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第6話:雪道の生贄と、すれ違う微笑み

午後四時過ぎ。冬の札幌は、すでに夜のとばりを下ろし始めていた。

 鉛色の空からは粉雪が音もなく舞い落ち、アスファルトを薄っすらと白く染め上げている。

 白石理沙しらいし りさは、達也たつやのマンションのエントランスを抜け、凍てつく冷気の中に身をさらした。

 コートのポケットの中で、スマートフォンを強く握りしめる。画面は真っ暗なままだ。達也には何度電話をかけても繋がらない。ゼミが終わって彼が帰路につく前に、なんとしても遠野健司とおの けんじを見つけ出し、その狂気の矛先を自分に向けさせなければならない。

「……遠野くん!」

 理沙は、白い息を吐きながら、誰もいないマンションの前の通りに向かって叫んだ。

 声が震えている。恐怖で膝がガクガクと笑い、今すぐにでも座り込んでしまいたかった。だが、あの赤い手紙に書かれた『悪魔を地獄へ送ってあげる』という言葉が、理沙の背中を強引に押し出していた。

「遠野くん、いるんでしょ……! 私、出てきたよ! だから……」

 雪が降る音しか聞こえない静寂。

 理沙は、周囲の薄暗い電柱の陰や、駐輪場の奥を必死に探した。

 彼が達也の帰り道を狙っているのなら、大学からこのマンションへ至るルートのどこかに潜んでいるはずだ。理沙は、雪を踏みしめながら、達也の通う大学の方向へとフラフラと歩き出した。

 ――その時だった。

「……理沙」

 背後から、ひどく穏やかな、そして甘く囁くような声が鼓膜を打った。

 理沙は「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、弾かれたように振り返った。

 数メートル後ろ。

 街灯の淡いオレンジ色の光の下に、雪を肩に積もらせた健司が立っていた。

 彼は、達也の帰り道など張り込んでいなかったのだ。手紙を投函した後も、彼はこのマンションのすぐ近くの死角に潜み、理沙が「自らの意志で」ドアを開けて出てくるのを、ずっと待っていたのである。

「……と、遠野、くん……」

 理沙は後ずさりしようとしたが、足が雪に張り付いたように動かなかった。

 目の前に立つ健司の顔には、怒りも、焦りも、悪意すらも存在していなかった。あるのはただ、長い間待ち焦がれた恋人にようやく会えたという、純粋で恍惚とした喜びだけだった。

「理沙。よく、一人で逃げてこられたね。……怖かったでしょ。あの男に、ひどいことされなかった?」

 健司は、本当に心配そうに眉を下げ、ゆっくりと理沙へと歩み寄ってきた。

「こ、来ないで……っ」

 理沙はポケットから、防犯ブザーを取り出そうとした。だが、震える指先が上滑りして、上手く掴むことができない。

 それに、ここでブザーを鳴らして彼を刺激すれば、逆上して達也の命を狙うかもしれない。理沙は、必死に恐怖を飲み込み、震える唇の端を無理やりに引き上げた。

 笑わなきゃ。

 彼に、私が「あなたを愛している」と錯覚させなきゃ。達也を助けるためには、それしかない。

「……と、遠野くん。私、あなたの手紙、読んだよ」

 理沙は、コートのポケットから、あの赤い封筒を少しだけ覗かせた。

「だから……私、あなたに会いに来たの。達也には……達也には、何もしないで。私、あなたと一緒に行くから……。だから、お願い……っ」

 理沙の目から、恐怖と絶望の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 顔は引きつり、声は嗚咽にまみれている。誰がどう見ても、極限の恐怖に怯え、大切な人の命を天秤にかけられて懇願している姿にしか見えないはずだった。

