第三話「サイノウノタイカ」
小さな雨粒が選択教室の窓を叩き始める。
「飛び降り?!」
「まあ昨夜の雨のおかげで結構土がぬかるんでたんで、軽傷程度で済んだらしいんだがな。さっき救急車が来て、ちょっとした騒ぎになった」
僕が寝ている間にそんな事が起きていただなんて、なんで誰も起こしてくれなかったんだ。
「マジかよ……っ! なんで、そんなこと……」
自然と、自分の両手に力が入る。折れんばかりに奥歯がぎりと軋む。
「さあな」
余りに素っ気無く答える龍二に苛立ちを覚え、睨む。それでも龍二は平然としている。尚の事苛ついた。
それより、何故そいつは飛び降りなんて事をしたのか。……誰かに苛められていた、とか。でも、蘿蔔学園にいじめは無い。少なくとも、俺が今まで過ごしてきた間、そんなオオゴトはなかった筈だ。僕が把握出来ていなかったというケースは、考えたくない。
いや、原因よりも先に、
「だ、誰だったんだ」
力む顎をわななかせながら、僕は問う。
「俺も未だに信じられんが、あいつだ。斎笹簓。五時間目の授業中に屋上から飛び降りたらしい。」
「――――っ!」
一瞬、視界が真っ白に染まった。目前で雷が落ちたのかと錯覚した。
龍二の口から出た思わぬ登場人物に、僕は絶句してしまう。
斎笹、簓? なんで、アイツなんかが。
龍二は微笑を携えてさらに続ける。
「信じられないって顔だな。まあ俺も信じられ…………いや、そうでもないか」
ふと思い出したように、癖なのか、龍二は自身の顎を撫でながらそう発言する。
「それ、どういう意味だよ」
「ん? お前にしては知りたがるな、女に興味持つなんッ――っ!」
頬を叩いた音は、雨が窓を叩く音より強く教室に響いた。
「いいから教えろ!」
僕が発した、叫びに近い訴えが、空の教室に幾重も反響する。
無意識に手が出てしまっていた。だが、そんな事は関係ない。
真っ直ぐ龍二の顔を凝視する。正確には、その唇に。
「……スマン、はぐらかして悪かった。……その、アレだ、ストレスってやつだ。斎笹の家は貧しいんだがな、ちょうど先月くらいか、親父に生活費を丸々持っていかれちまったらしい。それで、その親父さん金持ったまま行方不明、というか逃亡しちまって、そのまま失踪。妹も――ああ、アイツには妹がいるんだがな、その妹も貧乏ってだけで苛められてんだ。とまあ、そんな不幸の重なりで、精神的にまいっちまってたんだ。改めて考えると、確かに飛び降りたとしてもおかしくない精神状態ではあったな」
お尻だけ机にもたれて話しながら、龍二はずっと窓の外を眺めていた。
なんだそれ。今日の昼もあんなに元気そうだったってのに。
龍二は目だけを動かして僕の顔を一瞥した後、何故か失笑した。
「信じられねぇって顔してんな。まあ確かに、一見普通で平凡な女子高生に見えるがな。だが、校内じゃ結構有名な話だぞ、今の」
有、名?
「じゃあなんで皆助けてやんねーんだよ!」
「本人が良いって言うんだよ。大丈夫だからきにしないでってな。第一、俺らに何が出来るよ? 生活費渡すか? 親父とっ捕まえてやるのか? 妹苛めてる奴ら一人一人に『いじめはよくないぞ』って説教するのか?」
いつの間にか、龍二は覗き込むようにして僕を見ていた。
「…………っ」
それは、ハッキリ言って無理だ。
確かに、親父を探すこと以外は可能不可能の話で言えば、可能だろう。
でも、他人の家庭事情に関わるなんて言語道断。そういうのは本人たちのなかで解決しなければならないし、第一それは解決という意味を成さない。本人たちが変わらなければ、いくら周りが助けてやったところで、またどこかで同じ事を繰り返すだろう。――でも、
「それでも、一緒に遊んでやったり、帰りにメシ奢ってやったり。それぐらいなら出来るんじゃないのか? それこそ、陸上部の奴らは放課後練習に誘ったりとか」
そうだ、ストレスの原因を直接解決出来ないなら、間接的にストレスを発散させてやることくらいは出来るはずだ。
しかし、この提案は龍二の失笑しか得るものが無かった。
「ハハッ、お前笑えるな、それ」
「っ! どこがだよ! それぐらいのことなら出来るだろ!」
僕が真面目に話しているというのに、龍二は机の上に腰を下ろして、また失笑した。
「お前、そこまで貧しいヤツに遊べる時間なんてあると思うのか? なんでヤツは放課後練習しないのか? バイト尽くしだよ、アイツは。帰った後も家事が残ってるしな。一緒に遊ぼうぜーなんて誘ったら、イヤミにしか聞こえないだろうな、アイツからすれば」
「そうっ、だけど……」
龍二に悟されて、否定も肯定も出来ない自分に腹が立つ。
