第5話:閉ざされた城と、救済の血文字
達也のマンションのドアには、二重の鍵と頑丈なチェーンがかけられていた。
厚い遮光カーテンは昼間から固く閉ざされ、部屋の中は暖房の効いた重苦しい空気に満ちている。理沙は、ソファーの上で膝を抱え、薄い毛布に包まりながら、ただ柱時計の秒針が進む音だけを聞いていた。
美香からの泣き叫ぶような絶縁の電話。達也の自転車に仕掛けられたカッターの刃。
それらの出来事から三日が過ぎていた。理沙はあの日以来、一歩も外に出ていない。大学も欠席し、スマートフォンも電源を切ったままだ。自分が外の世界と繋がれば、また誰かが傷つく。その恐怖と自責の念が、彼女の精神を少しずつ、確実に蝕んでいた。
「……理沙。俺、どうしても外せないゼミの発表があるから、二時間だけ大学に行ってくる」
玄関で靴を履きながら、達也が重い声で言った。
彼の顔には、色濃い疲労の影が落ちている。理沙を守るために神経をすり減らし、アルバイトも休みがちになっていた達也は、明らかに限界を迎えつつあった。それでも彼は、決して理沙を見捨てようとはしなかった。
「……ごめんね、達也。私のせいで」
「謝るな。俺の部屋はオートロックだし、防犯カメラもある。絶対に鍵は開けるなよ。誰が来ても居留守を使え。終わったらすぐに帰ってくるから」
達也は無理に笑顔を作り、理沙の頭を優しく撫でてから、重い鉄のドアの向こうへと出ていった。
ガチャリ、と鍵が閉まる音。
達也の足音が遠ざかると、部屋には再び、息が詰まるほどの静寂が舞い戻ってきた。
理沙は毛布を頭から被り、目を閉じた。達也が帰ってくるまでの二時間。それが永遠のように長く感じられた。
――その頃。
達也のマンションから少し離れた、見通しの良い公園の東屋。
遠野健司は、雪の積もるベンチに座り、双眼鏡でマンションのエントランスをじっと監視していた。
「……出てきた」
自動ドアが開き、周囲を警戒しながら足早に歩き出す達也の姿を捉え、健司の口角が歪に吊り上がった。
悪魔が、ついに城を空けた。
健司の脳内では、この数日間の理沙の引きこもり生活は、達也による「監禁」として完璧に変換されていた。
あの日、理沙は僕の『好きだ』という手紙を受け取って、泣いて喜んでくれたはずだ。僕の胸に飛び込もうとしたのに、あの乱暴な男が、理沙を自分の部屋に閉じ込めてしまったのだ。
「理沙……一人で怖かったよね。僕が今、助けに行くから」
健司は双眼鏡をバッグにしまい、雪を踏みしめて立ち上がった。
彼の胸ポケットには、昨日の夜、自室で徹夜をして書き上げた「特別な手紙」が忍ばせてある。
――帰る夜道に自転車走らせて。
――熱い吐息に思いをよぎらせた。
昨夜の冷たい雪風の中、健司は自転車を走らせながら、理沙を救出するための完璧なシナリオを頭の中で何度も反芻していた。
ハァ、ハァと吐き出す熱い吐息は、理沙への燃え上がるような愛の証明だった。あの悪魔(達也)をどうやって排除し、どうやって理沙の心にかけられた呪縛を解くか。その答えは、彼の中でとうに決まっていた。
健司は、達也のマンションのエントランスへと向かった。
オートロックのガラス扉。当然、鍵を持たない健司は中には入れない。
しかし、彼は慌てることなく、マンションから出てこようとする住人を待った。数分後、ゴミ出しのために一人の老婦人が中から自動ドアを開けて出てきた。
その開いた隙間を縫うようにして、健司は「こんにちは」と爽やかな会釈を作りながら、堂々とマンションの内部へと侵入した。
エレベーターには乗らず、非常階段を使って三階へと上る。
コンクリートの冷たい廊下。一番奥にある「305号室」。それが、理沙が囚われている悪魔の城だった。
健司は、ドアの前に立ち、ゆっくりと深呼吸をした。
この薄い鉄の扉の向こうに、愛する人がいる。僕を待って、震えている。
健司は、ポケットから例の手紙を取り出した。
真っ赤な封筒。まるで血で染めたような、毒々しい赤色。
――好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。
健司は、その封筒を、ドアの郵便受けの隙間から、ゆっくりと、音を立てないように室内に向けて押し込んだ。
コトリ。
封筒が玄関のたたきに落ちる、微かな音。
健司は、その音を聞き届けると、ドアに額を押し当て、内側にいるはずの理沙に向かって、声にならない声で囁いた。
「……読んだ後に、微笑みながら君がくれた言葉は。I LOVE YOU……」
理沙。僕の愛を受け取って。そして、僕と一緒にここから逃げ出そう。
健司は恍惚とした笑みを浮かべ、再び非常階段を使って、足音も立てずにマンションから姿を消した。
一方、部屋の中。
毛布に包まっていた理沙は、玄関の方から聞こえた「コトリ」という異音に、ビクッと肩を震わせた。
郵便局の配達だろうか。それとも、チラシの投函?
