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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

母の形

掲載日:2025/11/16

母は偉大なり。という言葉があるように、私にとっても母という存在は大きいものでした。そんな母がある日突然人生から欠けてしまったら、というお話です。

 中学生の秋。ホームルームがやっと終わり少年はかばんを背負った。変わらぬ歩幅で学校前の交差点を次々に過ぎていく。ただ、黙って歩いていれば気づけば着いているものだ。家のドアを開ける。そうするといつものようにあのウザったい声が聞こえる、はずだった。

 いつもとは違う変わった空気に「おかえりなさい」の声が聞こえなかった。面倒な挨拶が苦手な自分を、母はやっと理解してくれたのだろうかとでも思った。それとも怒らせてしまったのだろうかと近頃の行動を振り返りながら、かかとの潰された靴を脱いで足音を立てながらリビングに向かった。

 母は机に突っ伏していた。なんだ、それだけかと思い少年は寝ている母を無視をして自分の部屋に向かおうとした。そこで何かがおかしい事に気づいた。

 カーテンから漏れる昼過ぎの太陽を、ほのかに浴びる母の髪は少しも動かなかった。呼吸しているようには見えなかった。少年はそっと母に近づいて髪の毛をそっとどかし顔を覗き込んだ。顔はいつも通りの母なのだ。しかし触れる肌は氷のように冷たかった。


 「え」

 驚いてコップの水を倒した。氷が落ちる音が部屋に響き渡り、何もかもが凍てついた。しばらく動揺を隠しきれず呼吸が乱れた。

「母さん」「ただいま!母さん!」

どんなに呼び掛けてもピクリともしなかった。母の脈は無くなっていた。母の形をした抜け殻がそこにあるだけだった。必死に体を揺すった。冷たい腕が机から落ちて脱力した母の腕は静かに揺れた。今思えば力なく座る母の体は最初から死体のようだった。

 当たり前の日々を送り、当たり前の声を聞き、当たり前の温かさをどこかで感じていたのにも関わらず、突然ぷつりと途切れてしまうなんて有り得ないと心の奥で強く願った。母の手を取った。母の手は冷たいのに自分の体はだんだん暑くなって母の手は自分の汗で濡れた。母の手はしわだらけでまだ生命線も続いていた。少年はどうすればいいか分からず、ただ母の横で床に跪いた。


 気づけば夕方になっていた。先程よりも橙に輝く太陽がだんだんと沈んでいった。疲れてしまった少年はまだなにも飲み込めぬままコップと立て直した。ただ淡々とシンクでコップを洗った。シンクには昨日のカレーがこびりついた鍋と食器がそのままだった。零れた水を拭こうと思ったがほぼ床に染み込み、乾いていた。ほのかに珈琲の香りが漂っていた。

 ゴミ箱には錠剤が入っていた瓶に紙くずと昨日自分が捨てたティッシュの箱だけが残されていた。いつも通り珈琲を飲んでいた母は飲みきったコップに水を継ぎ足し、大量の錠剤を飲み込んだのだろうか。なぜ母は。

 「お母さん」

 部屋は未だ静かだった。閉ざされた窓の外から少しだけ室外機の音と車の音が聞こえた。いつになっても騒々しい世界は自分たちをこの場所に閉じ込めたまま置いていく。状況を理解しないまま、少年は「母の死体と暮らすこと」を決意する。


 珈琲の香りと母の死体、溶けだした氷は母の最期の温度とともに床に染み付いたままだった。




 警察に言えばいいだけ、救急車を呼べばいいだけ、隣人を訪ねるだけ、どれだけ学校で習えど、ここにいる母の形が消えてしまうのが嫌だった。いろいろと片付けて1度部屋にこもった。けどまた受け入れられずに母の元に行くと声が聞こえた気がした。

 まだ動いているように見えた。密かに温かさを感じた。

「ご飯できてるから冷めないうちに出てきなさい」

そんな声が記憶の奥からこだました。

 もう夕食の時間であった。父は母と結婚してまもなくして死んでしまい。母は少年を身ごもってから産むまで一人で行った。きっと心細かったと思う。母は父の話をする時いつも楽しそうに話すので、会ったことがなくともとても良い人で母にとっては一生を添い遂げるはずの人だったのだろうと、今になって知った気になった。