だから皆は助けないのだ。助けが助けにならないから。彼女自身もそれを望んでいない。いや、望めないのだ。
「止めとけ、アイツを救おうとするなんて。まあ、俺らにできる事があるとしたら、会ったときに挨拶してやる事と、陸上に励むアイツを応援してやることぐらいだな」
龍二の言うとおりだ。今は精一杯応援してやることが、唯一斎笹のためになるんだ。
「あんまり熱くなるな。まあもっとも、お前は『飛び降り』と聞いてアイツの事を思い出してたん――っと」
一気に感情温度が沸点に達した。
また手が出てしまったが、今度は避けられてしまった。
「その話は、今、関係ないだろッ!」
僕の大声に、龍二は冷や水にうたれたように先程まで緩みきっていた頬を引き締めた。
「あ、ああ、スマン。ちょっと言い過ぎたな。……俺も今日あんまり調子よくないな。改めて謝罪させてもらう。すまなかった」
龍二は手のひらを額に当てた後、こちらに身体を向けて頭を垂れた。
「……いいよ。僕も龍二の言う通り、少し熱くなりすぎた」
僕も龍二と同じように頭を下げる。
ダメだな、僕。まだ吹っ切れてなかったみたいだ。もうほとんど忘れかけてたのに。
少ししてから、どちらともなく顔を上げた。
頭を上げた龍二の顔が、心なしか先程よりも少し寂しげに見えた。
「いや、お前はマトモだよ。元々斎笹にはちょっと腹が立ってたんだ。恐らく、今のお前と同じように」
龍二の、ちょっとした告白。
どういうことだ? 龍二が斎笹と何らか関係を持っていただなんて、全く知らなかったけど……もしかしたら、龍二も斎笹を救おうとしたのかもしれない。たぶん、だから腹が立っていたんだと思う。自殺するにまで追い込まれていたのに、誰にも全く相談しなかったことに。……あくまで僕の推測だけど。
龍二と二人で選択教室を出る。選択教室は、僕が鍵を閉めようとした所に軽音部員と名乗る女子生徒が現れ、「開けといてダイジョブですよ~、ココ使うんで~」と妙にふわふわした感じに言うのでその子に預けておいた。
教室に戻ると、やはり残っているのは龍二と僕の鞄だけだった。
「まあ、なんだ。軽傷ですんだらしいし、アイツは結構丈夫なほうだ。だから、あんまり気にするな」
丈夫だと言った龍二の方が、丈夫では無さそうだった。
「そう、だな。よし、僕らも帰ろうぜ!」
龍二が沈みかけているのを察して、僕は過度に強くそう返した。
自分の鞄を取ったついでに、龍二の鞄も取ってやる。龍二の席は僕の一つ後ろだ。
「ああ、ソレなんだがな。俺、帰りちょっと寄ってくとこがあってな、だから先帰るわ」
僕が放った鞄を受け止めながら、龍二はそんなセリフを吐く。
……やっぱり、大丈夫なのは龍二の方だったらしい。
「ああ、別にいいけど――って、そういえば僕も放課後用事あるんだった……」
思い出される今日の昼休憩。
「そうか、ならここで別れとくか」
「ああ、また明日」
じゃあなとだけ残して、龍二は肩越しに軽く手を振り、どこか足早に教室を出て行った。
「さーて、どうする」
放課後。ついに来てしまった。
小一時間ほど前までは、思い返すと恥ずかしくなるほどはしゃいでいたけど……正直、今はそんなに期待していない。第一、奏は『ちょっと、会いたがっている』と言っていたのだ。
もし僕の予想通りその相手が僕に告白するとしたなら、少なくとも『ちょっと会いたい』ではないと思う。『物凄く』と言っても別段おかしくも無い筈だ。
だけど、相手はあくまで『ちょっと』と言ったのだ。きっと、何か些細な相談か何かだろう。
そう考えたら、先程まで机の一点を見つめていた視野が、やけに広くなった気がした。
そうだ、何か相談があるんだ。
なぜ僕である必要があるのか、とかは全く見当もつかないけど、とにかく行ってみるしかない。
教室の戸締りをして、日直でもないのに鍵を職員室へ持って行く。廊下に響くすたすたと擦れるシューズの音が、糸を紡ぐようにスルスルと耳に入ってきた。
ふと廊下の窓に目を向けると、霧のような小雨がガラスを濡らしていた。
「…………梅雨入りか」
細やかな雨の粒子が、来週到来する夏の匂いをうっすらと運んでいた。
五月十日――タイトル「楽しい」
ここにきてからちょうど一ヶ月たつけど、ここの生活はあんがい楽しい。
テレビはあるし、なによりお母さんがいる。
ここに来てから、お母さんといっしょにすごすことがおおくなった。
前まではオシゴトがいそがしくてあんまりしゃべれなかったけど、ここに来てからはたくさんしゃべるようになった。
もっぱらテレビの話ばっかりだったけど、僕にとってはナイヨウなんかカンケイなかった。ただお母さんと話せればそれでよかった。
それだけでよかった。