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第2話:ゴミと、手紙と、届かぬ思い

十二月の札幌は、本格的な冬の到来を告げていた。

 キャンパスの並木道は完全に葉を落とし、グレーの空からは冷たい雨が時折、雪へと姿を変えて舞い落ちる。学生たちは皆、フードを深く被り、マフラーに顔を埋めて、暖房の効いた室内へと急いでいた。

 遠野健司とおの けんじにとって、この寒さは全く苦にならなかった。

 むしろ、彼自身の体温は、常に微熱を帯びているように熱かった。彼の中にある「白石理沙しらいし りさ」という太陽が、彼を内側から燃やし続けていたからだ。

 健司は、大学のキャンパスが一望できる、誰もいない食堂の窓際の席に座り、コーヒーカップから立ち上る湯気を見つめていた。

 彼の頭の中では、歌詞のフレーズが、彼と理沙の「運命」を祝福するように優しく響いている。

 ――届かぬ思い伝えられずにいた。

 ――震える気持ち 押えられずにいた。

「……そうだよね。理沙、君も苦しいんだよね」

 健司は、湯気の向こうに理沙の笑顔を思い浮かべながら、慈しむように呟いた。

 あの日、講義室でペンを拾った時の、彼女のあの笑顔。あの瞳。

 健司には、彼女の瞳が「ずっとあなたを見ていた。でも、恥ずかしくて伝えられなかった」と言っているのが、はっきりと分かった。

 健司がいつも一人で、端っこの席に座っているのは、彼女の「届かぬ思い」を受け止めるための、静かな場所を用意していたからだ。僕たちは二人で、この「震える気持ち」を共有していたのだ。

 健司は、窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 無口で、大人しい学生。でも、その瞳の奥には、彼女を愛し、守り抜こうとする強固な意志が宿っている。

 彼女が僕に想いを伝えてくれた。次は、僕がその想いに応えなければならない。

 この孤独なキャンパスの中で、二人の想いが「隣どおし」になる瞬間を、僕が作り出さなければならないのだ。

 健司は、バッグから一冊の新しい大学ノートを取り出した。

 昨日の夜、自室で何百回、何千回と『好きだ』という文字を書き殴った(第1話で書いたノート)、あのノートではない。

 今日から始まる、二人の「共同作業(妄想の恋人としての日常)」を記録するための、真新しいノートだ。

「……まずは、理沙のことを、もっとよく知らなきゃ」

 健司は、真っ白な最初のページに、彼女の「名前」を美しく書き込んだ。

 彼が向かったのは、大学の近くにある、彼女がよく使うコンビニエンスストアだった。

 健司の行動は、この一週間で、驚くべき進化を遂げていた。

 単に彼女の後ろ姿を見つめるだけでは、足りなかった。彼女の「生活の一部」を手に入れること。それが、彼女への深い愛情の証明だと、彼は信じていた。

「……いらっしゃいませー」

 コンビニの店員が、単調な声を上げる。

 健司は、そのコンビニの駐輪場の影に、自分の自転車を停め、じっと彼女が現れるのを待った。

 理沙のスケジュールは、この一週間で健司の頭の中に、完璧に叩き込まれていた。

 火曜日と木曜日は、三限の後にこのコンビニに寄る。水曜日は、大学の図書館で遅くまで勉強する。彼女の生活のすべては、健司の脳内で一つの「美しい物語(ストーカー行為の成果)」へと再構築されていたのだ。

