第1話 役立たず
夜明け前の岩陰族の集落には、まだ冷たい霧が這うように残っていた。焚き火の熾火が赤く息をするたび、煙が薄く立ち上り、獣皮の天幕の隙間から朝焼けの気配ににじんで消えていく。
集落の広場に、若者たちが次々と集まってくる。手には磨かれた石槍、腰には獣皮の袋。今日は、北の森で秋の大移動を始めた大鹿の群れを追う、部族総出の大狩りの日だった。
「トガ、お前は留守番だ」
そう言い放ったのは、族長の長子であるガイだった。日に焼けた肌に、隆々とした肩。十七の若者の中でも、すでに大人の狩人として一目置かれている男だ。彼の一言に、周囲の若者たちがどっと沸くように笑った。
「またかよ、トガ」
「留守番って言うか、そもそも狩りに連れて行ったって足手まといだろ」
「せめて薪割りぐらいはやっとけよな」
囲むように笑う若者たちの輪の中心で、トガはただ俯いていた。反論する気力すら、もう湧いてこない。
トガは、この岩陰族の中で「役立たず」という呼び名がほとんど本名のように定着している青年だった。年齢は十七。同年代の誰よりも足が遅く、誰よりも槍の腕が悪い。獲物を狙って投げた石槍が的から大きく逸れるたび、周囲からため息と失笑が漏れる。それがこの三年間、ずっと繰り返されてきた光景だった。
三年前――トガの記憶は、そこから始まる。
森の外れで、傷だらけになって倒れていたところを、当時まだ若かった族長に拾われた。それ以前の記憶は、驚くほど曖昧だ。自分がどこで生まれ、どんな暮らしをしていたのか、まるで思い出せない。ただ、頭の奥の方に、この部族の誰も知らないはずの断片的な知識だけが、澱のようにこびりついていた。
見たこともない道具の形。物の性質。火のはぜる音の意味。刃物の角度と切れ味の関係。
それらは知識というより、もっと感覚に近いものだった。まるで、かつて誰かがそれを見つめ、理解し尽くした記憶の残り香が、自分の中に染み込んでいるかのような。
「聞いてんのか、トガ」
ガイの声で、トガは我に返った。
「あ……ああ、留守番、するよ」
「はっ。返事だけは素直だな。せいぜい、火の番と皮なめしでもしてろ」
そう言い残し、ガイを先頭に、狩人たちの一団は森の方角へと歩き去っていった。土を踏みしめる足音と、槍の穂先が触れ合う小さな金属質――いや、石が触れ合う硬質な音が、次第に霧の向こうへと遠ざかっていく。
広場には、老人と、幼子と、そしてトガだけが残された。
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誰もいなくなった広場の隅で、トガはひとり、火の番をしながら地面に転がっていた欠けた黒曜石のナイフを拾い上げた。
以前、狩りの練習で刃こぼれさせてしまい、族長に「使い物にならん」と放り出されたものだ。黒曜石特有の、鋭くも脆い光沢を持つ刃は、確かに刃こぼれのせいでその輝きを半分失っていた。
トガはそれを、日の光にかざしてみる。
「……刃の角度が、甘いな」
無意識に、そんな言葉が口をついて出た。誰に教わったわけでもない。だが、まるで最初からそう知っていたかのように、指先が刃の欠けた部分をなぞる。
「もっと薄く……鋭角に打ち直せば、切れ味は戻る。いや、戻るどころか――」
その時だった。
視界の端に、見たこともない光の粒子のようなものが、ちらちらと舞い上がった。それは文字にも、模様にも見える不思議な光で、まるでトガの意識そのものに直接語りかけてくるようだった。
**《原初の目:対象=黒曜石ナイフ 理解度=低 強化倍率=×3》**
「な……っ」
トガは思わず後ずさり、握っていたナイフを取り落としそうになった。だが、かろうじて指に力を込め、握り直す。手のひらに伝わる感触が、明らかにさっきまでと違う。
ナイフの刃先が、淡く、しかし確かに光を帯びていた。
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「……なんだ、これ」
トガは呆然と、自分の手の中にあるナイフを見つめた。周囲を見渡す。誰もいない。幼子たちは天幕の中で遊んでいるし、老人たちは焚き火のそばでうたた寝をしている。この不思議な現象に気づいているのは、トガだけのようだった。
恐る恐る、傍らに転がっていた丸太――薪割りの練習用に置かれている、太い倒木の切れ端に、刃を当ててみる。
これまで何百回、何千回とこの丸太で薪割りの練習を繰り返してきた。刃こぼれしたナイフでは、表面に浅い傷をつけるのがせいぜいだった。
だが。
――スッ。
まるで、水面に指を差し入れるような、あまりにも滑らかな感触とともに、刃は丸太の中へと深々と吸い込まれていった。トガは思わず手を離しそうになる。
丸太は、まるで最初からそう設計されていたかのように、綺麗な断面を見せて、真っ二つに割れていた。
「……嘘、だろ」
トガは震える手で、もう一度ナイフを見つめた。刃こぼれしていたはずの黒曜石は、今や新品のとき以上の鋭さを取り戻し、うっすらとした光の膜のようなものを纏っている。
頭の中に、これまで聞いたことのない、しかし不思議と懐かしい響きを持つ声が流れ込んできた。
**《原初の目:対象への理解を深めると、強化倍率が上昇します》**
「理解……を、深める……?」
トガは呟きながら、手の中のナイフを見つめ続けた。これが自分に与えられた力なのだとしたら――役立たずと呼ばれ続けたこの三年間は、いったい何だったのだろう。
いや、違う。今はそんなことを考えている場合ではない。
トガの胸の奥で、これまで感じたことのない小さな炎のようなものが、静かに灯り始めていた。それは狩人としての誇りでも、部族の中での序列を覆したいという野心でもない。もっと純粋な、子供が初めて何かを「知る」ことの喜びに似た感覚だった。
「もっと、知りたい」
トガは丸太の破片を拾い上げ、断面をじっと見つめる。木目の走り方、繊維の密度、乾燥の具合――これまで気にも留めなかったはずのことが、急に鮮明な意味を持って目に飛び込んでくる。
その日、狩りから戻ってきた若者たちの誰も、留守番をしていたはずのトガが、広場の隅で日が暮れるまでずっと、様々な石や木片を拾い集めては、じっと見つめ続けていたことに気づかなかった。
だが、その静かな観察の一つひとつが、後にこの太古の大地の歴史そのものを塗り替えていく、最初の一歩だったのである。
**――第1話 終――**




