結婚は延期ですか? 絶対に嫌です!
ここ最近のソフィには、良い話と悪い話があった。
――良い話は、結婚が決まったのだ。もちろんソフィの。
ソフィの父は王国騎士団の古株であり、すでに第一線は退いたものの、訓練教官や上層部の相談役として役に立つそうで、今でも王城に通っている。
そんな父の道楽として、結婚の世話焼きがあった。
騎士団と取引のある商会の、顔が広い奥方と手を組んで、独り身の騎士と年回りが合う女性との仲立ちをしているのだった。
どうやら人を見る目はあるようで、縁を結んだ男女はその多くが上手くやっているのだとか。
そうしてある日の夕餉の席で、そういえばと、唐突に切り出されたのである。
「ソフィ、見どころのある騎士がいるんだが、良ければ見合いをしてみんか?」
学校を卒業して歳は十八になった。
どこかで仕事を探そうと思っていたけれど、良縁があるのなら、それに乗るのも悪くない。
もちろん、後で後悔しそうな相手と安易に一緒になるつもりはないけれど。
――厳しめに、見定めさせてもらおうかしら。
謎の上から目線を伴い、半ば男性と話す練習のつもりで見合いの席に臨んだ。
見合いといっても形式ばったものではなくて、二人でお茶をするだけなのだけれど。
そうして指定された喫茶店で先に待っていたのは、絶世の美男である。
すっきり通った高い鼻梁。
切れ長の青い目。
この国では珍しい黒髪が、短めに整えられている。
背が高く、鍛えられた身体はやや細身ながら、しなやかな肉食獣のようだ。
背筋がピンと伸びていて、とても姿勢が良い人だった。
「きちんとお話するのは初めてですね。改めまして、ルシアン・スヴェストルです」
男性的な低い声が、耳を擽る。
彼のことは、これまで何度か見たことがあった。
ソフィの父は、たまに若い騎士たちを家に連れてきては食事や酒を振る舞う。
振る舞うといっても、料理を作るのは母やソフィなのだけれど。
そうしてそんな中に、時折ルシアンの姿もあった。
綺麗な人だなと、皿を運ぶタイミングでこっそり横顔を覗いていた。
料理のお礼を言われたりすると、その日は寝るまで舞い上がってしまった。
そんな彼が、テーブルを挟んで自分と向かい合っている。
「ソ、ソフィです。今日はよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしく。あなたのお父上にはとてもお世話になっているんです」
ルシアンは子爵家の三男。
歳は二十でソフィの二つ上。
家を継ぐ目はないからと、小さな頃から将来は騎士として身を立てたいと考えていたのだそうだ。
十で他家へ小姓に出て、十五で騎士学校に入り卒業。
そうして昨年には国から叙任を受け、騎士団入りを叶えたのだという。
「俺はいくら食べて鍛えても、あまり筋肉が付かなくて。だから力じゃなくて技と速さで勝負するんですけど、団では卑怯者って嫌われてます」
笑い話なのだろう。
彼の目が細まり、口端が少し上がった。
受けた印象としては、堅実で実直な人だな、というもの。
目の前に座る美しい人は、子供の時からしっかりと目標を立て、そこに向けて正しい努力を積み、そしてきちんと辿り着いた。
とても立派なことだと思う。
些か整いすぎた外見は、きっと彼の本質を表してはいないのだろう。
宝石の類ではなく、川辺に転がる無骨な石のような。
地にしっかりと根を張り、真っ直ぐと上に伸びる樹のような。
そんな気質は、ソフィにとって好ましいものである。
――この人、素敵すぎない?
