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第9話:崩壊する聖域と、終わらない賛美歌

コンクリートの地下室に、鈍い肉と骨のぶつかる音が響き渡った。

 左腕から夥しい血を流す達也たつやは、痛みを怒りでねじ伏せ、起き上がろうとする遠野健司とおの けんじの顔面に、容赦のない右ストレートを叩き込んだ。

「ガハッ……!」

 健司の鼻柱が砕け、鼻と口から鮮血が噴き出す。彼の体は再びコンクリートの床に叩きつけられたが、握りしめた大型カッターナイフだけは決して手放そうとしなかった。

「てめえの狂った頭ごと、叩き割ってやる……っ!!」

 達也は獣のように吠え、健司の上に馬乗りになった。

 振り上げられる健司の凶刃を、流血する左腕で強引に払い除け、右手で何度も、何度も健司の顔を殴りつける。

 ボキッ、という骨の折れる嫌な音が響き、健司の顔は原型を留めないほどに血まみれに腫れ上がっていった。普通の人間の神経ならば、とうに気絶しているか、痛みで泣き叫んでいるはずの凄惨な暴力だった。

 だが。

 達也の拳が何度顔面を捉えようとも、健司の喉から漏れるのは、苦痛のうめき声ではなく、クツクツという不気味な「笑い声」だった。

「……あははっ……悪魔め……」

 健司は、血の海に沈みながら、焦点の合わない目で達也を見上げた。

「君の……暴力なんかじゃ、僕たちの愛は、壊せないよ……」

 ――もう思い出すことさえ もう感じることもさえもできないままで。

 健司の意識は、肉体の痛覚を完全にシャットアウトしていた。

 殴られるたびに、彼の脳内では「姫を守るために悪魔の拷問に耐える騎士」という自己犠牲のヒロイズムが、麻薬のように彼を陶酔させていく。痛みさえも愛の証明であり、理沙りさへの誓いだった。

 彼は血にまみれた顔で、コンクリートの天井を――彼にとっては美しいチャペルのドームを――うっとりと空見上げていた。

「死ねええっ!!」

 達也がトドメの一撃を振り下ろそうとした、その隙を突き、健司の右手が蛇のように動いた。

 カッターの刃が、達也の脇腹を浅く切り裂く。

「グッ……!」

 達也が痛みに顔をしかめて体勢を崩した瞬間、健司はゴキブリのような生命力で身をよじり、達也の下から這い出した。

「邪魔をするな!! 僕は理沙と、永遠の誓いを立てるんだ!!」

 健司は、血走った目で理沙が縛り付けられているパイプ椅子へと這いずっていった。

「や、やめろ……来るな……っ」

 意識が朦朧としていた理沙は、血だるまになって這い寄ってくる健司の姿に、声にならない悲鳴を上げた。

 その顔はもはや人間のそれではなかった。悪魔は達也ではない、目の前で微笑むこの男こそが、正真正銘の悪魔だ。

「……好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙……」

 健司は、血塗れの指先で、理沙の冷え切った足首に触れた。

「読んだ後に……微笑みながら君がくれた言葉は……『I LOVE YOU』……」

 健司は、自分の血で真っ赤に染まったカッターナイフを、今度は自分自身の首元へとゆっくりと向けた。

「理沙。もうすぐだよ。僕が先に逝って、君を迎えに行くから。……鳴り響くチャペルで、待っていてね」

 彼は本気だった。あの乱暴な男から理沙を物理的に引き離せないのなら、ここで自らの命を絶ち、理沙も同じように連れて行く。それが、現世の呪縛から逃れる唯一の方法だと、完全に思い込んでいたのだ。