達也からは「絶対に出るな」と言われている。だが、その微かな音が、理沙の神経を逆撫でし、異様な胸騒ぎを引き起こしていた。
理沙は、ソファーからゆっくりと立ち上がり、抜き足差し足で玄関へと近づいた。
覗き穴から外を見る勇気はない。
ただ、視線を足元に落とした瞬間。
「……っ!」
理沙は、声にならない悲鳴を上げ、両手で口を強く塞いだ。
玄関のたたきに、真っ赤な封筒が落ちていた。
宛名も、差出人の名前もない。ただ、封筒の表には、黒いマジックで乱暴に『理沙へ』とだけ書かれていた。
その筆跡は、アパートのドアに貼られていた狂気の紙片や、あのカフェラテのカップにねじ込まれていたものと、完全に一致していた。
ここが、見つかった。
達也の部屋なら安全だと思っていたのに。彼は、オートロックをすり抜け、ここまでやってきたのだ。
理沙は後ずさりしようとしたが、足がすくんで動けなかった。
その赤い封筒が、まるで生き物のように、理沙をじっと見つめ返しているような気がした。
開けてはいけない。絶対に。
頭では分かっているのに、恐怖という名の引力が、理沙の指先をその封筒へと向かわせた。
震える手で封筒を拾い上げ、封を切る。
中から出てきたのは、数枚の便箋と、一枚の写真だった。
まず、目に飛び込んできたのは写真だ。
それは、つい先ほど、大学に向かって歩いている達也の後ろ姿を、マンションの近くで隠し撮りしたものだった。
写真の達也の頭部には、赤いインクで、大きな「×」印が書き殴られている。
「……嘘、達也……」
理沙の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
彼は、達也が部屋を出るのを監視していたのだ。そして、私が一人になった隙を狙って、これを投函した。
理沙は、震える手で便箋を広げた。
『理沙。かわいそうな理沙。
あの悪魔に閉じ込められて、君は毎日泣いているんだね。
好きだ好きだ好きだ好きだ。僕の愛しい理沙。
もう大丈夫だよ。僕が君を助けに行くから』
便箋には、相変わらず異常な筆圧で、彼の一方的な「救済」の妄想が綴られていた。
だが、二枚目の便箋を見た瞬間、理沙の血液は完全に凍りついた。
『君を縛り付けている鎖は、僕が断ち切る。
今日の夕方、あの悪魔が大学から帰ってくる道を、僕は知っている。
君が震えなくて済むように、僕が、あの悪魔を地獄へ送ってあげる。
君に贈るはずの指輪よりも、もっと美しくて、確かな愛の証明を、君に見せてあげるね』
「……っ!!」
理沙は、手紙を床に取り落とし、その場にへたり込んだ。
地獄へ送る。
それは、達也への明確な殺害予告だった。
カッターの刃や猫の死骸といった「嫌がらせ」の段階は終わったのだ。健司の狂気は、ついに理沙を「救出」するための、直接的な殺人へと舵を切った。
「達也……達也に教えなきゃ……!」
理沙はパニックに陥りながら、ソファーに放り出していた自分のスマートフォンを手に取った。
電源を入れ、震える指で達也の番号をタップする。
『プルルルル……プルルルル……』
コール音は鳴る。しかし、出ない。
ゼミの発表中なのだ。彼はスマホをマナーモードにするか、電源を切っている可能性が高い。
「お願い、出て、達也……殺されちゃう、お願いだから……!」
理沙は泣き叫びながら、何度もリダイヤルを繰り返した。
しかし、無情なコール音が虚しく響くだけで、達也が電話に出ることはなかった。
どうすればいい。警察に電話する?
だが、今から警察に事情を話しても、達也の帰り道に間に合うか分からない。健司はどこに潜んでいるか分からないのだ。
写真に写っていた達也の背中と、赤い「×」印が、理沙の脳裏に焼き付いて離れない。
私が、達也を巻き込んだ。
私が、あの時ペンを落とさなければ。私が、この部屋に逃げ込んだせいで。
『僕が君を助けに行くから』
手紙の狂気めいた言葉が、呪いのように理沙の耳元でこだまする。
達也を助けるためには、どうすればいいのか。
理沙の極限状態の思考が、一つの恐ろしい結論へと辿り着いた。
彼が達也を狙うのは、達也が私を「監禁」していると思い込んでいるからだ。
なら、私が自らこの部屋を出て、彼(健司)の前に姿を現せば。
私が、「彼を愛している」というフリをして、彼に会いに行けば、達也の命は助かるかもしれない。
「……今はもう、君のこと捜す夢も見ないけど」
健司がポストの奥で呟いた、歪んだ歌詞の通り。
理沙は、自らその「夢」の生贄となるべく、立ち上がった。
彼女は、涙を拭い、コートを羽織った。
達也の部屋のドアに手をかけ、重いチェーンを外す。
それは、安全な檻から、本物の悪魔が待つ雪の降る外界へと、自ら足を踏み出すことを意味していた。
理沙は、達也の無事を祈りながら、凍てつく冷気が入り込むドアを、ゆっくりと押し開けた。