 ――午後五時十五分。

 理沙が、友人の美香みかと笑いながらコンビニに入っていった。

 健司の心臓が、跳ねた。

「……理沙。僕も、ここにいるよ」

 健司は、彼女に気づかれないように、だが、彼女のすべてを捉えるような強い視線で、その姿を見つめ続けた。

 理沙が、カフェラテのカップと、イチゴの菓子パンを買い、美香と笑いながら出ていった。

 健司は、彼女たちが去るのを見届けた後、彼女たちが座っていたイートインスペースの席へと近づいた。

 彼女の「体温」が、まだそこにあるような気がした。

 彼は、ゴミ箱の中に捨てられた、彼女のカフェラテのカップを、そっと拾い上げた。

「……理沙。僕たちの共同作業だね」

 健司は、カップの飲み口に残っていた、微かな口紅の跡を見つめながら、恍惚とした表情で呟いた。

 彼女が捨てたゴミ。それは、健司にとって、彼女からの「贈り物」だった。

 彼女の生活の一部。彼女の唇が触れたもの。それを手に入れた満足感に、健司は震えた。

 彼は、そのカップを大切に、自分のバッグの中にある新しいノートの間に挟んだ。

 そして、カップに貼られていた、カフェラテのレシートを剥がし、ノートの最初のページに、彼女の名前の隣に美しく貼り付けた。

 これで、彼女の好みが、一つ分かった。イチゴが好きなんだ。僕もイチゴは好きだよ。僕たちは、本当に好みが合うね。

 ――愛し合う2人 いつの時も

 ――隣どおし あなたとあたし。

 コンビニのゴミ箱から拾い上げたカップとレシート。それが、健司にとっては、二人を「繋ぐ」かけがえのない絆だった。

 彼のエスカレートする行動は、彼の中にある歌詞のフレーズを、現実世界へと「朱色」で塗り替えていく作業だったのだ。

 一方その頃。

 理沙は、美香と大学の図書館で、ゼミの課題に取り組んでいた。

 暖房が効いた閲覧室。理沙はノートを広げながら、ふと、美香の表情が曇っていることに気づいた。

「美香? どうしたの、そんな暗い顔して」

 美香は、ノートから顔を上げず、震える声で言った。

「……理沙。あんた、やっぱり、おかしいよ」

「おかしい? 私が?」

「違う。……あの人だよ。遠野、健司って」

 理沙は、目を丸くした。

「遠野……健司? ああ、あのペン拾ってくれた人?」

「うん。……理沙、あんた気づいてないの? 最近、大学の廊下でも、学食でも、コンビニでも……あの人が、必ず近くにいるってこと」

「……え?」

 理沙の動きが、止まった。

 言われてみれば、確かに。三限の後の学食で、隣のテーブルに座っていた。図書館の閲覧室で、少し離れた席に座っていた。あの日、達也たつやと電話で話していたカフェの前で、自転車で通り過ぎる彼を見た。

