第4話:奪われた姫と、朱色の警告
深夜の札幌の住宅街に、赤色灯の不気味な光が明滅していた。
理沙のアパートの前に停まったパトカーから降りてきた警察官たちは、二階のドア一面に貼り付けられた赤い紙片と、血で書かれた『I LOVE YOU』の文字を見て、一様に顔をしかめた。
「……これは、悪質ですね」
写真を撮り終えた初老の警察官が、防寒着の襟を立てながら重々しく口を開いた。
達也の腕の中でガタガタと震え続ける理沙を庇うように、達也が前に出る。
「悪質なんてレベルじゃない! あいつは異常です! 彼女の命が危ないんです、今すぐあの遠野って男を逮捕してください!」
達也の怒号が雪の降る夜空に響いたが、警察官は申し訳なさそうに首を横に振った。
「お気持ちは痛いほど分かります。ですが、現状ではこの血が遠野本人のものかどうかも不明ですし、彼がこれをやったという決定的な証拠(防犯カメラの映像など)がありません。器物損壊やストーカー規制法違反で捜査は進めますが、今すぐ逮捕状を出すのは難しいのが現実です」
決定的な証拠がない。
その言葉は、理沙にとって死刑宣告に等しかった。警察が捜査の準備をしている間にも、あの真っ黒で虚ろな瞳が、どこかの暗がりから私をじっと見つめているのだ。
「理沙、こんな所にいちゃダメだ。当分、俺のアパートに来い。着替えだけパパッとまとめよう。俺がずっとついているから」
達也は、理沙の肩を抱いて部屋の中に入り、数日分の着替えと講義の道具だけをボストンバッグに詰め込んだ。
自分の部屋なのに、一秒でも早く逃げ出したかった。窓ガラスの向こう側に、あの無表情な顔が張り付いているのではないかと想像するだけで、理沙は呼吸ができなくなるほどの恐怖に襲われていた。
十五分後。
理沙と達也は、足早に階段を駆け下り、達也が手配したタクシーに飛び乗った。
タクシーが雪道を走り出すと、理沙はようやく張り詰めていた糸が切れ、達也の胸に顔を押し付けて声を出して泣きじゃくった。
「大丈夫だ、理沙。俺の部屋はオートロックだし、三階だ。絶対にあいつには近づかせない」
達也の力強い言葉と温もりが、理沙の唯一の命綱だった。
――しかし。
彼らを乗せたタクシーが遠ざかっていくのを、電柱の深い影からじっと見送っている影があった。
遠野健司だった。
彼の指先には、ドアに血文字を書いた際の浅い切り傷があり、そこから滲み出た血が、ポタポタと雪の上に赤い染みを作っていた。だが、彼に痛みの感覚はない。
「……連れ去られてしまった」
健司は、タクシーの赤いテールランプが雪の闇に消えていくのを見つめながら、悲痛な声で呟いた。
彼の目に映っていたのは、「ストーカーから逃げていく被害者」の姿ではない。
僕が助けに行ったのに、一足遅かった。あの野蛮で乱暴な男(達也)が、理沙を無理やり車に押し込み、自分のアジトへと拉致してしまったのだ。
理沙は泣いていた。僕の名前を呼んで、助けを求めて泣いていたのに。
――今はもう君のこと 捜す夢も見ないけど。
健司は、血の滲む指先をそっと舐め取った。
捜す夢なんて見ない。なぜなら、あの男の「アジト」の場所は、すでに特定してあるからだ。
健司は、理沙をストーキングする過程で、彼女が達也のアパートへ出入りするのも当然確認していた。あの悪魔の城は、ここから自転車で二十分ほどの距離にある、学生向けのマンションだ。
「待ってて、理沙。必ず君を、あの悪魔の手から救い出すから」
健司の瞳には、狂信的なヒーローの炎が宿っていた。
僕たちの純愛を邪魔する悪魔は、僕のこの手で排除しなければならない。
翌日。
理沙は大学を休んだ。一歩でも外に出れば、またあの視線に絡め取られる気がして、達也のベッドの上で毛布に包まり、震えていることしかできなかった。
達也は「俺は午後から少しだけ大学のゼミに顔を出してくる。終わったらすぐに帰ってくるから、絶対に鍵を開けるなよ」と言い残し、部屋を出ていった。
その達也が、自分の大学の駐輪場に自転車を停めようとした時のことだ。
「……なんだ、これ」
達也の自転車の前カゴに、茶色い封筒がポツンと置かれていた。
宛名はない。不審に思いながらも封を開けると、中から数枚のカラーコピーの写真が出てきた。
「なっ……!!」
達也は息を呑んだ。
それは、理沙と達也がデートしている時の隠し撮り写真だった。カフェで笑い合っているところ、大通公園で手を繋いでいるところ。
だが、恐ろしいのはそこではなかった。
写真に写っている『達也の顔』だけが、真っ赤なボールペンで、原型を留めないほどに乱暴に、ぐちゃぐちゃに塗り潰されていたのだ。
そして、写真の裏には、歪な文字でこう書かれていた。
『理沙を解放しろ』
『君は泣いている。僕には聞こえる』
『汚らわしい手で彼女に触れるな』
「……あの野郎」
達也はギリッと奥歯を噛み締め、その写真を力任せに破り捨てた。
