第3話:雪空のチャペルと、歪んだ救済
札幌の街は、本格的な雪化粧を始めていた。
大通公園ではホワイトイルミネーションが点灯し、街路樹に飾られた何万個ものLEDライトが、凍てつく夜空の下で宝石のように瞬いている。すれ違う人々は皆、肩を寄せ合い、白い息を吐きながらも楽しげな笑顔を浮かべていた。
しかし、白石理沙の目に映るその光景は、ただただ寒々しく、恐ろしいものにしか見えなかった。
「……本当に、これで警察が動いてくれるのかな」
理沙は、大通公園のベンチで、隣に座る恋人の上着の袖を強く握りしめながら震えていた。
隣に座る大柄な青年――他大学に通う理沙の恋人、達也は、理沙の肩を抱き寄せ、険しい顔で前を見据えていた。
「動くさ。他人のゴミを漁って、あんな気味の悪い手紙を郵便受けにねじ込むなんて、立派なストーカー行為だ。それに、お前が怖い思いをしてるんだから、俺が絶対に守る」
達也の力強い言葉に、理沙はわずかに涙ぐみながら頷いた。
今日の夕方。郵便受けの惨状を見てパニックに陥った理沙は、すぐに友人の美香と達也に連絡を取った。達也はアルバイトを休んで飛んできてくれ、そのまま三人で最寄りの警察署へと駆け込んだのだ。
だが、警察の対応は、達也の期待するほど劇的なものではなかった。
『確かに気味の悪い手紙ですが、現時点では「好きだ」という好意の押し付けであり、直接的な危害を加えるという脅迫の文言がありません。また、ゴミ箱から拾ったカップも、窃盗罪に問うのは難しい。パトロールは強化しますが、まずは防犯ブザーを持ち歩き、戸締まりを徹底してください』
それが、生活安全課の警察官の出した結論だった。
明確な実害が出るまでは、警察も本格的な捜査に踏み切れない。そのもどかしい現実に、理沙はさらなる絶望を感じていた。
どこかで見られているかもしれない。私の生活のすべてが、あの無口で暗い同級生・遠野健司に把握されているかもしれない。そう思うだけで、吐き気がした。
「大丈夫だ、理沙。俺がしばらく、大学の送り迎えもするから。あんな変質者、俺が直接とっ捕まえてぶん殴ってやる」
達也が理沙の冷え切った手を両手で包み込み、優しく温めてくれる。
その温もりが、今の理沙にとって唯一の救いだった。
――しかし。
彼らは気づいていなかった。
光り輝くイルミネーションの死角。冷たい雪が降り積もる暗い木立の陰から、真っ黒な瞳が、彼らの一部始終をじっと観察していたことに。
「……かわいそうに、理沙」
遠野健司は、雪が積もるベンチの裏側で、手袋もせずに冷え切った手をこすり合わせながら、恍惚とした表情で呟いた。
彼の目には、理沙と達也の寄り添う姿が、全く別の「物語」として映っていた。
警察署から出てきた時の、理沙の泣きはらした目。
そして今、無理やりに肩を抱き寄せられている、彼女の怯えたような表情。
――そうか。君は、あの乱暴な男に脅されているんだね。
健司の脳内で、狂気の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。
理沙が警察に行ったのは、僕の手紙を「怖がった」からではない。僕の愛を受け入れたいのに、あの達也という男が暴力で彼女を縛り付けているから、警察に助けを求めたのだ。でも、警察は助けてくれなかった。だから、彼女はあんなに絶望した顔で泣いているんだ。
「大丈夫だよ、理沙。僕が……僕が、君を救い出してあげるから」
――幸せ溢れる 恋人達の輪の中に。
健司は、周囲を歩く幸せそうなカップルたちを一瞥した。
僕と理沙も、本当ならあの輪の中にいるはずなのに。あの男が、僕たちの純粋な愛を邪魔している。彼女の「震える気持ち」を、恐怖で押さえつけているんだ。
健司は、自分のコートのポケットに手を入れた。
そこには、小さなベルベットの箱が入っていた。
今日、大学の帰りに駅前のアクセサリーショップで買った、一万円のシルバーリング。
――君に贈るはずの指輪。
もうすぐクリスマスだ。あの日、彼女の笑顔を見た瞬間に、健司の心の中ではすでに「鳴り響くチャペル」の鐘の音が聞こえていた。
彼女と結婚し、永遠の愛を誓う。そのための準備は、すでに僕の中で整っている。
健司は、木立の陰から、達也が理沙にマフラーを巻き直してやっているのを見た。
嫉妬?