ドキドキと、胸が早鐘を打つ。
比べて、自分が誇れるものはなんだろう。
料理にはわりと自信がある。
男なんて胃袋を掴んだら勝ちよ、という母の信念のもと、子供のころから厳しく仕込まれた。
微妙な塩加減が命の繊細なスープから、大味な酒の肴まで、なんでも来いである。
年一回行われている王都の千切り大会では、たまに出場すると、結構いいところまでいく。
容姿だって悪くはないはずだ。緑の目とブラウンに波打つ髪。
学生の頃には、何度か同級生や後輩から思いを告げられた。残念ながら通っていたのは女学校だったけれど。
女性にしては高い身長に少し劣等感があるけれど、背の高い彼の隣なら、バランスも丁度良いのではないか。
夢中で話しているうちに、すぐに時間が来て会はお開きとなった。
途中、緊張で喉が乾き、味の分からないアイスティーを三杯もおかわりした。
もはや、完全に水腹である。
家まで送ってもらい、父に挨拶をして踵を返すルシアンの背中を見えなくなるまで見送った。
「ソフィ、あいつはどうだった?」
「素敵な人だと思いました。私としては問題ありません。もし良い返事がもらえたら、結婚に向けてお付き合いしたいと思います」
なるべく余裕ぶって、そんな風に返した。
頭の中は、なにか変なことを言わなかったか、ひとり反省会のまっ最中である。
次の日には是非に話を進めたいと返事が来て、少し浮くくらいに心が羽ばたいた。
――もう一方の悪い話、こちらはソフィの個人的なものではないけれど。
もうすぐ、戦争が始まりそうなのだ。
相手は海の向こうの国。
風や波に恵まれれば船で五日ほどらしい敵国に攻め込むため、国は今や大々的に兵士の徴募を呼びかけている。
王都にほど近い軍港では、国中から集められた船大工たちが昼夜を問わず船を建造しているのだそうだ。
この国の王は戦好きで、即位してからの十五年でこれまでも二度、隣国と戦争を起こしている。
当時はソフィの父も出征し、無事に帰ってくるまで不安な日々を過ごしたことを覚えている。
武人である騎士にとって、戦は武功をあげる絶好の機会であることは、ソフィにも分かる。
その家族は誇りと覚悟を持って、快く戦場へ送り出すべきなのだろう。
それでも今回、父とルシアンが所属する隊は残留組なのだと聞いて、ほっと息を吐くのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それからは、ルシアンが休みの日には、よく街で食事や買い物をした。
たまには舞台を観たり、植物園まで足を伸ばしてみたり。
そうして話し合うのだ。これからのことを。
「式には学生の時の友人たちを招待したいと思っているんですけど、ルシアンさんは何人くらい呼ぶ予定ですか? なるべく同じくらいの人数にした方が良いかなって」
「そうですね……ただ飯や酒目当てでそれなりに集まるんでしょうが、あまり大げさにしてもな。二人で合わせて五十人くらいではどうでしょうか?」
「その辺が無難ですかね」
「先にソフィさんの招待客を決めてしまってください。半数より多くても構いませんよ。俺は残りでやりくりしますので」
街の教会に予約を入れる。
料理の評判が良い酒場の貸し切りも話をつけた。
衣装の準備をしたり、招待状を書いたりと慌ただしく過ぎていく日々の中、ただ幸せだった。
「結婚後の住まいはどうしますか?」
現在、ソフィは実家、ルシアンは王城の敷地内にある騎士宿舎に住んでいる。
「国仕えの騎士はそれなりに待遇が良いんです。既婚者は国が押さえている戸建てやアパートメントを安く借りられますが、なにか要望はありますか?」
「できればなんですけど、古くても狭くても構わないので、庭がある家がいいです。私、野菜を育てたくて」
実家にも小さいけれど庭があり、そこで母と家庭菜園をしていた。
野菜は良い。
手間をかけて世話をすれば、それにきちんと応えてくれる。
食卓を美味しく健康的に彩ってくれる。
「庭ですか、そうですね……中央は無理でも郊外の方になら残っているかもしれません。管理している者に訊いてみます」
「あ、それだとルシアンさんがお城に行くのに遠くなっちゃいますよね。やっぱりいいです」
