれは、まるで、高官に仕える侍従のようなものであった。
「このネックレスなんか清楚な感じで、私は好き」
沙紀から清楚という言葉が飛び出すとは思わなかったから、僕は沙紀に隠れて含み笑いをした。
不思議な空気は、まだ二人の間を流れていた。
暖かく、それでいて少し湿っている。動けば直ぐにでもじんわりと汗をかきそうな、そんな熱帯夜のような。
それに例えをつけるなら、子供のころに母親に連れていってもらった祭りの空気によく似ていた。普段は車道になっている細い道が、いっせいに遮断される。そして、両端には出店が並び、夜の帳に大きな火が点される。提灯であったり、電球であったり、大小さまざま。僕は母の細いが、柔らかく、温かい手に連れられて、大勢の人いきれに呑まれるようにして二人で並んで歩く。当時の僕は落ち着きがなかったから、直ぐに迷子になっては泣き叫んでいた。それを知っていた母は、無邪気に踊る僕の手を固く握り締めて離さなかった。
僕は、くじ引きが大好きだった。
大人の判断力があればだまされることのない代物だが、子供心には、そう、夢をこの手で今にもつかめそうな、そんな期待と羨望が込められた代物に見える。一等から十等まで高価な商品が並んでいたが、いつになってもそれは誰にも当たることはない。
それでも僕は、いつかはそのくじが当たる気がして、母の手を引いた。母は何も言わずに僕の手に百円玉を握らせてくれた。
そのときの母が、どうして外れると分かっていて、僕にくじを引かせてくれたのか。
僕は、それが分かった気がした。
そのときの空気が、今この宝石店の中で流れ始めているのは、おそらくは沙紀の背中を見る僕が、そのときの母に近かったからだ。当たりや、外れなんかない。すべて本物しか並ばないこの高級な店内で、僕はそのレトロな童心をくすぐるような感情の流れを、敏感に感じ取っていた。
宝石店を出た僕たちは、入るときと全く同じだった。ただ違っていたのは、店員の視線の鋭さだった。金持ちの息子とその恋人を演じる必要がなくなった僕たち二人は、まるで大漁の漁師が港に帰港してくるときのように、意気揚々と店を出てきた。店員は、狸に化かされ悔しがって、歯軋りしていたようだった。僕は心の中で、店員に謝罪したが、それは心底からではなかった。
「沙紀が今まで付き合ってきた男って、どんな男だったんだ」
僕は、なぜか余裕があった。だが、聞きたいことでもあった。普段の僕であったなら、きっと嫉妬してしまうようなことであったけれども、そのときは僕の懐がとても広く、かつての沙紀のどの恋人よりも自分が上回っているような気がしてならなかった。そんな不毛な自信がさっきの宝石店で萌芽してきた。
「何でそんなこと聞くの」
沙紀は、不思議そうに僕を見た。
「聞きたいからさ」
やはり、僕には余裕があった。すんなりと喉から出たのが、言った僕自身にも不思議だった。
「そうね…」
沙紀は道の先を眺めるように考えた後、思い出したように口を開いた。それは、鶯が春の訪れを叫ぶように清澄としていたが、内容はそれとは別だった。
「初恋の人は散々だったな。中学のときに付き合っていた人なんだけれど、あ、同じ学校の先輩で、私から告白したの。そのときって、なんと言うか、恋に恋してしまう年頃でしょう。恋は魔法なのよ。一度好きになってしまうと、その男の人がすごく格好よく見えてしまう。それで、こう、猪突猛進と言うか、そんなところ。それで、告白したその日のうちに家に来いって言われて、私が何の疑いもなく彼と一緒についていったら、その日のうちにいきなり初体験。なんか、中学のときに想像していた酸いも甘いもが、一気にどこかへ飛んでいっちゃったって感じ。とにかく自分勝手な人で、私が痛いって言うのに聞かないで、そういうことするし…」