 それは、ただの偶然だと思っていた。大学のキャンパスは狭いし、生活圏が重なるのは当然だと思っていた。

 理沙は社交的で、誰にでも愛想良く笑いかける。だから、見知らぬ同級生が近くにいても、深く気にしたことはなかったのだ。

「偶然じゃないよ、理沙。あの人、理沙がペン落とした時、すっごいジロジロ見てたって私、言ったでしょ? あの人、理沙のこと、ずっと監視してるみたいで……」

 美香の言葉に、理沙の心臓が、冷たい氷を押し付けられたように凍りついた。

「監視……?」

「うん。……理沙、怖くないの? 達也くんに相談したほうが……」

「達也に相談? ……ううん、ダメだよ。達也は他大学だし、心配させたくない。……ただの偶然かもしれないし。私が気にしすぎてるだけかもしれないし」

 理沙は、達也の優しい笑顔を思い出しながら、無理やりに微笑んで見せた。

 彼女には、達也という確固たる存在がある。孤独だった健司の前に現れた「太陽」とは、その存在の重みが全く違うのだ。

 ただの思い込みだ。私が自意識過剰なだけだ。美香が大げさに騒いでるだけだ。

 理沙は、自分に言い聞かせるように、再びノートへと視線を落とした。

「……でも、理沙」

 美香は、理沙の腕を強く掴み、真剣な瞳で言った。

「あの人の瞳……なんだか、現実を見てないみたいで。自分の妄想の世界で、生きてるみたいで……。理沙に、変なことされないか、私、本当に心配なの」

 美香の警告は、理沙の心の中に、消えることのない「澱」となって沈殿した。

 ただの同級生。親切な人。

 その前提が、少しずつ、朱色の毒に侵され始めていることに、理沙もまた、気づかざるを得なかったのだ。

 その夜。

 健司は、大学近くの古いアパートの自室で、机に向かっていた。

 部屋の明かりは電気スタンドだけが点いており、薄暗い空間の中で、健司のペンの走る音だけがカリカリと響いている。

 彼の目の前には、あの「好きだ」と何千回も書き殴った(第1話で書いた)、朱色に染まった大学ノートが開かれていた。

 健司は、そのノートのページを、震える手で破り取った。

『好きだ好きだ好きだ』

『理沙、理沙、僕の理沙』

『一生繋がってたい』

『笑顔咲ク、僕たちの未来』

 歌詞のフレーズが、健司の異様な筆圧と混ざり合い、紙の上に呪詛のように刻み込まれている。

 これは、僕から君への、愛の証明だ。

 健司は、その破り取ったページを、丁寧に四つ折りにした。

 そして、あの日拾い上げた、彼女のカフェラテのカップに、その紙をそっと、大切にねじ込んだ。

 これで、僕たちの愛が、彼女の生活の一部と、完全に一つになった。

 ――届かぬ思い伝えられずにいた。

 ――震える気持ち 押えられずにいた。

「……理沙。君の『届かぬ思い』、ちゃんと届けるからね。僕たちの共同作業だね」

 健司は、カップを胸に抱きしめ、恍惚とした表情で呟いた。

 僕も苦しい。君も苦しい。

 だから、僕が、その檻の鍵を、朱色の糸で、解き明かしてやるんだ。

 健司は、カップを大切に、自分のバッグの中に入れた。

 そして、深夜の零時を過ぎた札幌の夜道へと、自転車を漕ぎ出した。

 夜の空気は、肌を刺すように冷たい。だが、健司の体は内側から燃え上がるような熱を帯びていた。

 彼は、理沙のアパートの前へと、自転車を走らせた。

 あの日、歌詞のように熱い吐息を夜空に描いた、あの場所へ。

「……理沙。僕も、君を愛してる」

 健司は、彼女の部屋の窓を見上げ、声に出して笑った。

 彼は、自分のバッグから、あのカフェラテのカップを取り出した。

 そして、彼女のアパートの郵便受けへと近づき、そのカップを、そっと、郵便受けの差し込み口へと押し込んだ。

 ――ピーン、ポーン。

 深夜の静寂に、郵便受けのフタが閉まる音が、健司の耳には、二人の「歴史」の幕開けを告げるチャイムのように聞こえた。

「……理沙。読んでくれるよね? 微笑んで、受け取ってくれるよね?」

 健司は、郵便受けに向かって囁いた。

 彼の中では、歌詞のフレーズが、彼と理沙の「ハッピーエンド」を確信するように優しく響いている。

 ――読んだ後に 微笑みながら君がくれた言葉は

 ――I LOVE YOU I LOVE YOU。

 健司は、郵便受けの前で、恍惚とした表情で立ち尽くした。

 彼の中では、理沙が微笑みながらその手紙(ノートの切れ端)を読み、『健司くん、私もあなたを愛している』と言っているのが、はっきりと分かった。

「……あはは。理沙。僕も、君を愛してる」

 健司の異様な笑い声が、誰もいない深夜の住宅街に響く。

 彼の中では、雪の降るクリスマスも、二人の『I LOVE YOU』で満たされている。

 だが、現実は違った。

 翌朝。

 理沙がアパートを出ようと、郵便受けを開けた時。

 そこには、昨日の夕方捨てたはずの、自分のカフェラテのカップが、郵便受けの奥に突っ込まれていた。

「……え?」

 理沙の動きが、止まった。

 なぜ。私がゴミ箱に捨てたゴミが。なぜ。

 彼女は、震える手でそのカップを取り出した。

 カップの中に、何かがねじ込まれている。

 彼女は、その紙を引き出した。

 そして、その四つ折りの紙を、そっと開いた。

「……っ!!」

 理沙の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

 紙の上にびっしりと書き殴られた、『好きだ好きだ好きだ』という文字の羅列。

 筆圧が異常で、紙が破れかけている。朱色に染まった、狂気の文字。

『理沙、理沙、僕の理沙』

『一生繋がってたい』

『笑顔咲ク、僕たちの未来』

 それは、あの日健司が書いた(第1話の)、狂気のノートの切れ端だった。

「……嫌。嫌ああああっ!!」

 理沙は、その紙を地面に叩きつけ、腰を抜かした。

 美香の警告が、現実となって、彼女の前に突きつけられたのだ。

 偶然じゃない。監視。ストーカー。

 私の生活の一部。私が捨てたゴミ。それを手に入れて、郵便受けに。

 理沙は、地面に落ちた狂気の紙を見つめながら、ガタガタと震え続けた。

 彼女の確固たる日常。達也との幸せな未来。

 それが、朱色の果実の甘い毒によって、音を立てて崩れ去ろうとしていた。

 雪が降り始めた。

 札幌の凍てつく12月の朝。

 届くはずのない、いや、届いてはならない歪んだ『I LOVE YOU』が、彼女の平穏な日常を、朱色に染め上げていくのだった。

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