 ――しかし。

 健司の狂気的に歪んだフィルターを通せば、その光景は全く別の『美しい映画のワンシーン』へと変換されていた。

 ――好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。

 健司の視線が、理沙のポケットにある赤い封筒に注がれる。

 ああ、彼女は僕の愛の言葉を、しっかりと受け止めてくれたんだ。

 そして彼女は今、僕の前で、涙を流しながら微笑んでいる。

 ――読んだ後に 微笑みながら君がくれた言葉は。

 ――I LOVE YOU I LOVE YOU。

 健司の脳内で、理沙の悲痛な懇願の言葉が、すべて「愛の告白」へと自動翻訳されていく。

『達也には何もしないで』という言葉は健司の耳には届かない。『私、あなたと一緒に行くから』という、自分に都合の良い言葉だけが、天使の歌声のように響き渡っていた。

「……理沙。泣かなくていいんだよ。もう、あの悪魔は君を傷つけられないから」

 健司は、うっとりとした表情で理沙の目の前まで歩み寄ると、手袋もしていない冷たい手で、理沙の涙に濡れた頬をそっと包み込んだ。

「ひっ……!」

 理沙は全身の毛を逆立て、彼の手を払い除けそうになった。だが、達也の顔が脳裏をよぎり、全身を石のように硬直させてその悍ましい感触に耐えた。

「君の『I LOVE YOU』、ちゃんと僕に届いたよ。僕の好きだっていう気持ちに、君は微笑みながら応えてくれたんだね」

 健司は、理沙の引きつった顔を「はにかんだ微笑み」だと本気で信じ込み、うっとりと目を細めた。

「……ずっと、待ってたんだ。君が、僕の腕の中に飛び込んでくるこの瞬間を」

「……う、うん。だから、遠野くん……もう、誰も傷つけないで。私と一緒に……」

 理沙が必死に言葉を紡ごうとした、その時だった。

 ブブッ、ブブッ。

 理沙のコートのポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 達也からの折り返しの着信だった。

 理沙はハッとしてポケットに手を入れたが、それよりも早く、健司の大きな手が理沙の腕をガシッと力強く掴んだ。

「……あの悪魔だね」

 健司の瞳から、スッと感情が消え失せた。

「まだ、君をあの牢獄に縛り付けようとしてるんだ。しつこい悪魔だ。……でも、大丈夫。僕が君のスマートフォンを預かっておくから」

「やめ、返して……っ!」

 理沙の抵抗も虚しく、健司は理沙のポケットから強引にスマートフォンを奪い取った。

 画面には『達也』の文字が光っている。

 健司は、その画面を冷酷な目で見下ろすと、通話ボタンを押した。

『理沙!? お前、今どこにいる!? 部屋にいないって……』

 電話の向こうから、切羽詰まった達也の怒号が聞こえてくる。

 健司は、無表情のまま、スマートフォンを自分の口元に近づけた。

「……もう思い出すことさえ、もう感じることもできないままで」

 健司は、歌詞のフレーズを、お経のように淡々と呟いた。

「彼女は、僕が救い出した。君の汚い手は、もう二度と彼女には届かない。……空見上げてたんだね、悪魔さん」

『てめえ!! 遠野か!! 理沙に何をした、今すぐそこから離れろ!! 殺してやる!!』

 達也の絶叫が響く中、健司は「プツン」と無慈悲に通話を切り、そのままスマートフォンの電源を落とした。

 そして、そのスマートフォンを、雪が積もる側溝の中へと無造作に放り投げた。

「あっ……!」

 理沙の最後の希望が、雪の中に消えた。

 外界との唯一の繋がりを断たれ、理沙はついに恐怖の限界を超え、その場にへたり込んだ。

「さあ、理沙。行こう。僕たちの、永遠の愛を誓う場所へ」

 健司は、へたり込んだ理沙の腕を掴み、強引に引きずり起こした。

 その力は異常に強く、理沙がどんなに足を踏ん張っても、ズルズルと雪道を引きずられていく。

「やだ……やめて、離して!! 助けて、誰か!!」

 理沙は泣き叫び、周囲に助けを求めた。

 だが、ここは学生マンションが立ち並ぶ住宅街の裏道。雪の降る夕暮れ時に、外を歩いている人間など誰もいなかった。静寂な雪が、彼女の悲鳴をすべて吸い込んでいく。

「……今はもう……」

 健司は、泣き叫ぶ理沙を引きずりながら、恍惚とした声で歌を口ずさみ始めた。

 彼には、理沙の悲鳴が聞こえていなかった。

 いや、聞こえてはいるのだが、それは「悪魔の呪縛から解き放たれ、嬉し泣きをしながら僕についてきている」という、狂気のフィルターを通した音色として処理されていたのだ。

 ――届かぬ思い伝えられずにいた。

 ――震える気持ち 押えられずにいた。

 理沙の震えは、僕への抑えきれない愛の証明。

 理沙の流す涙は、僕への深い感謝のしるし。

「僕たちは、これから誰にも邪魔されない場所に行くんだ。……鳴り響くチャペルで、愛し続けると誓った、あの遠いあの日から……僕たちの運命は決まっていたんだから」

 健司は、理沙の腕を握りつぶさんばかりの力で掴んだまま、雪の闇の奥へと向かって歩き続けた。

 彼が向かっているのは、自分のアパートではない。

 彼が事前に見つけておいた、この住宅街の端にある、取り壊し予定の廃ビルの地下。彼が「チャペル」と呼ぶ、誰も寄り付かない暗黒の密室だった。

「達也……助けて……達也……っ!」

 理沙の微かな声は、冷たい北風にかき消されていく。

 自らの身を呈して恋人を守ろうとした理沙の勇気は、狂気という名の絶対的な壁の前に、あっけなく粉砕された。

 すれ違う言葉。全く噛み合わない感情。

 雪空の下。

 歪んだ『I LOVE YOU』の調べが、理沙の意識を深い絶望の底へと引きずり込んでいくのだった。

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