胸に、何かが引火したようだった。余裕だと思えた大勢が、沙紀の現実に簡単に揺らいだ。僕以外の誰かに沙紀が抱かれていた、ということは、付き合い始めた当初から分かっていたことではあった。でも、それはなぜか、僕の中で簡略的に扱われており、その重要性においても軽視しすぎていたこともであった。現実から少なからず目を背けていたということであろう。ただ、それは僕自身、まだ沙紀という女性について把握し切れていない漠然とした部分が、実は僕の心底で大きな不安や嫉妬を呼ぶことになる気がして、また、それが現実の僕に心痛をもたらすような気がしてならなかったからで、あくまでも自身の未成熟な心のせいに他ならなかった。
男は、妄想の動物である。
見知らぬ誰かの裸を妄想して勃起することがある。女性の胸のふくらみや、露出の度合いで、簡単に局部を熱く、硬くすることが出来る。僕は、見知らぬ男に抱かれている沙紀を想像することで、嫉妬の炎をいとも簡単に燃え上がらせることが出来る。そして、その想像によって勃起してしまっている僕自身に、罪悪感と、嫌悪感を募らせる。付き合う、という解釈そのものに欠陥があるとしか思えない。付き合うことは、互いを補完することであるというのが、持論だった。だが、それは、僕の思い込みと、誇大な理想像に過ぎなかったと言える。
互いを補完しあうこと。それは、たとえばこうだ。仕事をする男性と、家事をする女性。そういう、得手不得手を補って完全なる家庭を築く。ジェンダーの要素は関係ない。とにかく、互いが互いを支えあうことが付き合うということであると思っていた。
沙紀は、それを根底から揺るがす。
僕が、沙紀の過去に嫉妬することは、僕の持論にはさほど関係のないことのように思える。しかし、僕が沙紀と補完しあうには、足りないものがあまりにも多すぎた。沙紀は、僕ただ一人、という唯一の意識を持ち合わせてはいない。つまり、沙紀は僕を補完対象としてみていないということだ。たとえ見ていたとしても、それは僕ただ一人というわけではない。沙紀には、今でも男の影が見え隠れする。おそらくは、今でも別の男との交流が絶えていない。それどころか、日ごとに増していっている。携帯電話のアドレス帳を隠れて開いてみたところ、件数は百件をゆうに越えていた。沙紀は、様々な男性に様々なものを求めていたようだった。それはお金だったり、移動手段だったり、話し相手だったり、遊び相手だったり、性交渉の相手だったりと、きっと多種多様に違いなかった。ただ僕はその中で、簡単にいえば恋人という枠組みを得た男に過ぎなかった。そう、思ってしまうだけの根拠があった。だが、僕は甘受することで以前の恋を忘却の淵底に沈めようとしていた。それは、自分に都合の良いほうに解釈すれば、失恋で出来た大きな穴を、沙紀との恋で埋めようとした、となる。もちろんこれは持論に合致しているし、筋書き通りならば付け入る隙さえない出来だった。だが、それは誰から見ても隙だらけで、完璧には程遠いものだった。
「でもね、痛いわりには、不思議と血は出なかったのよ」
沙紀の苦笑いが、僕の耳を不快の波で侵食した。自分で臨んだ話であるのに、今度は自分で拒否したがっているのが分かった。
沙紀は、まるでそれが他愛のない昔話であるかのように話し出した。沙紀にとって、それは本当に他愛のない昔話なのだろう。昔の失敗談を笑い話にする程度の。だが、僕にとっては、それはことのほか重大で、聞くに堪えない話だった。
「しかも、下手で」
様々な時、場所で、沙紀が何を考え、何を思っているのか、僕には分からない。
「相手も初めてだったし」
何を感じ、何に向かうのか、僕には見当すらつかない。
「私と付き合ったのだって、ただしたかっただけらしいの」
僕は、どうしたらいいのか分からない。