「それくらいは構いませんよ。一日中、城壁の内側から出ない生活だったので、気詰まりしていたんです。結婚を機に、大きく環境を変えてみるのもいいでしょう」
そう言って、ルシアンが微笑む。
もしかしたら庭付きの戸建てに住めるかもしれない。
好きなだけ野菜を育てられるかもしれない。
赤、橙、緑、色鮮やかな妄想が、際限なしに膨らんでいく。
結婚式まで一月を切った日、待ち合わせの場所に行くと、ルシアンが暗い表情で立っていた。
目はどこか虚ろで、ソフィが正面から近づいても気づく様子がない。
「ルシアンさん?」
声をかけると、びくりとして顔を強張らせる。
――何か、良くない話があるのね。
なかなか動こうとしないルシアンを、無理やり引っ張り込んだ喫茶店で、果たして悪い予感は当たった。
「大変申し訳ないが、結婚を延期させて欲しい」
テーブルにぶつかる勢いで、ルシアンが頭を下げる。
二人の間の空気が、しん、と張り詰めた。
付き合ってまだ日は浅いけれど、彼が誠実な人だということは分かっている。
なるべく冷静を装って、理由を訊いた。
「……戦争に行くことになりました」
「ルシアンさんや父さんのいる隊は、国防の方に振り分けられたって……」
いつもより一段低い声が、憂いの影を帯びる。
訓練試合で連勝していたルシアンを、たまたま見かけた国王が気に入って、今回の出征での直率部隊に引き入れたのだという。
「悪いがあれは断れない。もし陛下の不興を買えば、俺の上官にも咎めがあったかもしれない」
「……」
王から直に目をかけられる。
騎士としては、誉れだと喜ぶところなのだろう。
それでもなにか悪いものが、じわりと足元に這い寄ってくる感覚がした。
「もちろん死ぬ気はないですが、戦場でどうなるかは分からない。いつ帰ってこられるかも分からない。だから延期というよりは、白紙化ですかね。生きて帰ってきて、あなたが他の男と所帯を持っていたとしても、決して恨み言は言いません」
そう言って、苦そうに笑う。
瞬間、怒りに近い感情が、沸々と煮えたぎった。
「……私は知らないのですが、戦を前にして結婚したり女を近くに置いたりすると、武運が落ちるなどの験担ぎはあるのでしょうか?」
「いや……そんなものはないでしょう。禁欲であるべし、という騎士の教えはありますが、もう昔の言葉が残っているだけです。出発まで、娼館の経営者は笑いが止まらないんじゃないでしょうか」
「それなら、延期も白紙化も嫌です!」
「……俺が死ねばあなたの結婚歴に傷を付けてしまう。無事に帰ってこれたら結婚しましょう」
――そんなの、嫌だわ。絶対に。
激情に駆られるまま、ダン、とテーブルを叩いてしまう。
カップの水面が揺れ、氷もカランと鳴った。
大きな音に、周りの席から注目が集まる。
感情的で面倒な女だと、呆れられてしまうかもしれない。
それでも、引くわけにはいかなかった。
ふう、とゆっくりひとつ息をしてから、
「私は騎士の娘です。私は多分、戦地に行った夫の帰りを待つことには耐えられます。父を送り出した母の背中を見て、そんな風に育ったのだと思います。たとえルシアンさんが帰ってこなかったとしても、誇りを杖にして立ち上がり、また歩き出せるでしょう」
ルシアンの目を、そのさらに奥にあるものを、射抜くように見据える。
どうか、この思いが届きますように。
「けれど、結婚するはずの人を毎日どうか死なないでと待つのは、とてもきついです。どうか私をあなたの妻にしてください」
虚を衝かれたように、ルシアンの瞳が揺れる。
それから瞼を閉じて腕を組み、しばらく頭をガリガリと掻いた後、再び見開いた彼の碧眼には決意の色が乗っている気がした。
「分かりました、俺も腹を括ります。式は予定どおりに挙げましょう。やれやれ、あなたは俺よりよほど胆力がある」
「騎士の娘ですので。騎士の妻にもなる予定です」
聞き耳を立てていたらしい客たちから、拍手が贈られる。
最後は泣き笑いのようになってしまい、なんだか締まらなかった。
それから、予定どおりに結婚式を挙げた。
互いに白の衣装を纏い、神父の問いかけに誓いの言葉を返し、初めての口付けを交わす。
