最終話:永遠のハッピーエンドと、雪に消えた現実
猛吹雪の札幌。
再開発エリアの廃墟群に、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、何台もの救急車とパトカーが入り乱れていた。赤と青の回転灯が、降りしきる雪を不気味な色に染め上げている。
「しっかりしろ! すぐに病院へ運ぶぞ!」
救急隊員の緊迫した声が飛び交う中、担架に乗せられた白石理沙が、地下室から外へと運び出されてきた。
彼女の意識は朦朧としており、酸素マスクを当てられ、何枚もの毛布に包まれている。低体温症と極度のショック状態。一命は取り留めたものの、その顔は雪のように蒼白だった。
「理沙! 理沙……っ」
左腕と脇腹に深い裂傷を負い、救急隊員に応急処置を受けていた達也が、ふらつく足で担架に駆け寄った。
屈強な体格を持つ彼ですら、限界を超えた出血と疲労で立っているのがやっとの状態だった。それでも彼は、理沙の手をしっかりと握りしめ、救急車へと乗り込んでいった。
その光景を、少し離れたパトカーの脇から、静かに見つめている男がいた。
遠野健司だ。
両手を後ろ手に手錠で拘束され、二人の屈強な警察官に両脇を固められている。
達也の鉄拳によって顔面は血まみれに腫れ上がり、鼻の骨は折れ、コートは自身の血でドス黒く染まっている。誰の目から見ても、狂気に駆られた惨めな犯罪者の末路だった。
――しかし。
健司の目に映る世界は、周囲の人間が見ている現実とは、何から何まで全く異なっていた。
「……あははっ……ああ、理沙……綺麗だよ」
健司の恍惚とした呟きに、両脇の警察官が「気味が悪いな、黙って歩け」と顔をしかめる。だが、健司の耳には、彼らの罵声すらも届いていなかった。
健司の強固な妄想フィルターは、目の前の現実を、完璧な『結婚式のクライマックス』へとすり替えていたのだ。
担架に乗せられ、救急車へと運び込まれていく理沙の姿。
それは、純白のウェディングドレスを身に纏い、白い馬車(救急車)に乗り込む美しい花嫁の姿だった。彼女の顔を覆う酸素マスクは純白のベールに、彼女を包む毛布は長いドレスの裾に見えている。
そして、その傍らに付き添う達也。
左腕から血を流し、満身創痍のあの男は、もはや理沙を縛る悪魔ではない。僕たちの愛の力に敗北し、僕たちの門出を祝うために傅く、ただの哀れな従者に成り下がったのだ。
「……今はもう、君のこと捜す夢も見ないけど」
健司は、雪が舞い散る夜空を仰ぎ見て、ひび割れた唇で静かに歌い始めた。
――鳴り響くチャペルに 愛し続けると誓った。
けたたましいサイレンの音は、僕たちを祝福するウェディングベル。
パトカーの赤色灯は、あの日見た大通公園のイルミネーション。
顔に冷たく降りかかる雪は、フラワーシャワーの祝福だ。
「さあ、乗れ!」
警察官に頭を押さえつけられ、パトカーの後部座席に押し込まれる。
ガチャリとドアが閉められ、外の喧騒が遮断された。金網で仕切られたパトカーの冷たい座席。だが、健司にとっては、そこは花嫁を待つ新郎のための特等席だった。
窓越しに、理沙を乗せた救急車が、サイレンを鳴らしながら先に走り出していくのが見えた。
「……愛しぬくからと見つめた……恋に落ちた遠いあの頃……」
健司の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、後悔の涙でも、痛みの涙でもない。長い長い試練を乗り越え、ついに愛する人と魂で結ばれたという、至上の喜びと感動の涙だった。
あの日、大講義室で君が落としたピンク色のペンを拾った時から、僕たちの運命は決まっていたんだ。
君は悪魔に囚われ、何度も引き裂かれそうになったけれど。僕の手紙を読んで微笑んでくれた君の『I LOVE YOU』が、僕に力をくれたんだよ。
「……もう思い出すことさえ……もう感じることもさえも……できないままで……」
健司は、手錠をかけられた両手を胸の前に寄せ、祈るように目を閉じた。
――空見上げてた。
そうだ。もう、現世の肉体なんてどうでもいい。
あの時、地下室で僕たちが交わした魂の誓いは、永遠に消えることはない。
