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第8話:雪に消えたクリスマスと、悪魔の襲来

吹き荒れる猛吹雪が、札幌の街を白一色に塗り潰していく。

 視界は数メートル先すらぼやけ、顔に叩きつける雪粒は凶器のように冷たく痛い。達也たつやは、凍える手で理沙りさのスマートフォンを握りしめたまま、膝まで積もった雪をラッセルするように駆けずり回っていた。

「どこだ……どこに隠したんだ、遠野!!」

 達也の喉は枯れ、吐く息は苦しげな白煙となって強風に散っていく。

 理沙のスマホが落ちていた場所から、放射状に周囲を捜索して小一時間が経過していた。この気温の中で、もし暖房のない場所に放置されていれば、理沙の命は確実に危険に晒される。

 達也は、必死に思考を回転させた。

 遠野健司とおの けんじという男の異常性は、これまでの行動で痛いほど理解している。

 あいつは、理沙を「愛している」と思い込んでいる。ただの誘拐犯や強盗とは違う。理沙を汚い場所に隠すはずがない。あいつの歪んだ世界観の中で、理沙を迎え入れるにふさわしい「特別で、誰にも邪魔されない場所」を選ぶはずだ。

 この周辺で、完全に人目がなく、密室を作り出せる場所。

「……まさか」

 達也の脳裏に、一つの場所が閃いた。

 ここから数ブロック先。再開発エリアに指定され、すでに周囲の店も住民も立ち退きを終えた、取り壊し寸前の古い商業ビルの廃墟群だ。あそこなら、電気も水道も通っておらず、夜になればホームレスすら寄り付かない完全な死角になる。

「理沙……頼む、無事でいてくれ……っ!」

 達也は、雪に足を取られながらも、最後の力を振り絞って廃墟群へと向かって走り出した。

 ――同じ頃。

 廃ビルの地下室では、赤いキャンドルの炎が、凍てつく冷気の中で弱々しく揺らめいていた。

 コンクリートの床に横たわった健司は、縛り付けられた理沙の足元で、うっとりと目を閉じていた。

「……あれはもう懐かしい 雪に消えたクリスマス……」

 健司の青ざめた唇から、微かな歌声が漏れる。

 地下室の気温は氷点下に達しようとしていた。健司の体も芯から冷え切り、感覚はとうに麻痺している。だが、彼の脳内に展開される強固な妄想は、この死の冷気すらも「神聖なるクリスマスの雪」へと見事に変換していた。

 そう、僕たちの愛を邪魔していた現世の苦しみは、すべてこの美しい雪の中に消えていくんだ。

 孤独だった日々も、彼女が達也という悪魔に囚われて流した涙も。今、この真っ白な冷気の中で浄化され、懐かしい過去の幻影となって消え去ろうとしている。

「理沙……僕たち、やっと結ばれたね……」

 健司は、ゆっくりと目を開け、パイプ椅子に縛り付けられた理沙を見上げた。

 理沙の頭は力なく胸元に垂れ下がり、ピクリとも動かない。浅く、弱々しい呼吸だけが、彼女がまだ生と死の境界線にいることを示していた。錆びた針金が食い込んだ薬指からは、すでに血すら流れていない。

 ――幸せ溢れる 恋人達の輪の中に。

 ここは、世界で一番幸せなチャペルだ。壁一面に貼られた僕の『好きだ好きだ』という誓いの言葉が、赤い炎に照らされて、僕たちを温かく包み込んでくれている。

 健司が、理沙の凍りついた足首に頬をすり寄せようとした、その瞬間だった。

 ――ガァンッ!!!

 地下室へ続く重い鉄扉が、凄まじい音を立てて蹴り開けられた。

 ヒュゴォォォッ! と、猛吹雪の冷たい突風が地下室に吹き込み、床に並べられていた数十本の赤いキャンドルが一斉に掻き消された。

 わずかに残った炎の揺らめきの中、階段の上に立つ、大柄な男のシルエットが浮かび上がった。

「……理沙っ!!」

 達也の怒号が、地下室のコンクリートの壁に反響した。

 達也は、廃ビルの裏口にあった雪の積もった足跡を見逃さなかった。真新しい一筋の足跡が、地下への扉へと続いていたのだ。

 階段を駆け下りた達也の目に飛び込んできたのは、地獄のような光景だった。

 壁一面に貼り尽くされた、血のような赤いインクの紙片。ゴミで作られた不気味な祭壇。そして、その中央のパイプ椅子に縛り付けられ、ぐったりと気を失っている愛する理沙の姿。

