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第五話「過去人との遭遇≠邂逅するは今」

「タオルです」

「…………ありがとう」

 僕と並ぶように、教室の壁に沿って体操座りをしている『彼女』でない彼女――美咲さんは、ドラムバッグから取り出した、やわらかそうな淡い桃色タオルを僕に差し出してきた。僕はそれを受け取り、濡れた頬を拭う。触覚を刺激する前に、仄かに甘い香りが嗅覚を柔らかく刺激する。

「なにかあったの~?」

 椅子の背もたれを抱くように座って、どこか緩い口調で僕の鼓膜を振動させたのは、選択教室の前で出会った、女軽音部員(仮)だった。

 今僕らがいるここは、つい数分前まで僕が睡眠学習をしていた選択教室だ。ちなみに、軽音部と名乗っていた彼女は、実は軽音部ではないらしい。体育館裏にいる友達の美咲さんを待つ為に、この選択教室を占領して待機していたそうだ。今思い出すと、彼女はなんらギターなどの楽器を、持ちも背負いもしていなかった。全く違和感の無い嘘をさらっと吐くことが、今小首を傾げている彼女の身上なのだと、僕の勘が告げている。単に僕が騙されやすい性質なだけなのかもしれないが。

 僕がそんな無意義の鑑のような思考を巡らせていると、美咲さんは「単刀直入に聞きますけど……」と前置きを置いて、

「……なぜ、泣いていたのですか?」

 薄く眉を顰めて、窺うようにそっと尋ねてきた。どこか、透きとおった印象を与える、そんな音色だった。

 数分前、つまり、僕が美咲さんに対面したあの時、『彼女』と瓜二つな美咲さんを見て、僕はろくに瞬きもせず落涙し、呆然としていたらしい。差し出したハンカチを受け取る様子も無くただただ放心していた僕を、美咲さんは取り敢えず友達の待つこの教室に連れて戻ることにしたのだという。

 僕は、ホントに気絶していたと言っても過言で無いほどに放心していた。白いペンキをぶっ掛けられたみたいに頭が真っ白になって、ジェンガがガラガラと倒壊するように、寸時、記憶のピースがバラバラに吹っ飛んだ。美咲さんに支えられながらこの教室に到着して、教室にいた友人が彼女を「ミサキ」と呼ぶまで、僕は何も考えられなかった。

 ミサキ――そう、彼女は『彼女』ではなく『美咲』だった。落胆でも喜びでもない感情に、僕はただ胸を撫で下ろすだけだった。

 ほんの数分前の出来事を、僕は借りたタオルをしずしず渡しながら反芻する。

「…………」

 長い間を空けても、僕は彼女の質問に答えることが出来なかった。うら若い女性に泣き顔を見られて恥ずかしいとか、そういった平均的高校生男児の幼稚なプライドのような理由では決してない。僕の心の筐底で、自分だけがこの過去を抱えていきたいという小さな独占欲と、自分の無能さと残酷さ、不甲斐無さを知られてしまうという大きな羞恥心が、過去を流露させる事を拒む堤防となっているからだ。

 ざあざあ、と。ひたすら降りしきる梅雨の音響が教室を包む。気まずさが教室に飽和するように、窓に大気中の水蒸気が結露して、静寂の雫と化してゆらり、ゆらゆらとガラスを滑る。

 その沈黙を破ったのは、一向に事情を把握出来ていない女軽音部員(虚)だった。

「う~ん、ミサキ~。あいてになにかいいたくないじじょうでもあるんなら、きかないのがオトナじゃない~?」

 どこか間の抜けている発言に、しかし僕は救われたと感じる。ただ不思議に思う事は、彼女の声には一切の高低が無いことぐらいで。

「…………そうね」

 腰を上げ、美咲さんは髪を揺らしながら僕の正面に立ち、綺麗に足を揃えた。彼女の赤い上履きのつま先に視点を合わせていた僕は、目が少し腫れているのも相俟って、結果的に、彼女の体を舐めるように視線を這わせてから彼女の顔を仰ぐ形となった。意図せずして。――依然としてその顔は、やはり『彼女』と瓜二つ。

「私にも唐突に沈んでしまう時期というものがあります。確かに、自身の立場で考えてみると、執拗に訊かれる事は、それが全体なにであろうと、あまり良い気分ではありませんね……」

 斟酌が足らずすみませんでした。美咲さんはビジネスマンのように綺麗に腰を折り、唐突に謝罪をした。

「…………えっ?」

 意外と近くに突き出された旋毛に視線を奪われ、僕は思う。それは明らかに冤罪であると。

 頑なに黙秘を貫いていた僕だけど、まさか謝罪してくるなんて想像も予期もしていなかった。無実の罪である、というか、発生すらしていない罪を贖われると、こちらの方が謝罪心を燻ぶられてしまう。

 低頭し続ける美咲さんに慌てて頭を上げるように説得する僕、だったのだが、

「いやっいやいや、ななっ何も、一切、誤る必要は無いですよ! 頭を上げてください! 僕の勝手な勘違いでしたから! ちょっと、いや、あまりに沙紀と似てたもんですから、思い出し泣き? を…………」