大きくもない教会は、幸せで充ちていた。
酒場での二次会では、それぞれの招待客がこちらの席に来ては祝いの言葉をかけてくれた。
「よぉルシアン、おめでとさん。綺麗な花嫁さんで羨ましいこった。初めましてお嬢さん、俺はエミール・アレオンと申します。ルシアンと同じ隊で騎士をやってます。以後お見知りおきを」
長い髪をたおやかに流した色気のある美男子が、笑顔で挨拶をしてくれる。
やや軽薄そうだけれど、女性にはとても人気がありそうな人だ。
歳はルシアンと同じくらいなのだろう。
二人の間には、気安い空気があった。
「初めまして、ソフィです。もしかして、アレオン伯爵家に縁のある方でしょうか?」
「はい。しがない出がらしの四男ですが――」
「エミール、お前は彼女に近づくな!」
ズイッと顔を近づけてこようとするエミールの壁になるように、ルシアンが割って入る。
ソフィに対する時とは調子が違い、それがおかしかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
出征まであと三月。
二人は王都の郊外に建つ家で、新しい暮らしを始めた。
家は少しくたびれていたけれど、二階建ての広々とした間取りでなんと畑付き。
プランターで野菜を育てようと思っていたソフィにとって、望外の喜びである。
「ルシアンさん、お好きな野菜はなんですか? 私、頑張って育てます」
「うーん、特に食べられないものはないですが、どちらかと言えば肉の方が好きでしょうか」
「まあ、それは残念です。そのうちに野菜の真髄を教えて差し上げます」
早朝に起き出しては野菜の世話をして、朝食の準備。
ルシアンを送り出してから、洗濯や掃除など。
手早く昼食を摂って、また畑仕事。
たまの午後には、騎士団の奥様たちとのお茶会にも参加する。
帰宅した彼と夕食を食べ、夜は一時も離れないくらい、ぴったりとくっついた。
ルシアンは優しくて情熱的だけれど、綺麗や愛してるといった言葉は口にしない。
それでも良いのだ。
彼の視線から、確かな熱を感じるから。
背をなぞる指に、輪郭を覚えようとする必死さがあるのだから。
結婚前と変わらず、休みには二人で色々な所へ出かけた。
森へピクニックに出かけた際には、ルシアンは弓でウサギを二匹も仕留めてみせた。
しかも二射で外れなし。
これにはソフィもびっくりである。
「ルシアンさんは剣だけじゃなく、弓もすごいんですね!」
「子供のころ小姓として仕えていた騎士が、弓の得意な方だったので教えてもらいました。遠征で野営することも多いので、現地で肉を調達するのに便利なんですよ」
そう言いながら、手早く血抜きをするルシアンの横顔が、いつもとは少し違って見える。
獲物を仕留めた高揚感からか、どこか生々しい色気を放っており、縫い留められたように目が離せない。
――私の旦那さま、素敵すぎるわ。
ソフィにはいつも丁寧な態度と言葉で接してくれるルシアンだけれど、彼だって男で、しかも武人だ。
根本には荒々しい部分もあるのだろう。
隠れていた一面を見た気がして、胸が早くなる。
「ルシアンさん、猫はお好きですか?」
「猫ですか……」
「友人の飼っている猫が妊娠したそうで、生まれたら一匹お迎えしたいと思うんですが、いいでしょうか?」
「そうですね……俺も猫は好きなので大歓迎です。戦から帰って来る励みになる」
仔猫が乳離れし、この家に来る頃には、彼はもう海を渡っている。
この広い家でひとりになりたくなくて、こんなことを言っているのだとばれてしまっているだろうか。
出征まであと一月を切った。
昼下がり、所用をすませて家に帰ると、まだ城にいるはずのルシアンが先に戻っていた。
窓を開け、ぼんやりとした様子で紫煙をくゆらせているのが外から見える。
「ルシアンさんって、煙草を吸うんですね。知りませんでした」
家に入り、ただいまの挨拶もしないまま、背中に向かって聞いてみる。
「ああ、お帰りなさい。今日は思いがけず早上がりになりました。あなたの前では控えていたんですが、最近は吸う本数が増えてしまって。出かけているようだったので油断してしまいました」