「させねえよ……理沙には指一本、触れさせねえ!!」

 達也が、背後から健司の首元に腕を回し、力任せに引き倒した。

 同時に、健司の右手を渾身の力で踏みつける。

 メキッ、と指の骨が砕ける音がし、ついに健司の手からカッターナイフがこぼれ落ちた。

「ガァァァッ!!」

 達也はカッターナイフを蹴り飛ばし、健司の背中を膝で完全に押さえ込んだ。

「理沙! 今行く、待ってろ!!」

 達也は、暴れる健司を片手と膝で床に釘付けにしたまま、蹴り飛ばしたカッターナイフを拾い上げ、理沙を縛り付けている結束バンドへと刃を差し込んだ。

 バチン、バチンと太いプラスチックの帯が切断される。

 最後に、薬指に食い込んでいた錆びた針金を、自分の血まみれの指先で強引に解きほぐした。

「……た……つ、や……」

 拘束が解かれた理沙の体が、崩れるように前へ倒れ込む。

 達也は健司から手を離し、理沙をその腕にしっかりと抱き留めた。

「理沙! しっかりしろ! 俺だ、もう大丈夫だ!!」

 理沙の体は、氷のように冷たかった。唇は青ざめ、呼吸は限界まで弱まっている。

「……達也……あ、ああ……よかった……」

 理沙は、達也の胸の温もりを感じ、凍りついた目からボロボロと大粒の涙をこぼした。

 恐怖、寒さ、そして愛する人が自分を見つけ出してくれたことへの安堵。すべての感情が入り混じり、理沙は達也のダウンジャケットを弱々しく握りしめて泣きじゃくった。

「ごめんな、遅くなって……俺が、絶対にお前を連れて帰るから」

 達也は自分のコートを脱ぎ、理沙の体を包み込んだ。

 彼自身の脇腹と左腕からは、まだ血が流れ続けているが、そんなことはどうでもよかった。理沙が生きて自分の腕の中にいる。それだけで、達也の心は救われていた。

 ――しかし。

 床に押さえつけられていた健司は、その光景を見て、またしてもクツクツと笑い始めたのだ。

「……あははっ……ああ、理沙……なんて美しいんだ……」

 健司の目は、完全に常軌を逸していた。

 理沙が達也の胸で泣いている姿。

 それは、普通なら「恋人同士の再会」に見えるはずだ。だが、健司の目には、理沙が『僕との結婚式を邪魔されて、絶望の涙を流している』ようにしか見えなかった。

 いや、それだけではない。

 理沙は僕の『I LOVE YOU』を受け取って、感動して泣いているのだ。あの悪魔に無理やり抱きしめられながらも、彼女の心は、僕に向かって「愛している」と叫んでいる。

 健司は、そう確信していた。

 ――届かぬ思い伝えられずにいた。

 ――震える気持ち 押えられずにいた。

「君の震える気持ち、ちゃんと分かっているよ……理沙。泣かないで、僕たちの心は、もう繋がっているから……」

 健司は、砕けた指で床を這い、再び理沙へと近づこうとした。

 その執念は、もはや悪鬼のそれだった。

「てめえ……いい加減にしろォォッ!!」

 達也が、立ち上がり、健司の顔面を蹴り上げようと足を振り上げた、その瞬間。

 ――ウゥゥゥゥーーーーーーッ!!

 廃ビルの外から、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。

 一つではない。何台ものパトカーのサイレンが、猛吹雪の夜を切り裂いて急接近してくる。

 達也が警察に通報した後、理沙のスマートフォンのGPSの最終地点と、達也が向かった方向から、ようやく警察がこの再開発エリアの廃墟群へと当たりをつけ、大部隊を急行させたのだ。

 キュルルルッ! と雪道を滑るようにして、廃ビルの周囲に数台のパトカーが急停車した。

 赤と青の回転灯の光が、地下室の小さな換気窓から、吹雪と共に室内に乱反射する。

「ここだ! 地下に人がいるぞ!!」

 大勢の警察官の怒号と、慌ただしい足音が、階段をドカドカと駆け下りてきた。

「警察だ! 武器を捨てろ!! 動くな!!」

 強力な懐中電灯の光が、真っ暗な地下室を真昼のように照らし出した。

 そこに映し出されたのは、壁一面の赤い狂気の手紙、血だらけの達也、気を失いかけている理沙、そして、顔面を赤く染めて床を這う健司の姿だった。

「保護しろ! 救急車を急がせろ!」

 数人の警察官が達也と理沙に駆け寄り、毛布をかける。

 同時に、別の数人が健司の上に飛びかかり、彼の手を背中に回して強引に手錠をかけた。

「……確保! 対象者を確保しました!!」

 ガチャリ、という冷たい金属音が地下室に響く。

 終わったのだ。

 達也は、警察官に支えられながら、ようやく肩で大きく息を吐き出し、そのままその場に崩れ落ちそうになった。理沙はすでに安心から完全に意識を手放し、警察官の腕の中で眠るように目を閉じている。

 しかし。

 床に押さえつけられ、手錠をかけられた健司は。

 暴れることも、抵抗することもなかった。

 彼は、パトカーの赤と青の回転灯の光が、地下室の壁にチカチカと映り込むのを、うっとりとした表情で見つめていたのだ。

「……ああ……綺麗だ……」

 健司は、血塗れの唇を吊り上げ、恍惚と微笑んだ。

 警察のサイレンの音は、彼には「祝福のウェディングベル」に聞こえていた。

 パトカーの赤色灯は、あの日、大通公園で見た「ホワイトイルミネーション」の輝きに。

 そして、彼を取り押さえる警察官たちの怒号は、二人の結婚を祝う「ゲストたちの歓声」に変換されていた。

 ――あれはもう懐かしい 雪に消えたクリスマス。

 そうだ、今日は僕たちの、雪に祝福されたクリスマスなんだ。

 悪魔(達也)の呪縛は解け、大勢のゲスト(警察)に祝福されながら、僕たちは永遠の愛を誓った。

 理沙は、感動して気を失ってしまっただけだ。僕たちの純愛は、ついに完成したのだ。

「……好きだ好きだ好きだ好きだと……書いた手紙……」

 健司は、警察官に両脇を抱えられ、引きずられるようにして立ち上がらされながらも、焦点の合わない目で理沙の方を見つめ、静かに歌い続けた。

「読んだ後に……微笑みながら君がくれた言葉は……」

 完全に崩壊した聖域で。

 物理的な脅威が取り除かれたにもかかわらず、その場にいた達也も、警察官たちも、健司の底知れぬ狂気にあてられ、背筋に這い寄るようなおぞましい悪寒を感じていた。

 言葉が通じない。現実が届かない。

 彼の頭の中では、今この瞬間も、最高にハッピーな『I LOVE YOU』が鳴り響き続けているのだから。

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