「沙紀さん、……ですか?」

 首を傾げると共に揺れる一筋の髪が僕の右足にやわと触れた。という現実逃避を間において。

 …………思いつく限りの説得を口に任せていたら、『彼女』の名前を吐露してしまうという失態を犯してしまっていた。

「あ……、え……っと、…………はい」

 首肯。

 この時ほど、自分の言い訳技能力の無さを呪った事は無い。初めて妹が眩しく見えた。どす黒い光線で。

「そうですか……」

 そう零し、唐突に美咲さんはようやく頭を上げて腕を組む。思案顔になって、しばし白い天井を睨んでいた。

 僕はといえば、いっその事全て話してしまえという自虐的な考えが暴走機関車のように息巻いて、どこぞのスリー九よろしく頭の中を縦横無尽に駆け巡っていた。言い訳が思いつかないどころか、言い訳をしようとも思わなかった。暴走機関車を止めるモノは、僕の脳内には存在しない。

 何十秒か経ち、僕が全て話してしまおうと、暴走機関車の汽笛を脳内に響かせていると、

「わかりました。それでは、その話はコレで手打ちです」

 美咲さんは、パンっ、と拍手を鳴らし、自分の膝小僧に手を当てて柔和に微笑んだ。

 過去の追及から逃れることのできたはずの僕は、何故か安心の吐息よりも不審の疑問の方が口を吐いて洩れていた。

「え、なんで……?」

 気にならないんですか、ととつとつと付け加える。美咲さんは僕の言及に別段驚いた様子も見せず、スラスラと答えた。

「どうしてって、貴方はその子の事……沙紀さんの事は話したくはないのでしょう? でしたら、聞かないというのが筋ではありませんか?」

 僕はふと、保母さんのような温柔を充塞した言葉に諭された気持ちになる。安心ではない心地よさが、疑心が晴れた事によってできた穴に染み込み広がっていくように、不思議と僕の心を満たしていった。

 僕が目をしばたたかせていると、「それさっき私が言った~」と美咲さんの友達が椅子をがたがたと揺らし始めた。彼女の気持ちが顕現したように、窓枠の向こうの雨音が音量を上げる。それらの雑音で、僕は浸るような夢から覚め、それを掃うように自身のかぶりを振る。一瞬、ほんの一瞬だけ、刹那的に、この目の前の女性が沙紀に見えたのだ。透きとおった声音、暖かく柔らかい微笑み、諭すような口調。全てが、沙紀という影に重なって見えた。

 それを隠すために、僕ははきはきとした声で遅くなった返答をする、ように努めた。

「ありがとう、ございます……」

 なぜ敬語。自身に突っ込む。

 しかしそう言うと、美咲さんはそれについては言及せず、困ったように緩く笑った。

「お礼を言われるような事はしてませんよ?」

 言われてみればそうなのだが――まさか沙紀を演じてくれたから、と言う訳にもいかなかった。しかし案外、この女性なら喜んでくれるかもしれない。

 僕が、にやにやと笑う事でしか返事をすることが出来ずにいると、美咲さんの隣にいた女の子が、またも椅子を揺らしながら、

「ミサキ~、ほんだいほんだい~」

 急かすようにそう提案した。

 また救われたな、と心中で感謝しながら、本題とはなんだろうかと美咲さんを見る。すると、美咲さんは何か思い出したのだろう、餅を搗くようにポンと手を鳴らした。今頃気付いたが、未だに前傾姿勢になっている美咲さんは、教室の地べたに座っている僕のアングルからは全体的にアップになっていた。部分的にも。特に胸――――

「そうでした。私、貴方に聞きたい事があったんです」

 そう美咲さんに切り出されてから、僕は美咲さんに呼び出されていたことを思い出す。

 そういえば、なぜ僕は呼び出されたのだろうか。一見、何事も自身の辣腕で解決していそうな私生活を想像させる彼女に、僕は何を訊かれるのだろうか。僕なんかで力になるのだろうか。

 そう心配をして、僕はどんな顔をしていたのだろう。美咲さんは苦笑いしながら、

「そんなに大きい事じゃないですから、肩の力を抜いてください。こっちが緊張しちゃいますよ」

 僕にそう気遣ってくれた。

 嘘とは無縁のような笑顔に、僕は安心しきって肩を緩める。

 いや、緩めてしまったのだ。

「大した事じゃありません。ただ……」

 息を吸う音が、妙にその時だけはっきりと聞こえた。

 美咲さんは一秒ほどためてから、こう、告白した。


「ただ私は、貴方の御友達、……双見龍二さんに御付き合いしている方がいらっしゃるのか。それを聞きたかっただけですから」


 まるで他人事のように軽く言い放った美咲さんに、僕は今日何度目かも分からない雷に撃たれていた。そろそろ口腔から電撃を砲撃できるかもしれない。

 彼女の隣で、ケラケラと笑いながらガタガタと椅子で振り子運動する女軽音部員(笑)が、ゆらゆらとアスファルトに滞空する陽炎のように、視界の隅でただただ揺れていた。

 正直、イラッとした。




七月三日――タイトル「友達」

 今日、友達が出来た。

 トランプで遊んだ。

 一緒にテレビを見た。

 とても楽しかった。

 明日もくるってやくそくしてくれた。

 すごくすごく楽しみだ。


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