振り返ったルシアンは、親に秘密基地を見つけられた少年のような顔で、火を消そうとする。
「火の始末さえ気をつけてもらえれば、私は全然構いませんよ」
ルシアンはそれから一口だけ吸って、ゆっくりと窓の外へ煙を吐きながら、火を消した。
「やはりあなたの前では止めておきます」
「別にいいのに。でも、なんだかイメージに合わないというか、意外でした」
「兵や騎士には吸うものも多いですよ。野営などでは暇を持て余しますし、大っぴらに酒を飲むわけにもいかないので。俺は学校で悪い先輩に教えられました。吸える場所が決められていることが多く、普段は話さない相手と会話するきっかけになったりもします」
また彼の知らない一面を知った。
当然だ。見合いをしてからまだ数ヶ月。
これまでに彼が歩いてきた人生の、まだほんの一端程度しか共に過ごしてはいないのだから。
これからも、新しい顔を知っていくのだろう。
けれど、彼は戦争に行ってしまうのだ。
そのことが現実味を帯び、今更に恐ろしくなった。
「俺が戦争に行っている間、ソフィさんは実家に戻りますか? 家族の住所を登録しないといけないんです」
「そうですね……実家に顔を出すことは増えると思いますけど、私はこの家にいますよ。野菜の世話もありますし」
そんな会話をした一週間後、いよいよ、出発の時が来た。
「それでは行って参ります。留守を頼みました」
いつものように騎士服を纏ったルシアンが、いつもとは少し違う挨拶をする。
見送りは家の前までで良いと言われてしまった。
騎士の妻として、ここは毅然とした態度で送り出すべきだ。
平気なふりをして、ご武運を祈りますと、そう言えばいいのだと分かっている。
そもそもが、そういう話で結婚を押し切ったのだから。
それでも、拠り所になるものが欲しかった。
「ルシアンさん、どうか私と約束をしてもらえませんか? 必ずもう一度、顔を見せ声を聞かせてくださると。その手で触れてくださると」
ルシアンが、少し困ったように眉を下げる。
意識はすでに戦場へ向かっているのかもしれない。
今更、女々しい我儘など嫌がられてしまうだろうか。
「俺は騎士なので、守れないかもしれない約束はできません。ですが、自身とあなたに誓うことならできます」
ルシアンが数瞬だけ微笑んだ後、真剣な顔つきになる。
ソフィの片手を取りながら、片膝をついた。
「私、ルシアン・スヴェストルは誓います。必ずまたここへ、あなたのもとに帰ってくると」
手の甲に口付けて、静かに立ち上がり、あとは物言わずに去っていく。
だから、遠ざかる背中にただ祈ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦中ではあるけれど、こちらから攻め入っているからだろうか、街の様子はまだ平時とあまり変わりない。
変わる時には一気に変わるものなのだとか。
噂では、海の向こうでの自国の優勢が聞こえてくる。
果たして本当なのだろうか。
実家に顔を出した際、母に愚痴をこぼす。
「母さん、一日が長いの。私は何をしていればいいのかな?」
「いつもの倍、働きなさい。無心で働けば余計なことを考えないし、くたくたになったら夜もすぐ眠れるわ」
母が少し寂しそうに笑う。
だからソフィは、がむしゃらに働くことにした。
この夏は天気が良い日が多く、雨も程よく降って、野菜が大きく実った。
トマトやキュウリにナス、カブやイモ、それに豆。
炒め物やスープに入れて食べたり、保存用に漬けたり、実家や近所に裾分けたり。
王国騎士団には、騎士の配偶者たちで結成された婦人会がある。
長である団長婦人が掛けた大号令のもと、貴族や資産家からの援助金に各々が金貨を上乗せし、それを使って軍とは別系統で物資をかき集めた。
ソフィも婦人会の新参として奔走した。
あちこちの商会を訪れては、民間に流す品の一部を買い取れないかと頭を下げる。
そうやって集めたものを軍の後発の輜重船に乗せ、次々に前線へと送ってもらった。
ソフィが育てた野菜は、無事に届き少しでも男たちの腹を満たしているだろうか。
残念ながら、個人宛の手紙は届けられないとのことだった。
忙しい中でも毎日教会に通い、祈った。
