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第二話・冷めた指輪

「何を考えているの?」

 沙紀が、僕の横でささやく。頬杖をして僕のほうを覗き込む。彼女は一糸纏わぬ姿で、僕の横に寝転がっていた。

「何も」

 僕は、どうでもいいことのように素っ気無く言葉を返した。

「本当にそう?」

 沙紀は、僕の胸に指を這わせて、反応を窺ってくる。胸の筋肉を一つ一つ丹念になぞっていく。僕は思わずその指の流れに、鳥肌が立った。

「嘘をついても無駄」

 悪戯をする子供のような無邪気な笑みがこぼれる。しなやかな指が、凶器のように見えた。日本刀の切っ先のような、鋭く、それでいて美しい。

 沙紀は、身を起こして、僕の胸に口付けをした。纏っていたシーツが彼女の体からするりと滑り落ちる。まるで、水が流れていくように、わずかな衣擦れの音だけが、彼女の背中へと遠のいた。長い褐色の髪の毛が、沙紀の表情を隠した。唇が、トーンの高い音を紡ぎだした。吸い付いた唇が離れる音。沙紀はそれを承知で、わざとそうしているようだった。無邪気さで溢れるが、それはどこか知悉しているようであって怖い。

 彼女のしていることは、明らかに技術と呼べるものであり、それはつまり経験の後についてきているものだった。文字通り、沙紀は、それらを身につけてきたのだ。

 僕ではない、誰かによって。

 無性に脳中を沸騰させるような感情がこみ上げてきた。

 濃厚なイメージが僕の頭の中に流れ出してきたからだ。火がついた油にどんどん引火して、僕はどうすることも出来ず、ただもがいている。こういう人間の想像力には、ほとほと手が焼ける。手がつけられない。手術をすれば、部品を取り替えれば済むというレベルのものではない。それ自体を停止させなければならない、危機的なレベルでのみ、それは僕の中から排除される。

 嫉妬は、人間である証明である。

「ねえ、真司」

 唇を離した沙紀が、僕を上目づかいに見つめた。どこか瞳が潤いを発しているようだった。何かをねだるようなしぐさに見えた。甘え、頬をすり寄せる猫のようだった。

「私では不服?」

 僕は瞬間的に首を横に振っていた。それが少し大げさだったのが、余計彼女の失望の糸を引いたようだった。

 沙紀は、少し大きな溜息をついた。

「真司。あなた、最近少し変よ。心ここにあらず、って感じ。私とこうしている間にも、あなたは全く別のことを考えている」

 沙紀は、何も言わない僕の顔に自らの顔を接近させて、瞳の奥を探る。沙紀の、長い睫毛が反り返っているのが僕からはよく分かった。額に張り付いた一本の髪の毛が、先ほど抱いたときの余韻を漂わせていた。沙紀の甘酸っぱい体臭が、僕の嗅覚を支配した。決して嫌な匂いというわけではないが、その匂いを肺いっぱいに満たすと、僕はなぜか吐き気をもよおした。

「…帰るわ、私」

 つまらなそうに、僕の上からベッドに腰掛ける体勢に移行した。うっすらと光の反射した背中越しに、沙紀は僕をにらみつけた。僕は上体を起こし、片膝をたたんで、彼女を見つめた。視線が沙紀の視線と重なる前に、沙紀は立ち上がった。腰の括れから、臀部のふくらみ、足へと続くラインが、今の僕には何の色気も感じられなかった。床に落ちた下着を拾い上げ、背中を向けながら着る。そこからは、早くこの場所から去りたいという焦慮がひしひしと伝わってきた。その証拠に、なかなか引っかからないブラジャーのホックに癇癪を起こし、もう、と少し鋭い声を上げていた。

 やがて、デニムのミニスカートと、Tシャツが彼女を包み終える。沙紀は、一言、

「さよなら」

 と言った。

 いつもの沙紀の足音よりは若干高めで、玄関へ向かう。僕は、その沙紀の背中に向かって言った。

「…指輪を忘れてる」

 沙紀は足を止め、僕を振り返った。

 沙紀は、何か言いかけたが、喉から言葉は精製されず、息だけが漏れ出したようで、沙紀自身も逡巡しているように僕からは窺えた。

 沙紀は、僕の手から指輪をむしりとっていった。

「このころの真司が、好きだった」

 そのときの沙紀の表情は、悔恨そのものだった。あれほどの顔をした沙紀は後にも先にも見たことはなかった。

 言うまでもなく、彼女の閉めたドアは壊れそうなほどの大声を上げた。

 僕は、急に静けさを取り戻した部屋で、ただ一人溜息をついた。先ほど沙紀がこぼしたそれと同じか、それ以上の溜息だった。溜息に色があるのならば、きっと僕の溜息は黒かっただろう。すさんでいる、という言葉で片付けるのが一番正しい。それだけ、僕は人間的にも崩壊しかかっているのだった。そして、それを僕自身も認めざるをえないのだった。

 沙紀と同じ指輪が、僕の薬指で、鈍く、光っている。


第二話です。興味を持ってくださった方、読んでくださった方ありがとうございます。よろしければ、もう少しお付き合いくださいませ。ではでは。

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