恋の終わりを予感して、恋の中に身を横たえることは、病床に付し、ただ死を待つ患者に似ているような気がする。自分自身が傷つかないことを前提に恋をすることは、快感はあっても、充実はない。それでも、その恋は楽で、終わりを予感することがつらくない。状態としては、最高であるのかもしれない。使い捨てのコップのようなもの。コップ一杯の水を飲み干すためだけに使用されれば、後は廃棄されるだけ。飽きれば、飲み干す前に捨ててしまえばよい。
「最初は、少しぐらい優しくするものでしょ、普通。真司はどうだったの」
ひとつのコップを捨てた後は、また違う水の入ったコップを探し始める。しかし中には、かつての味を忘れられずに、苦渋する人がいるのかもしれない。
僕はどんな水を飲んだのか。それはどんな味で、どれぐらいの量だったのか。すでに飲み干してしまったのか、まだ残っているのか。
「ねえ、聞いてる」
自分で踏み込んだ沙紀の領域で、これほど自分が苛立つとは思わなかった。胸の奥が焼けるように熱くなり、破壊の衝動がこみ上げるのがわかる。自業自得だが、僕にはそれが許せなかった。包み隠そうともしない沙紀の物言いが、今の僕の苛立ちを立ち上げたのだ。
「もう、いいよ」
「あ、嫉妬」
沙紀が、下から覗き込むようにして僕を窺う。それが、僕を見下しているように、馬鹿にしているように見え、聞こえた。
「聞きたくないんだ。そんな話」
僕は明らかな不快感を顔に出して、ぶっきらぼうに言った。
「聞いた俺が間違いだった」
沙紀は、立ち止まったようだった。当然の反応だ。第三者から見れば、沙紀は明らかに悪くないのだから、沙紀が怒るのも無理はない。そうであっても、そうであると分かっていても、僕は心無い言葉を放つ口を持っているのだ。制御することのできない、矛盾した心を持っているのだ。
僕はしばらく歩いていた。振り向いてはいけないような気がした。振り向いてはいけない、そんな強迫観念があった。意地、という言葉が二、三度浮かんでは消えた。沙紀にとっては、男は僕だけではない。僕が恋人という役職をもらっているだけに過ぎない。沙紀は、僕に愛想を付かして、今から別の男にでも会いに行けばいい。沙紀ほどの女性ならば、誰でも優しく慰めてくれるだろう。本心はどうあるにせよ、優しい言葉をかけてくれるだろう。たくましい腕で抱き寄せてくれるだろう。大きな手で頭をなでてくれるだろう。それが、僕である必要がない。
しかし、なぜ、こんなにも胸が苦しいのだろう。なぜ…。僕の頭に、念仏のようなシュプレヒコールが流れた。
「真司」
真司。
何か別の言葉のように聞こえた。そして、それは特殊な呪文のように聞こえた。
「真司」
僕は、かけられるはずのない言葉をかけられている心地がした。気づくのが遅れ、振り向くのはもっと遅れた。
沙紀が、すぐ後ろにいた。
僕は、急に胸が熱くなり、まるで何かにすがるように、その場で沙紀を抱きしめてしまった。彼女を正面から抱きしめ、首を引き寄せる。沙紀は、最初こそ驚いたようだったが、直ぐに平静を取り戻し、僕の後頭部を優しく撫で始めた。
「よしよし」
いつしか得ることのなくなった、安心感と充足感が、そこに優しさと同化して存在していた。
子供の頃に、暗く長い夜道を一人で歩いた記憶。闇が手を伸ばして、僕の背中を執拗に押した夜。振り向くことがどれほど恐怖だったか。家までの距離がこれほど長かったか。僕は愕然とし、また、後悔した。昼夜で逆転する僕の勇気。その勇気が、いかにちっぽけで役に立たないことかを知った夜。
そして、あの光に感動した夜。
我が家の光を道の先に見つけたときの心境。ちっぽけだった勇気が、どんどん膨らんでいく。疲労が、脆弱した心が、再生されていく。家路につき、玄関をくぐったときのあの素晴らしき感動。それは、母の胸に飛び込み、その服にしみこんだ匂いを嗅ぎ取ることで容易に爆発した。