――どうか、ルシアンさんが無事に帰ってきますように。
怪我をしませんように。病気になりませんように。
飢えませんように。凍えませんように。
戦争の相手国は、この国とは言葉や宗教さえも違うのだそうだ。
海の向こうでも、別の言葉で他の神に祈っている自分のような女がいるのだろう。
その隣にはまだ幼い子供がいて、母親の真似をして手を組んでいるのかもしれない。
――戦争なんて、本当に……。
気丈なふりで日々を過ごしても、時折、無性に心細くなることがある。
二階から、不意にルシアンが階段を下りてきてくれたら。
今日の夕食は何ですか、なんて言って、後ろから抱きしめてくれたなら。
そんなふうに想像し、心を慰める。
どうやら、自分は思っていたより弱かったようだ。
疲れていても日々の眠りは浅く、夜中によく目が覚めてしまう。
暗闇の中、もしかしたらとベッドの反対側に手を伸ばし、虚しく空を切っては溜息を呑み込んだ。
それから、季節が一巡した。
ジリジリと店先から品物が減っていく先の見えない暮らしの中で、それでも婦人会は海の向こうへ物資を送り続けた。
値が付く調度品から、代々受け継いできた指輪まで見境いなしに擲っては軍需品に代えていく。
自分たちの食事さえ切り詰めて、痩せられて良かったわ、なんて笑っている。
これは、戦いに行った男たちと背中合わせ、残された女の戦いだ。
彼らが国のため、民のために命を懸けるなら、こちらは喜んで一切れのパンと僅かなスープで食事を終える。
だけれど、限界はいつか来るのだ。
あとどのくらい持ちこたえられるだろうか。
そんなある日、唐突に、戦争は終わった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
侵略は失敗。今は帰れる者から順次、引き上げているのだそうだ。
――王が、討たれたのだ。
ソフィを含め、港には日々、戦争に行った者たちの家族が押し寄せた。
航跡を引いた船が近づいて来る度にざわめき、下りてくる一人ひとりの顔を、固唾を呑んで凝視する。
待ち人に抱きつくことができた幸運な女の隣で、別の女が羨ましそうな目をして肩を落とす。
一週間経っても、一ヶ月経っても、ソフィの待ち人が船を下りてくることはなかった。
少し考えれば子供でも分かる。
彼は王を近くで守るため、戦場に行ったのだ。
そして王は敵の手にかかって命を落とした。
ならば、ルシアンは――
思考がその辺りに差し掛かると、へたり込んでしまい、動けなくなる。
必死で別のことを考え、悪い予想を振り払った。
早朝、今日も港に行こうと家を出ると、低い曇天の下、馬と並んで男性が立っていた。
「あなたは……エミールさん」
結婚式の日、ルシアンの肩を叩き陽気に笑っていた彼が、今は口を固く引き結び、表情を凍てつかせている。
「奥方、申し訳ない。どうしてもドアをノックできず、こうして待っていました」
凄まじく嫌な予感に打たれ、肌が粟立ち嘔吐きそうになる。
――聞きたくないわ。
けれど心は疲れ、楽になってもしまいたいのだ。
促すように、ひとつ頷く。
「戦場清掃が終わったようで、遺体から回収された認識票が送られてきました。……中にはルシアンの物もありました。謹んで、ご通知を申し上げます」
懐から出した封書を渡される。
戦死の通知書なのだろう。
のろのろと、震える手でかろうじて受け取った。
頭の芯が痺れたように、鈍くしか考えられない。
「……あの人の最後は分かりますか?」
浮かんだことを、そのままに聞いてみる。
「人伝で聞いた話になりますが、船に戻る撤退戦で果てたのだと。退路をふさぐ敵軍の将の首を、あいつは一矢で貫いたのだそうです。おかげで敵の指揮は乱れ、より多くの兵が帰還できました。けれど目立った本人は恨みを買い、とても突破できない数の敵兵に囲まれてしまったのだと」
「そうですか……ルシアンさんは弓がとてもお上手でしたもの」
優秀だけれど、どこか不器用な人なのだ。
訓練試合で適当に手を抜いていたら、戦争に行かずにすんだ。
敵将へ弓を絞る時間で逃げていたなら、帰ってくることができたのかもしれない。