理沙の薬指に食い込んだあの錆びた針金は、決して外れることのない見えない絆となって、僕と理沙を永遠に繋ぎ止めている。
僕たちは、一つになったんだ。
「あはは……あははははっ……!!」
パトカーの後部座席で、血まみれの男が突如として狂喜の笑い声を上げ始めた。
運転席の警察官が「おい、静かにしろ!」と怒鳴りつけるが、健司の笑いは止まらない。
彼は、この世界でただ一人、完全なる『ハッピーエンド』の絶頂にいた。
誰も彼を止めることはできない。
誰の言葉も、彼の中にある美しい愛の物語を否定することはできないのだ。
健司を乗せたパトカーは、吹雪の闇の中へと静かに消えていった。
***
それから、半年後の初夏。
札幌の街は、あの恐ろしい猛吹雪が嘘のように、青々とした緑と暖かな陽光に包まれていた。
白石理沙は、大学のキャンパスの中庭にあるベンチに座り、膝の上の文庫本に視線を落としていた。
あの日から、彼女は長い間、深い心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、大学を休学していた。だが、達也の献身的な支えと、美香をはじめとする友人たちの温かい励ましにより、春からようやく復学を果たすことができたのだ。
「理沙、お待たせ! 購買で飲み物買ってきたよ」
日焼けした肌に爽やかな笑顔を浮かべた達也が、二本のペットボトルを手に駆け寄ってくる。
彼の左腕には、あの日健司のカッターナイフによってつけられた深い傷跡が、服の上からでも微かに分かるほど生々しく残っている。だが、彼はそれを隠そうともせず、理沙を守り抜いた勲章のように誇り高く振る舞っていた。
「ありがとう、達也」
理沙は、ペットボトルを受け取り、ふわりと微笑んだ。
遠野健司は、あの事件の後、精神鑑定にかけられ、重度の妄想性障害として医療刑務所に収容されたと聞いている。もう二度と、彼が理沙の前に姿を現すことはない。
すべては、終わったのだ。
「そういえばさ、来週のゼミの合宿なんだけど……」
達也が隣に座り、楽しげに予定を話し始める。
理沙はそれに相槌を打ちながら、ふと、視線をキャンパスの端にある古い大講義室の建物へと向けた。
――届かぬ思い伝えられずにいた。
――震える気持ち 押えられずにいた。
なぜだか不意に、あの不気味な声が、耳の奥で再生されたような気がした。
「……っ」
理沙はビクッと肩を震わせ、無意識のうちに、自分の左手の『薬指』を右手で強く握りしめた。
あの日、あの地下室で、彼に錆びた針金で縛り上げられた指。
傷跡はもう完全に消えている。しかし、理沙の心の中には、時折、あの針金がギリギリと骨に食い込むような「幻痛」が走ることがあった。
「理沙? どうした? 寒いのか?」
達也が心配そうに覗き込んでくる。
「う、ううん。なんでもない。ちょっと冷たい風が吹いたから」
理沙は慌てて笑顔を作り、達也の腕にぎゅっとしがみついた。
大丈夫。私は達也に守られている。あの狂気は、もうどこにもいない。
理沙は自分に言い聞かせ、燦々と降り注ぐ初夏の日差しを見上げた。
しかし、彼女は知らない。
鉄格子に囲まれた、遠く離れた冷たい医療刑務所の独房の中で。
――好きだ好きだ好きだ好きだと書いた手紙。
遠野健司が、真っ白な壁に向かって、爪から血が滲むのも構わず、毎日毎日、見えない文字を書き続けていることを。
「……読んだ後に、微笑みながら君がくれた言葉は……」
健司は、鉄格子の隙間から差し込む光を見つめ、恍惚と微笑む。
彼の中では、物語はまだ終わっていない。いや、永遠に終わることなどない。
理沙は、あのチャペルで僕と結婚し、今も僕の心の中で、幸せそうに僕の腕の中で微笑み続けているのだから。
――I LOVE YOU……I LOVE YOU……。
現実の世界では完全に敗北し、社会から隔離された男。
しかし、彼自身の歪んだ宇宙の中では、彼は永遠の愛を手に入れた唯一の勝者だった。
初夏の風に吹かれながら、理沙がふと感じた左手の薬指の幻痛。
それは、遠く離れた場所から彼が送り続ける、決して切れることのない『呪いという名の愛』の証明だった。
雪に消えたクリスマスの夜。
すれ違った二つの現実は、決して交わることなく、それぞれの結末へと歩み続けていくのだった。




