第7話:鳴り響くチャペルと、凍てつく誓い
札幌の街の喧騒から完全に切り離された、住宅街の外れ。
再開発のために立ち退きが終わり、年明けに取り壊される予定となっている五階建ての古い廃ビルの地下室。そこが、遠野健司が理沙との「永遠」を迎えるために用意した、神聖なる場所だった。
電気の通っていないコンクリートむき出しの地下空間は、外気と変わらないほどに冷え切っており、吐く息は濃い白煙となって暗闇に溶けていく。
その部屋の中央には、どこからか拾ってきたサビだらけのパイプ椅子が一つポツンと置かれており、そこに理沙が縛り付けられていた。
「……うぅ、あっ、あぁ……っ」
理沙は、ガタガタと全身を激しく震わせながら、声にならない嗚咽を漏らしていた。
手首と足首は、太い結束バンドでパイプ椅子にきつく縛り付けられている。無理やり雪道を引きずられてきたため、コートは破れ、膝やすねには擦り傷から滲んだ血がこびりついていた。凍てつくような冷気がコンクリートの床から這い上がり、理沙の体温を容赦なく奪っていく。
だが、理沙を最も震え上がらせていたのは、寒さでも痛みでもなかった。
彼女の目の前に広がる、正気の沙汰とは思えない異様な光景だった。
地下室の壁一面には、あの日アパートのドアに貼られていたような、赤いインクで『好きだ好きだ好きだ好きだ』と書き殴られた大学ノートのページが、隙間なくびっしりと貼り付けられている。
そして、床には何十本もの赤いキャンドルが円を描くように配置され、不気味な炎を揺らしていた。キャンドルの円陣の中には、理沙が捨てたカフェラテのカップ、理沙が落としたレシート、理沙が講義室で使っていた消しゴムのカスなど、健司がストーキングの過程で収集した「理沙の生活の残骸」が、まるで神への供物のように恭しく並べられている。
「……理沙。寒くない? もう少しの我慢だからね」
暗がりから、健司がゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の顔は、揺らめくキャンドルの光に照らされ、不気味なほど穏やかな笑みを浮かべていた。
「ど、遠野くん……お願い、帰して……」
理沙は、凍りついた唇を震わせて懇願した。
「私、何でもするから……誰にも言わないから、だから……っ」
健司は、理沙の前に跪き、彼女の冷え切った頬を両手で優しく包み込んだ。
「帰す? どうして? ここが僕たちの新しい家なのに。……ほら、聞こえるでしょ? 祝福の鐘の音が」
健司が天井を指差す。
ヒュオオォォ……と、廃ビルの隙間から吹き込む冷たい北風の音が、不気味な唸り声を上げているだけだ。
――鳴り響くチャペルに 愛し続けると誓った。
「誰もいない、静かなチャペル。あの悪魔の手も、ここまでは絶対に届かない。僕と君だけで、永遠の愛を誓うんだ」
健司の瞳は、完全に現実から解離していた。
彼には、この凍えるようなコンクリートの地下室が、ステンドグラスから光が差し込む美しい大聖堂に見えているのだ。壁一面の狂気の手紙は美しい賛美歌に、吹き荒れる吹雪の音は鳴り響くウェディングベルに。
「いや……やだ、助けて……っ! 達也、達也ぁっ!!」
理沙は、最後の力を振り絞って絶叫した。
愛する恋人の名前を呼べば、彼が怒り狂って殺されるかもしれない。それでも、理沙の崩壊した精神は、ただすがるように達也の名前を叫び続けることしかできなかった。
しかし、健司は怒るどころか、慈愛に満ちた表情で理沙の頭を撫でた。
「……かわいそうに。まだ、あの悪魔の呪縛が解けていないんだね。うなされているんだ」
「違う! 私は達也を愛してるの! あなたなんて知らない、気持ち悪い、私に触らないで!!」
理沙が明確な拒絶の言葉を叩きつけても、健司の表情は微塵も揺らがなかった。
彼の強固な妄想フィルターは、理沙の拒絶すらも「悪魔に操られた哀れな姫の叫び」として都合よく処理してしまうのだ。
「愛しぬくからと見つめた 恋に落ちた遠いあの頃……」
健司は、理沙の叫びをかき消すように、静かに歌のフレーズを口ずさみ始めた。
「覚えているよ、理沙。あの大講義室で、君が僕の足元にペンを落としてくれた日のこと。あの時、君は震えるような瞳で僕を見つめて、微笑んでくれた。……あの日から、僕の胸は君への愛でいっぱいなんだ」
健司は、立ち上がり、祭壇のように見立てたガラクタの山から、何かを手に取った。
「あの悪魔が君に渡した、あんな安っぽい光り物。あんなもので、君の心を縛れるわけがないのに」