「もう少し落ち着いたら、勲章が授与されると思います。その際はあいつに代わり、あなたに受け取っていただきたく」
「王様を守れなかったけれど、それは咎められないのですか?」
「亡き前陛下は、我先にと最前線へ馬を駆る困ったお方でしたので、問題にはならないでしょう。それと、封の中には遺書も入っています。海を渡る前に予め預け、帰ってこられなかった場合には指定した相手に届けることになっているものです」
「……ありがとうございます。ご苦労さまでございました」
困ったことがあればどうか頼って下さい。そう言い残してエミールが去った後、家に戻る。
几帳面な字で綴られた手紙を、何度も繰り返し読んだ。
涙は出ない。
心はひび割れて、底が抜けた。
湧き上がった感情は、処理できないままどこかへ逃げていく。
世界が軋みを立て、自分とその周りに隙間ができてしまったような。
そうしてその空洞を、乾いた風が吹き抜けるのだ。
それからの日々はぼんやりと焦点が合わず、けれども足早に過ぎていった。
城に呼ばれ、代理で勲章を受け取った。
懐いてきた黒い野良犬を飼った。
先住の猫とは喧嘩をしたり、たまに日向でくっついて寝ていたり。
ルシアンの墓を建てた。
骨の欠片さえ帰ってはこなかったから、せめてもと棺には勲章を入れる。
「すまなかったな、ソフィ。こうなってしまうとは……」
葬儀の後、父が殊勝な顔をして頭を下げてくる。
「後悔はしていないわ。短い間だったけど、私は幸せだったもの」
決して強がりではない。
それでも、もしも時間が巻き戻るなら。
一緒に遠くへ逃げてと泣きついていたならば。
――馬鹿だなぁ、私は。
決して、自分ひとりが不幸なのではない。
周りには同じような境遇の人々が溢れている。
張り裂けそうな痛みを抱え、それでも歯を食いしばって前を向こうと日々を生きている。
いつまでも蹲ったままではいられない。
『たとえ帰ってこなかったとしても、誇りを杖にして立ち上がり、また歩き出せるでしょう』
そう言ったのは、自分なのだから。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから、しばらくの月日が経った。
借りている家は、あと一年ほど住めるのだそうだ。
その先は実家に戻るか、気分を変えるためどこか他所へ流れるか。
――だけど、王都にはルシアンさんのお墓があるからなあ。
夕暮れ時。墓前で祈り、供えた煙草の一本に戯れで火を点けてみる。
入ってきた煙に咳き込んでいると、背中に気配があった。
「生きているうちに、自分の墓を見ることになるとは思わなかったな……」
低い声――しゃがんだまま振り返ると、背の高い男性に見下されていた。
夕日の逆光で、顔がよく見えない。
「……私があまりに情けないので、叱りにきてくれたのですか?」
「ただ今戻りました。え、叱る?」
「もう、つらくて。私も連れて行ってもらえますか……?」
「ソフィさん、どうしたんですか?」
縋り付いた身体は、がっしりとして確かな温度があった。
汗や土が混じったような、男の匂い。
失調した精神が見せた幻にしては、存在感がありすぎる。
胸に押し当てていた顔を、恐る恐る、上げてみる。
希望を持ってしまった。
これで彼がいなかったなら、もう無理だ。
――果たして、そこにルシアンはいた。
変わらない青い目と、伸び放題の黒い髪が、夕日に染まっている。
以前より痩せた顔は、どこか放心しているように見えた。
「家の近くまで行ったんですが、近所の人にあなたはここにいると聞いて来たんです。またこうして会えるとは、正直思っていなかった。俺はずいぶんと運がいい」
鼻の奥がツンとして、視界が滲む。
会いたくてたまらなかった人の顔を、しっかりと見ることができない。
「ルシ……ァ……さ……ぐ、うっ……うう……っ」
感情が奔流となって暴れまわり、声は嗚咽にしかならなかった。
全身から力が抜け、膝が崩れる。
傾いだ体が、固い腕にしっかりと抱きとめられた。
「俺もまだ、あまり実感がないのです。夢ならどうか、覚めないでほしいものだ」
落ち着いてから話を聞いた。
彼の名が刻まれた墓標の前で。
戦場で敵将を討った後、兵に囲まれたルシアンは、一か八かの賭けに出たそうだ。