涙だった。温もりだった。安心感だった。
母は言った。胸に飛び込んで咽び泣く僕の後頭部を愛撫しながら。
――よしよし。
触れられるたびに涙がとめどなく流れた。糸の切れた人形のように。緊張の糸が切れた僕は、溜め込んでいた恐怖を振り払うかのように泣き続けた。滂沱が綴る物語。僕が強がりながら話せば、母は微笑みながら聞いてくれた。小さな、とても小さな英雄譚が、そこにあった。
僕よりも確実に小さな体を持っている沙紀のどこに、これほどまでの包容力が存在しているのだろう。海の中に落ちていく感覚。いや、夢だろうか。とてつもなく大きくて安らかな何かの中にゆっくりと落ちていく。体中を癒すように浸透してくる。僕は、母の足を思い出した。子供の頃に感じた手の大きさを思った。布団一つに二つの温もりがあった。摺り寄せた頬の先には、母の小ぶりな乳房があり、その柔らかさは、吸い付きたくなるような愛おしさに満ちていた。
沙紀の髪からは、柑橘系の匂いが漂う。だが、その奥に沙紀自身の甘酸っぱい匂いが見え隠れしていた。僕はそれを嗅ぎ分けるように鼻を動かした。鼻腔の奥につんとくる匂いは、汗の匂いのような、母乳の匂いのような、懐かしさにまぶたを閉じたくなるものだった。閉じたまぶたの奥に風景が広がって、僕は飛び出していきたくなる。
終わる夏の公園で、時間を忘れたようにはしゃぐ子供。傾く夕日に輪郭を彩られて、遠くから帰宅を促す声。オレンジ色の向こうで、細い腕を大きく振って、知らせに来る。白いエプロンが映える。
――ご飯よ。早く帰ってらっしゃい。
僕は公園を出る。母の元へ駆け寄っていく。白くて暖かい、家事で汚れた手に僕は一日の終わりを感じる。エプロンに染み付いた夕食の匂いに、食卓を想像する。家路までのほんの数分を、母と手をつないで話しながら帰る。僕は、ホームランを打った。フェンスを越える大きなホームラン。小さな公園の大きなホームラン。母は、まるで自分のことのように嬉しがっていた。優しい目尻が、もっと優しくなる瞬間。
僕が、いつまでもここにいたいと切実に望むも、帰らざるを得ない現実。その風景をまぶたに描写しながら、僕は遠き過去の美酒に酔う。だが飲めども飲めども深くは酔えず、まぶたの先に存在する現実に醒めてしまう。過去は閉じたまぶたの奥にしか存在しない。
そして開けたまぶたの先には、沙紀がいた。
そのときの、何も聞かずただ優しく抱きとめてくれる沙紀の存在がどれほど大きかったことだろう。僕が必要としていたのは、体裁だけの恋人ではなく、欲求を満たせる穴としての恋人ではなく、ただ傍にいて、肩を貸してくれるような拠所としての恋人だった。
沙紀が僕に対してどのようなものを求めているかは分からない。けれど、僕が沙紀に対して求めているものは分かった気がした。全部ではないにしろ、氷山の一角だけはこの手のひらの上で形として見えている。鮮明に。
僕は、ゆっくりと懐から、沙紀を解き放った。沙紀は、そっと微笑を浮かべて、僕を見つめた。
「好き」
沙紀の声は、明瞭で疑う余地がないものだった。思考する間隙すら要しなかったようだった。僕を好きだと言うことに、沙紀自身疑っていない。沙紀がなぜ僕を好きでいるのか。僕を好きでいられるのか。僕には絶対に見つけられない回答を、沙紀は確実に持っていた。自分で発見できないがゆえに、僕は不安になる。僕が確固たる自信の持てる長所を持していれば、その不安は払拭されるかもしれない。ところが、それを持っていないとなると、話は全く違うところに進んでしまう。不安が更なる不安をつれてくる、いわゆる疑心暗鬼に陥ってしまう。
分からないなら、沙紀に聞けばいいのではないか。
「沙紀…」
沙紀は、長いまつ毛を開き、僕を瞳の正面で捕らえた。