 「きっとお父さんもユウくんとこんな風にご飯食べたかったと思うな。」

ふとそんな言葉が蘇り、母の笑顔を思い出した。

にわかに母が笑った時は目にシワができ、えくぼがあることを思い出した。その時と今の顔を比べれば気づかない間に随分と老け込んだ気がした。その間、あまりに自分が母に対して無関心すぎたのだと痛感した。

 なんと言えども最近は母に対して強く当たっていた。それが原因で母が死んでしまったのかもしれないと思った。何もかも自分のせいとひっくるめて自分がもっとなにかしておけばとかやるせないばかりの後悔が頭の中をぐしゃぐしゃにした。


 またしばらく泣いていた。昨日、母がカレーの残りを別皿にうつしていたのを思い出し冷蔵庫をあけた。カレーを取りだして電子レンジで30秒ほど加熱する。電子レンジで温める時のジャストな秒数なんて知らない。この30秒間が今までにないほど長く感じられた。スプーンを取り出して椅子に座る。テーブルを挟んで見る母は疲れきって寝ているだけに見えた。ただもう一度目をやれば動いていないし、もう二度と動かないことだってわかるのだ。

 カレーを一口運んだ。やはり電子レンジで温めると熱いところと冷たいところでムラがでてしまう。ただ味はいつもの味なので不思議な気がした。もう母はいないのに、母の味だけが残っていた。母は自分の大好物がカレーと知っていて作ったのだろうか。それはもう永遠に知ることのできない質問だった。

 皿を片付けて昨日の鍋と皿もともに洗う。食器棚には母と自分用のお皿がいくつかあった。母とは何十年も暮らしてきたのだ。何度皿を割ろうがずっと2人分ここに置かれているのだ。小さな暮らしだったが少なくとも不自由なく暮らしていたと思う。それでなぜ自分は母に素っ気なくしてしまったのか、まただんだんと苦しくなった。

 

 「もう夜遅いんだからお風呂に入りなさい」

母の口癖であるあの言葉を思い出してお風呂に入ることにした。シャワーの水は少しぬるかった。だんだん自分が何をしているのか訳が分からなくなってきた。母の死体が惜しいなんて。葬儀屋に引き渡せば母はお墓の中で安らかに眠ることができるのだ。そうすれば自分は誰かに引き取られて母のいない生活を繰り返すのだ。それでいいはずなのにそれでいいと思えなかった。まだ母と一緒にいたいと思った。

 いや、本来こんなことがなければずっと一緒だったはずなのだ。母の死なんて嫌いでなければ想像もしないのだから当然なのだ。

 「どうしよう。ママの死体。」

 呟いた言葉に自分でも吐き気がした。これから母の死体は腐っていくのだろうし匂いや見た目、母の代わりに家事をしなければいけないこと、母の仕事場から連絡が来たらどうしようなど嫌なことばかりを想像した。警察に連絡しようと思い、風呂を出てすぐに母のスマホを手に取るが母が居なくなったあとのことを考えると心細かった。


 気づけば毛布にくるまっていた。

 「おやすみ」

 と独り言のように話すが当然のように返答がなく考えれば考えるほど涙がこぼれた。もう一度「ママ」と呼びかけても返事がない。わかっていてももう一度呼んだ、何度も知っている結果を感じた。寝室からリビングへ走り母の体を起こして思いきり抱きしめた。母の服に涙が滲んだ。母の涙ならばよかったのに、母はもう涙すら流さない。寝れないまま夜中の2時を回った頃。リビングでそのまま寝付いてしまった。


 翌朝になっても「おはよう」に返ってくる声は無かった。自分が母の声を無視していた時、母はこんな気持ちだったのだろうか。

 今日は学校だがいつもしつこく起こしてくれる母も、もう起きはしないので、登校時間はとっくに過ぎていた。学校へ行くことより、母と居たい思った。いつもしつこく起こされてはいい加減にご飯を食べて「いってらっしゃい」の言葉も無視して学校に向かうのだが、そんなことを思い出しては過去の自分を恨むばかりだった。

 今日は朝食の香りがしない初めての日だ。家庭科で習っているのは目玉焼きを焼くことくらいなので、作れるのもそれくらいだ。冷蔵庫から卵を取りだしガス栓を開けてフライパンに油を強いて少し熱する。卵を割ろうとすると上手くできず黄身が崩れてしまった。仕方なくスクランブルエッグを作ってしまった。母はどうやって毎日違う朝食を美味しく作っていたのだろうか。なんてもう答えてくれないけれど。