いや、そんなちっぽけな感情は、健司の中には存在しなかった。彼の中にあるのは、悪魔に囚われた姫君を見つめる騎士のような、歪んだ使命感だけだ。
――愛しぬくからと見つめた 恋に落ちた遠いあの頃。
講義室でペンを拾ったあの日から、僕の心は決まっている。何があっても、君を愛し抜く。君を苦しめるすべての障害を、僕が排除してあげる。
その時。
達也が自分のコートのポケットから、小さな小箱を取り出した。
「理沙、これ。ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント。……怖い思いさせてごめんな。俺がついてるから」
達也が箱を開けると、そこには、華奢で美しいゴールドのネックレスが輝いていた。
理沙の顔に、今日初めて、心からの安堵と喜びの笑顔が浮かんだ。
「達也……ありがとう。すごく綺麗……」
理沙が達也の胸に顔を埋める。
その光景を見た瞬間。
健司の脳内で、プツン、と何かが切れる音がした。
……違う。
理沙のあの笑顔は、僕に向けられるべきものだ。
あの男が、金で買った安っぽい光り物で、理沙の心を「買収」しようとしている。理沙は、恐怖から逃れるために、無理をしてあの男に縋り付いているだけなのに。
健司は、ポケットの中のシルバーリングの箱を、ギリギリと強く握りしめた。
そして。
――君に贈るはずの指輪 投げ捨てた…。
健司は、ポケットからその箱を取り出すと、誰も見ていない雪の積もる植え込みの奥深くへと、力いっぱい投げ捨てた。
ボフッ、という鈍い音とともに、彼が用意した「指輪」は、冷たい雪の中に吸い込まれ、永遠に消え去った。
なぜ投げ捨てたのか。
健司自身にも、一瞬分からなかった。だが、すぐに彼の完璧な妄想が、その行動を正当化した。
そうだ。指輪なんて、ちっぽけな物質でしかない。
あんな男と同じように、物で愛を証明しようとした僕が愚かだった。
僕たちの愛は、そんな物理的なものに縛られるような安っぽいものじゃない。
魂と魂の結びつき。それこそが、僕たちの究極の『I LOVE YOU』なんだ。
「……もう思い出すことさえ もう感じることもできないままで」
健司は、雪が降りしきる夜空を見上げて、うっとりと呟いた。
物質的な嫉妬も、現世のしがらみも、今の僕にはもう感じない。空見上げてた僕の胸にあるのは、理沙を救済するという、崇高で神聖な使命感だけだ。
健司は、理沙と達也が手をつないでイルミネーションの中を歩き出すのを見届け、彼らとは逆の方向へとゆっくりと歩き出した。
彼が向かったのは、自分のアパートではない。
理沙の、アパートだった。
達也が理沙を送り届けるまでには、まだ少し時間がある。
その間に、彼女の「聖域」を、あの汚らわしい男から清めなければならない。
夜の十時。
理沙のアパートの前に到着した健司は、周囲に誰もいないことを確認し、彼女の部屋のドアの前へと静かに近づいた。
彼女の部屋は二階の角部屋。外階段を上る健司の足音は、降り積もる雪に吸収され、全く音を立てなかった。
ドアの前に立つ。
もちろん、鍵はかかっている。
だが、健司の目的は中に入ることではなかった。
彼は、バッグの中から、大学の図書館でこっそりとカッターナイフで切り取ってきた、何冊もの「恋愛小説の悲恋のページ」を取り出した。
そして、真っ赤なインクのボールペンで、そのページの上に、びっしりと文字を書き込み始めた。
『あの男は君を騙している』
『君の悲鳴、僕には聞こえているよ』
『僕が必ず助けに行くから、待っていてね』
『好きだ好きだ好きだ好きだ』
――好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。
健司は、その狂気の紙片を、ドアの隙間、新聞受け、そして彼女の自転車のサドルに、次々と貼り付けていった。
最後に、彼は自分の指先をカッターナイフで少しだけ傷つけ、そこから滲み出た血で、ドアの表札に小さく『I LOVE YOU』と書き残した。
「……今はもう、君のこと捜す夢も見ないけど」
健司は、血の滲む指先を舐めながら、静かに微笑んだ。
捜す必要なんてない。君はすでに、僕の心の中に完全に存在しているのだから。夢なんて見なくても、現実の君を、僕がこの手で迎えに行く。
――帰らぬ日々を 夜空に描く。
健司は、達也という障害を排除し、理沙と二人だけで永遠の愛を誓う「鳴り響くチャペル」の幻影を、雪降る札幌の夜空にありありと思い描いていた。
一時間後。
達也に送られてアパートに帰ってきた理沙は、自分の部屋のドア一面に貼り付けられたおびただしい数の赤い紙片と、血文字の『I LOVE YOU』を見て、声も出せないほどのパニックに陥り、その場に崩れ落ちた。
警察のパトロールも、恋人の防壁も、健司の狂気の前では全く意味をなさなかった。
純愛という名の妄想は、理沙の平穏な日常を、完全に雪と血の色に染め上げようとしていた。