理沙のストーカー(健司)が、ついに自分を直接のターゲットとして認識し、牽制してきたのだ。
達也は体格も良く、喧嘩にも自信がある。こんな陰湿な嫌がらせで怯むような男ではない。
「ふざけやがって。次に姿を見せたら、絶対に警察に突き出してやる」
達也は周囲を鋭く睨みつけたが、冬のキャンパスを行き交う学生たちの中に、あの無気力で暗い青年の姿は見当たらなかった。
しかし、健司の「攻撃」は、そんな達也の想像をはるかに超える、狂気に満ちたものだった。
その日の夕方。達也がゼミを終え、理沙のためにスーパーで温かいお惣菜を買って帰ろうと、再び駐輪場に戻ってきた時のことだ。
自転車の鍵を開け、ハンドルを握った瞬間。
「痛っ……!」
達也は、反射的に手を引っ込めた。
右手のひらに、鋭い痛みが走った。見ると、厚手の冬用グローブがスパッと横に切れ、そこから真っ赤な血が滲み出ている。
驚いて自転車のハンドルグリップの裏側を確認すると、そこには、目立たないように黒いビニールテープで『カッターナイフの刃』が、上向きに仕込まれていたのだ。
少しでも体重をかけてハンドルを握っていれば、手のひらの腱を深く切られていたかもしれない。手袋をしていたおかげで、皮一枚の浅い切り傷で済んだが、その悪意の深さに達也は背筋が凍る思いがした。
「……クソッ!!」
達也は出血する手を押さえながら、怒りと恐怖で周囲を見回した。
カゴの中には、またしても赤い紙片が入れられていた。
『愛しぬくからと見つめた 恋に落ちた遠いあの頃』
あの不気味な歌の歌詞。
それは、健司からの明確な宣戦布告だった。理沙を諦めない。そのためなら、手段は選ばない。お前を物理的に排除してでも、僕は彼女を取り戻す。
達也は自転車を押して帰ることを諦め、タクシーを拾って自分のマンションへと急いだ。
部屋に戻ると、理沙が青ざめた顔でソファーにうずくまっていた。
「達也……遅かったね。無事だった……? あっ、その手!」
達也が隠そうとした右手の血にじむ包帯(タクシーの中でハンカチを巻いたもの)を見て、理沙は悲鳴を上げた。
「大丈夫だ、ちょっと転んで擦りむいただけだから」
達也は作り笑いを浮かべたが、理沙の目をごまかすことなどできなかった。
「嘘……あの人が、やったんでしょ? 達也にまで、危害を加えたんでしょ……!?」
「違うって、理沙。本当に俺の不注意で……」
「私のせいだ……っ」
理沙は、頭を抱えてボロボロと泣き崩れた。
「私のせいだ、私がペンなんて拾ってもらったから。私が、あの時笑って『ありがとう』なんて言っちゃったから……! 私が達也の側にいたら、達也まで殺されちゃう!!」
――生まれて初めて 恋に奪われたあの胸。
その純粋な「恋」という言葉の形をした呪いが、理沙の大切なものを次々と破壊していく。
「理沙、落ち着け! 俺は絶対にお前を見捨てない。こんなことで逃げ出すかよ!」
達也は理沙を力強く抱きしめたが、理沙の震えは止まらなかった。
翌日。理沙の友人の美香から、達也のスマホに連絡が入った。
『達也くん……ごめん。私、理沙のこと助けてあげたいんだけど……今日、大学の私のロッカーに、動物の……猫の死骸が入ってたの』
美香の声は、恐怖で泣きじゃくっていた。
『首に、赤いリボンが巻かれてて。……私、もう無理。怖い。あんなのと関わったら、私まで殺される。ごめん、理沙には申し訳ないけど、当分連絡しないでって伝えて……』
達也は絶望的な気持ちで電話を切った。
健司は、理沙の周囲の人間を、一人、また一人と確実な「恐怖」で削り落とし、理沙を完璧な『孤立』へと追い込んでいるのだ。
「……もう思い出すことさえ もう感じることもできないままで」
その頃。
健司は、達也のマンションから少し離れた公園のブランコに座り、雪の降る夜空を見上げていた。
美香のロッカーに入れた死骸。達也の自転車に仕掛けた刃。
それらの行為に対する罪悪感など、彼の中には一ミリも「感じる」ことはなかった。
すべては、囚われの姫を救うための「聖戦」だ。
あの悪魔たちは、少しずつ理沙から離れていっている。もう少しだ。もう少しで、理沙は孤独になり、僕だけが彼女の唯一の救い主として、あの部屋に迎えに行くことができる。
――好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。
健司は、バッグの中から、さらに分厚くなった狂気のノートを取り出した。
理沙、待っていて。君の流す涙は、すべて僕が拭ってあげるから。
君が微笑みながら『I LOVE YOU』と言ってくれる、その完璧な瞬間のために、僕はどんな障害でも排除してみせる。
札幌の凍てつく空の下。
健司の歪んだ純愛は、もはや後戻りのできない狂気の凶器となって、理沙と達也の最後の防壁を破壊しようと迫っていた。