健司の目には、あの日、大通公園で達也が理沙に贈ったネックレスが、理沙を縛る忌まわしい鎖として映っていた。
――君に贈るはずの指輪 投げ捨てた…。
「指輪なんて、捨てちゃったんだ。あんな偽物の愛の象徴なんて、僕たちにはいらないからね。……でも、結婚式には誓いの印が必要だよね」
健司が手にしたのは、錆びついた細い『針金』だった。廃ビルの床に転がっていたゴミの一つだ。
「や、やめて……何をするの……っ!」
理沙がパイプ椅子の上で激しく身をよじる。
健司は、理沙の左手を強引に掴み、結束バンドで固定された彼女の薬指の根元に、その錆びた針金を巻き付けた。
「痛っ……!! いやああああっ!!」
ギリギリと、肉に食い込むほど強く針金がねじり上げられる。
理沙の薬指から血が滲み、激痛に悲鳴が上がった。
だが、健司は満足そうに微笑み、理沙の血が滲む薬指に、自らの唇を押し当てた。
「……泣かないで、理沙。嬉し泣きだね。僕も嬉しいよ」
痛みに顔を歪め、涙を流す理沙の姿を、健司は「愛の誓いに感動して涙を流す花嫁」だと本気で信じ込んでいるのだ。
「これで僕たちは、永遠に一つだ。もう、誰にも引き裂くことはできない」
健司は、針金で縛られた理沙の手を両手で包み込み、うっとりと目を閉じた。
一方その頃。
達也は、猛吹雪の札幌の街を、狂乱したように走り回っていた。
「理沙! 理沙ぁっ!!」
マンションのドアが開け放たれ、理沙の姿が消えていたのを発見した時、達也の心臓は凍りついた。
すぐに警察に通報したが、警察の動きはやはり遅かった。「自らの意志で外出した可能性もある」と言われ、すぐには緊急配備を敷いてくれなかったのだ。
達也は、理沙が連れ去られたであろう経路を必死に推測し、雪に足を取られながら走り続けた。
その時。
歩道の側溝の近く、雪に埋もれかけていた黒い物体が、街灯の光に反射した。
「……理沙の、スマホ……!?」
達也は雪の中に飛び込み、そのスマートフォンを拾い上げた。
間違いない。ピンク色のケースは理沙のものだ。電源は切られているが、この場所に落ちていたということは、ここで彼女は何者かに接触し、連れ去られたのだ。
「クソッ……クソッ!! 遠野、てめえどこに隠れやがった!!」
達也は、降りしきる雪に向かって絶叫した。
スマートフォンの位置情報から、遠野健司のアパートを特定して乗り込むか? いや、あんな異常者が、自分のアパートに彼女を連れ込むはずがない。もっと誰にも見つからない、閉ざされた場所に隠しているはずだ。
達也の脳裏に、理沙を失うかもしれないという最悪の恐怖がよぎる。
もし、あいつが理沙を……。
「絶対に見つけ出す。殺してでも、俺が理沙を取り戻す……っ」
達也は、雪で真っ白に染まった街を見渡し、手がかりを探して走り続けた。
だが、時間は残酷に過ぎていく。
廃ビルの地下室では、マイナス度を下回る冷気が、容赦なく理沙の体力を奪っていた。
針金を巻かれた左手は血流が止まり、紫色に変色して感覚を失っている。ガタガタと震えていた体は、やがて寒さを通り越し、奇妙な熱さすら感じるようになっていた。低体温症の末期症状だ。
「……た……つ、や……」
理沙の意識が、朦朧と混濁していく。
目の前で微笑む健司の顔が、二重、三重にぶれて見える。
――今はもう君のこと 捜す夢も見ないけど。
健司は、意識を失いかけて首をうなだれる理沙の顔を覗き込み、愛おしそうにその冷たい頬を撫でた。
「理沙。眠いの? 疲れたよね。あんな悪魔にずっと囚われていたんだから」
――もう思い出すことさえ もう感じることもさえもできないままで。
「このまま、一緒に眠ろう。そうすれば、もう思い出すことも、苦しみを『感じる』こともなくなる。……空見上げてたんだね、ずっと」
健司は、コンクリートの冷たい床に横たわり、パイプ椅子に縛り付けられた理沙の足元にすり寄るようにして、目を閉じた。
彼には、それが「永遠の愛の完成」だった。
この凍える地下室で、彼女と一緒に命の灯火を消すこと。それこそが、現世のしがらみ(達也や警察)から完全に逃れ、魂だけで結ばれる唯一のハッピーエンドなのだと。
「……I LOVE YOU……」
健司の微かな呟きが、地下室の闇に溶けていく。
理沙の意識は、すでに深い闇の底へと沈みかけていた。
狂気のチャペルで、雪に消えゆく二人の命。
達也の必死の捜索は、果たしてこの絶対的な狂気の結末を覆すことができるのか。