 少し焦げ臭く固くなった卵は母が作ってくれるものとは全くの別物だった。苦い焦げの味は母の作る味をかき消していくようで、母の味を忘れないためにもさっさと適当に飲み込んでしまった。



 しばらくして母のスマホに電話がかかってきた。学校からの電話だ。少年は一瞬慌てたが、無視しても怪しまれるため電話をとった。

「ユウくんのお母さんですか?担任の立花です。ユウくんが今日来ていないのですが、欠席という扱いでいいでしょうか?」

少年は慌てた。

「立花先生。ごめんなさい。母が体調を崩してしまって世話をしなければいけないので、今日はお休みします。」

瞬時に嘘をついた。

「そうなんですね。ユウくんは大丈夫かな?お母さん、お大事にしてくださいね。失礼しました。」

思っていたより上手く信じてくれたが、なんだかますます自分の行動を後悔するようになった。

 

 それからも、自分でご飯を作ったり洗濯物を干したり1人で生活をしながら学校に行ったり、この日常には慣れていったように感じた。ただそれでもゴミ出しや買い物に行く度に母のことを尋ねられるようになった。「最近お母さん見かけないね」「お母さん体調悪いんでしょ?大丈夫?」など学校や隣人などいろんな人に聞かれるようになってその度に新しい嘘をついた。罪悪感だけが募っていったけれど、それでもまだ母のいない生活を拒んでいた。

 

 ピンポーン

玄関のチャイムが響く。静かな部屋で少年は母の周りを飛ぶようになったハエを追い払っていたところだった。少年は応答しようか1度迷ったが、居留守を使うことにした。

 「ユウくん、アンタ大丈夫?お母さん見かけなくなってから随分経ったけれど、お母さんアンタ置いて出ていったりしてない?」

少年は息を飲んだ。隣人の渡辺さんだった。

「ユウくん?」

少年は正直この生活が苦しかった。母とずっと一緒にいたいと言っても、隠すことが苦しかった。それでもこの生活を守ってきた。

 「渡辺さん、僕大丈夫です。」

「ユウくん、入っていもいいかな?」

「あ」と声が漏れた。

「平気です!」

と咄嗟に答えた。

「みんなアンタのことも、アンタのお母さんのことも心配してるよ。下手したらお母さんアンタ置いてでてったんじゃないかって」

みんなが心配しているという事実を、ここで初めて知った。ただ少年は母との生活をやっぱり諦められなかった。

「2人とも平気なので、大丈夫です!」

「でも…」

「どっか行ってください!」

つい感情的になってしまった。渡辺さんは僕たち家族とずっと親しくしてくれてとても優しい人だった。まるで家族の一員と思えるまでだった。

「そうかい。なにか困ったことがあったら、いつでも頼っていいんだからね。分かった?」

そう残して渡辺さんは玄関から去ってしまった。


 また数日経ってから電話が来た。

お母さんの会社からの電話だった。内容は母が解雇処分になったということだった。もう二週間ほど経った。

 お金もそろそろ無くなりそうだった。ある日買い物に行こうとしてお母さんの財布や自分の貯金からはお金が無くなってしまったので棚を漁っていた。すると奥から遺書と書かれた封筒がでてきた。随分経ってしまった。母の死体は異臭を放つので寝室に閉まっておいてリビングでは窓を開けキッチンでは換気扇を回している。もう母の遺体を目にすることも無くなっていた。ここに来て母の死をもう一度実感した。

 封筒を開けて静かに紙を開いた。


 ユウくんへ

読んでくれているかどうかもわからないけれど、最後にどうしても伝えておきたいことを書きます。

まずは、ごめんね。ユウくんが年頃の男の子ってことも分かっているんだけれど、昔みたいに世話する必要も無いくらい大きくなっちゃってお母さんまだうまく飲み込めないの。反抗期も、自立するためなのはわかっているんだけれど、うまく対応できなかったことをずっと後悔しています。でも、それはあなたのせいじゃない。あなたが自分の道を探しているだけなんだって。お父さんを失ってから、私はずっと心の整理ができないままでした。結婚してみんなで幸せな生活を送るはずだった。人生の半分以上を一人で抱え込むことになって、どうしても気持ちが折れそうになることがありました。仕事やお金のことで必死になって、あなたと向き合う時間が足りなかったことも、今になって痛感しています。