「理沙! 理沙ぁっ!!」

 達也は階段を飛び降り、一直線に理沙の元へと駆け寄った。

 理沙の顔は雪のように白く、唇は紫色に変色している。達也が理沙の冷え切った頬を叩くと、理沙はわずかにうめき声を漏らし、うっすらと目を開けた。

「た……つ、や……?」

「そうだ、俺だ! 遅くなってごめん、今すぐ外してやるからな!!」

 達也は、理沙の手首を縛る太い結束バンドを引きちぎろうとしたが、素手ではどうにもならなかった。

「……何をしているんだ、君は」

 背後から、ひどく静かで、抑揚のない声が響いた。

 達也が弾かれたように振り返ると、そこには、ゆっくりと立ち上がる遠野健司の姿があった。

「てめえ……遠野ォォォッ!!」

 達也の全身の血が沸騰した。

 愛する女をこんな目に遭わせた元凶。理沙の日常を破壊し、命まで奪おうとした異常者。

 達也は理沙のそばから離れると、獣のような雄叫びを上げて健司に向かって突進し、その細い胸倉を両手で力いっぱい掴み上げた。

「よくも……よくも理沙を!! 殺してやる、てめえだけは絶対に生かしておかねえ!!」

 ドンッ! と、達也の重い右拳が、健司の頬に深々と突き刺さった。

 健司の体は宙を舞い、コンクリートの壁に激突して床に崩れ落ちた。

 口の端から血を流し、うずくまる健司。普通なら、これで恐怖に怯えるか、痛みに悶え苦しむはずだ。

 だが、健司は。

 折れた歯をペッと吐き出しながら、うつむいたまま、クツクツと笑い始めたのだ。

「……あははっ……やっぱり、君は悪魔だ」

 健司は、ゆっくりと顔を上げた。

 殴られた左頬は無惨に腫れ上がっているのに、その瞳には、一滴の恐怖も、痛みすらも存在していなかった。あるのは、神聖な儀式を汚されたことへの、静かで底知れぬ「怒り」と、自らが正しいと信じて疑わない「狂信者の光」だった。

「僕たちの神聖なチャペルに土足で踏み込んで。……君には、理沙の『心』が見えないのか」

「黙れ!! 狂人が、訳の分からねえこと言ってんじゃねえ!!」

「狂っているのは君の方だ!!」

 健司が、突然、地下室の空気を切り裂くような大声で絶叫した。

「理沙は、僕を選んだんだ! 僕の愛を受け入れて、微笑んでくれたんだ! なのに君は、暴力で彼女を縛り付け、僕たちを引き裂こうとしている!!」

 健司は、よろめきながらも立ち上がり、達也に向かって指を突きつけた。

「……好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。君は知らないだろう? 僕のあの愛の手紙を……読んだ後に、微笑みながら彼女がくれた言葉は……『I LOVE YOU』だったんだよ!!」

 健司の口から飛び出す、完全に現実と乖離した妄想の数々。

 恐怖のあまり引きつっていた理沙の顔を「微笑み」だと解釈し、拒絶の悲鳴を「愛の告白」だと思い込んでいる。

 達也は、目の前にいる男が、言葉が通じる人間ではないことを、肌で感じ取って戦慄した。こいつには、説得も、脅しも、暴力すらも通用しない。こいつの頭の中では、完全に『自分の世界』が完成してしまっているのだ。

「……頭のイカれた変質者が。お前の妄想なんざ知るか。俺は理沙を連れて帰る。邪魔するなら、息の根を止めてやる」

 達也は再び拳を握り締め、健司に向かって一歩踏み出した。

 その瞬間。

 健司の右手が、コートのポケットの中でギラリと光った。

「君こそ……僕たちの永遠の眠りを、邪魔しないでくれ」

 健司の手には、あの日、達也の自転車に仕掛けたのと同じ、太く鋭利な大型のカッターナイフが握られていた。

 カチ、カチ、カチと、錆びた刃が長く押し出される。

「あっ……達也、危ないっ!!」

 意識が朦朧としていた理沙が、最後の力を振り絞って叫んだ。

 健司が、異常なスピードで達也に向かって飛びかかってきた。

 体格では圧倒的に達也が勝っている。だが、死すら恐れない狂人の一撃は、理性のリミッターが外れており、信じられないほどの腕力を生み出していた。

「この野郎っ!!」

 達也はとっさに身をかわしたが、カッターの鋭い刃が、達也の厚手のダウンジャケットを切り裂き、左腕に深く食い込んだ。

「グァッ……!」

 鮮血が舞い、コンクリートの床に赤い飛沫を描く。

 健司は体勢を崩した達也にのしかかり、狂ったようにカッターナイフを振り下ろそうとした。

「消えろ! 消えろ消えろ消えろ!! 君さえいなければ、僕と理沙はずっと隣どおしでいられるのに!!」

 達也は、振り下ろされる健司の右腕を両手で必死に押さえ込んだ。

 刃先が、達也の眼球の数センチ上まで迫る。

 健司の顔が、達也の顔のすぐ上にあった。その瞳孔は異常に開き、口からは狂喜の泡が飛んでいる。

「……今はもう君のこと、捜す夢も見ない……」

 健司は、達也の首を絞め上げながら、恍惚とした声で歌い続けた。

「だって、君はここで死ぬんだから。……生まれ変わっても、もう二度と、理沙に触れないでくれ」

「ふざけ……んな……っ!!」

 達也は、左腕の激痛に耐えながら、渾身の力を込めて健司の腹を膝で蹴り上げた。

「ガハッ!」

 鈍い音とともに、健司の体が浮き上がり、達也の拘束から離れて床に転がった。

 達也は荒い息を吐きながら立ち上がり、左腕の傷を右手で強く押さえた。

 指の間から、止めどなく血が溢れ出している。

 だが、倒れた健司は、腹を抱えながらも、不気味な笑い声を上げながら再びゆらりと立ち上がろうとしていた。

 圧倒的な狂気。

 この閉ざされた氷点下の地下室で、終わりの見えない血みどろの殺し合いが続けば、間違いなく理沙の命が先に尽きる。

 達也は、背後で息も絶え絶えになっている理沙と、目の前で刃物を構えて笑う狂人を見比べ、絶望的な覚悟を決めざるを得なかった。

 こいつを、完全に「破壊」するしかない。

 理沙を救うためには、それしか道は残されていなかった。

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