乗っていた馬を逃がしてから、自身は地面を転がるように、低く低く戦ったのだという。
そうして土と泥に塗れながら、僅かな機を見て鎧を外し、将の仇の外見から徐々に遠ざかっていって。
「まあ、正々堂々を謳う騎士の道からはだいぶ外れていましたね。それでも俺は、どうしても帰りたかったんです。包囲を逃れ、混戦状態の所に辿り着いたあたりで、最後は後ろから頭を殴られ気絶しましたが」
そう話す彼の顔や手には、大小様々な傷跡があった。
見える部分でこれなのだから、全体ではどれだけ傷ついたのだろうか。
「目を覚ましたら捕囚として牢につながれていました。俺の持ち物は下着だけで認識票すら付けていなかった。戦死認定されたということは、俺の認識票を剥ぎ取った奴がいて、それを付けた状態で死んだんでしょうね」
そう言って、髪の伸びた頭を掻く。
「ようやく全員分の身代金が払われて、捕虜解放の話がまとまったそうです。あやうく奴隷として売られるところでした」
囚われていた日々を思い返したのか、ルシアンが渋面をする。
騎士である彼は、本来ならもっと優先して解放されるはずが、身分を示す手段がなかった。
説明しようとしても、言葉が通じなかったのだそうだ。
この国は戦争に負けた。
相手国への賠償が発生するだろうし、次は向こうから攻め込まれるかもしれない。
王が変わって政治が乱れることもあるだろう。
なかなかに先行きは暗いけれど、それでもルシアンが帰ってきてくれた。
奥底から、枯れかけていた活力が勢いよく湧いてくる。
「帰りましょう、ルシアンさん。今日は腕によりをかけてご馳走を作ります! ご飯の前にお風呂にも入ってくださいね。髪も切りましょうか」
「ええ、そうしましょう。騎士団に顔を出すのは明日でいいか。連中、死人が戻ってきたって驚くぞ」
そんな言葉を交わしながら、家への帰路を歩いていく。
もう離れぬよう、しっかりと手をつないで。
なお、一年半ぶりに帰宅したルシアンは、壁に掛けられた額装の遺書を見て、しばらく顔色と言葉を失った。
代わりとばかりに、同じ名前の黒い犬が、ワンとひとつ鳴いたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
拝啓 ソフィ様
お障りなくお過ごしでしょうか?
この手紙を読んでいるということは、俺は貴女のもとに帰ることができなかったのでしょう。
誓いを守れず不甲斐ない限りです。
手紙を書きながら、貴女と過ごした日々を思い返していました。
貴女の料理は、どれも本当に美味しくて力が出た。
俯いた時の長いまつ毛が綺麗で、息をするのも忘れました。
並んで歩くとなんだか気分が良くて、世界が少し違って見えた。
宝物のような毎日に、俺がどれだけ舞い上がったことか。
貴女と一緒になる前は、ひとりでいても寂しいと感じることはなかったんです。
けれど、家に帰るとおかえりなさいの言葉とスープの良い香りに迎えてもらえる。
これは、たまらなかった。
貴女の夫になれた俺は、世界一の幸せ者でした。
白状しますが、貴女と見合いがしたいと、実は俺から頼んだんです。
気恥ずかしくてお義父さんには口止めをお願いしていました。
若い騎士たちの間では、貴女との見合いの順番をかけて日々勝負が行われていたんですよ。
死にものぐるいで、俺が一番をもぎ取りました。
もし次の生があるのなら、貴女とは年が合わないから、犬がいいですかね。
これも言っていませんでしたが、実は俺、犬派なんです。
俺っぽい犬が道端で尻尾を振っていたら、拾ってやってもらえると嬉しいです。
それでもう十分なので、俺のことはいなかったものと忘れ、良い人と一緒になって下さい。
だけどエミールの奴は駄目です。
あれは気安く付き合える男だけれど、女性にはかなりクズなので、近づいてきたらお気をつけて。
それではこの辺で。
どうか、ご無理をなさいませんように。
どうか、お体に気をつけて。
そしてどうか、お幸せに。
貴女を愛したルシアンより
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