この世を去ることで、あなたに迷惑をかけることになるのはわかっています。でも、もう心が疲れてしまって、どうにもならないのです。どうか私の死を恨まないで。私はあなたを心から愛しています。あなたが幸せになること、それだけを願っています。

これまでの私の至らなさや弱さをどうか許してください。これからはあなた自身の人生を大切に生きてください。

 ユウくんは強く生きてね。ごめんね。

 


 少年は上手く理解ができなかった。

 きっとここには書けないけれど、たくさん抱えていることがあったのだと思った。僕は支えるべきだったかもしれない時に強く当たってしまった。どう思えばいいのか分からなくなった。封筒にはあとひとつ紙が入っていた。少年が幼い頃に描いたカエルの絵だ。母が過去にプレゼントしてくれたカエルの人形を描いたものだ。僕はカエルのぬいぐるみを無くしてしまったけれど、母はまだこの絵を大切に保存していたのだ。

 涙が止まらなかった。手紙の右下には涙の跡が残っていた。母はどんな気持ちでこれを書いたのだろうか。罪悪感が込み上げてきてすぐさま渡辺さんのところを尋ねた。


 今、母のいる部屋がどうなっているか分からない。きっと最初より酷い姿になっているのだろうと思った。母の拭いきれない苦痛はカエルが食べてくれるのだろうか。




母の形

 僕は今までの出来事を全て渡辺さんに語った。渡辺さんは目に涙を浮かべながら静かに話を聞いてくれた。僕の目にも涙がこぼれた。渡辺さんは黙ったまま、僕を抱きしめてくれた。


 母は火葬された。僕は母の葬式に出席した。渡辺さんも着いてきてくれて僕を責めないでくれた。親族はみんななんとも言えないような顔で、僕は謝ったけれど謝りきれなかった。

 

 僕は渡辺さんと暮らすことを決めた。渡辺さんはお母さんのこともよく知っていて、お母さんから僕の話を聞いていたこともあって僕の好きな食べ物がカレーであることも知っていたそうだ。渡辺さんと暮らすなり初日からカレーを作ってくれたが、母の味に少しだけ似ている気がした。母の作るカレーのレシピは渡辺さんが教えたそうだ。


 お母さんへ

僕は悪い事をしたと思う。ただ僕はお母さんがいない世界を理解することができなかった。お母さんの挨拶を無視してばっかだったけれどそれも今は後悔してる。どうして返さなかったんだろう、酷いこと言ったんだろうって何度も振り返ってしまう。そう思ったってもう遅いのは分かってる。けど本当に僕は申し訳ないと思ってる。お母さん。僕のこと許せなくたっていいから、天国では幸せになって欲しいです。僕はママの作るカレーが大好きです。

 お母さん大好きです。お父さんも。


 ユウより


生きていたお母さんは、形だけ残って僕は手放せなかった。けど今もお母さんの作るカレーにはお母さんの味や面影が残っていて、魂ももう見えないけれど僕を見守ってくれているように感じた。




 形が変わっても、ずっとそばに。最愛の母に向けて

私はある種のマザコンなのですが、親にも様々な形があると思います。と言えどもプライベートまで入り込んでくる過保護な親もいればまるで住んでる次元が違うほど干渉してこない親、普通の親というものはないのでどれが正解というのもありませんが、どんな形でも家族は家族なのです。定義が本来のものとは異ならない限り両親は多くの場合家族に含まれます。こんな親嫌だ。こんな家抜け出したい。私もそう何度も思い、もはやこの世から去ってしまおうとも思いました。それでも私という命を紡いだのも親、責任を取らずとも私が今こうやって自由でいられるのは親のお陰。肉体に縛られるより魂として生きる方が自由と思うかもしれないですけど、私は人間に産まれた限りは人間の人生を楽しもうと思っています。人だから感じる痛み、味、景色、感情、全て親からの贈り物です。偉大なる母、父に感謝。


ここまで読んでくださってありがとうございました。初めての作品なので至らないところもいくつかありますがこれからも活動頑張ります。

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