友達に苛められ泣きじゃくる僕を優しく介抱してくれた母の瞳に似ていた。心に思ったことを一言一句余さず吐露したくなってくる。胸を締め付けられる清らかな衝撃。この衝撃は、僕に更なる涙を催させ、配色の違う落涙が頬に伝う。悲涙から、感涙へ。この世でただ一人、そのサイクルを劇的に実行できるのは、母だけだった。
僕は躊躇していた。
沙紀が、先程僕に、好き、と言ってくれたように、僕の問いかけにすぐさま応じてくれるだろうか。見つからず、眉間にしわを寄せる沙紀を僕は見たくはない。沙紀が、僕を好きでいることが幻想の賜物だとすれば、沙紀にかかった魔法は一瞬で解けるだろうし、僕の醜態は白日の下に呆気なく晒されるだろう。絶望に落胆し、瞳の色を暗澹に曇らせる沙紀の表情が脳裏にいくつもモンタージュされる。その流れをもってして、僕の喉は、言葉が喉から溢れ出るのを阻止しなければならなかった。
まるで、毒の混じった水をそうするかのように。
沙紀は、待っていた。僕の問いかけを待っていた。
だから、残念そうに少し溜息をついた沙紀の肩は、少なからず常時より落ちていた。
僕は、何かを逸したことを悟った。
「真司、こっち。これ見て」
膝を曲げて、露店に並べられたアクセサリーを手に取る。僕は、逸した機会を取り戻そうといろいろ思考したが、そんな方法は見つかるはずがない。沙紀の丸めた背中から透けて見える、ブラジャーのホックが、なぜかとても遠方であるような錯覚に陥った。そして、そのホックを外すことが、終わりの始まりを予感させるようで悲しかった。
「沙紀なら似合うんじゃないかな」
結局、未来の二人よりも、現実の二人を選択してしまったのだ。
「私に似合ったって仕方がないのよ。二人に似合わなきゃ、ね」
結局、未来の不安よりも、現実の享楽を選択してしまったのだ。
沙紀の横、同じ体勢で座った僕に、愛らしい声調が届けられる。
「これなんか、真司に似合いそう」
そう言って、沙紀はおもむろに指輪を僕の左手の薬指にはめた。
「どんな感じ?」
正直、不思議な感じだった。指輪そのものに感慨を覚えたのではなかった。指輪のある箇所に僕は感慨を覚えたのだった。
左手の薬指。
熟考も無く沙紀はその指に指輪をはめた。その事実が、少しの間、僕の感情を静止させた。
その指輪は、複雑な模様の入った銀の指輪で、太陽の光に眩しく輝いていた。しいて例えるならば高波が打ち寄せる様を掘り込んである作り。
「ほら、どうかな」
沙紀は、自らの左手の薬指にも指輪をはめて、僕の左手の横に並べた。
無骨な指。手の甲には血管が浮き出ていて、骨の筋がはっきりとうかがえる。まるで峻険な山脈を想像させる。肌は少し浅黒く、子供の頃につけた火傷の痕が親指に痛々しい。爪は深爪で、平べったい。ささくれが中指にあって、手を洗うとしみて痛い。
繊細な指。手の甲には青白く細い血管がうっすらと伸びていて、骨が緩やかに浮き出ている。雪を被ったアルプスのなだらかな尾根を想像させる。肌はシーツのように白く、それでいて内に通った血の赤さでほのかに赤い。爪は細長で、澄み切った空のよう。空にかざせば青空と見紛う色が配されている。ささくれのない、家事労働のない、完璧な指。
二人の手は、確かに違って見えた。同じ手には見えなかった。
しかし、互いの指には同じ指輪が、煌々と輝いていて、僕には同じ手が二つあるように見えた。共有しているように見えた。
「真司これにしよう」
僕は、その刹那、記憶の奥底に隠れていた、ある感情と笑顔を思い出した。忘れることのできない、一人の女性の微笑を。
二つの指、二つの指輪。それは、思い起こさせた。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。次回が最終回です。最後までお付き合いいただけたら幸いです。ではでは。




