3.闇との取引
ある日の夜。王都とバルダを結ぶ街道沿いの宿泊地にたなびく旗があった。太陽と十字を組み合わせた輝かしい意匠が施されたそれは国教会、それも教皇庁に所属する隊にのみ許された栄誉ある旗であった。その天幕の一つである男が、胸を押さえ苦しみ喘いでいた。
「私は・・・まだ死ねない。この知性をこんな場所で失う訳には行かぬのだ。」
神聖魔法は外傷、伝染病といった外的要因の病には強い効果を現す。しかし、彼のような臓器の病に代表される内的要因には効果は薄い。せいぜい痛みの緩和程度しか患者を慰める方法が無いのである。
そして死者蘇生の呪文はこの世界に存在しない事実も彼を絶望の淵に追い込んでいた。
『よぅ、苦しんでいるようだな司祭さんよ。』
何者かが男に呼びかけてくる。周囲に人影は無く、明らかに人ならざる者の声であった。
「消え失せろ、邪霊よ。私は貴様の力なぞ必要としない。」
息を荒げながらも男は聖印を握りしめると虚空を睨みつける。
『それがいつまで続くかね?アンタはもうじき死ぬ。バルダに辿り着くまでに、だ。』
「アストライアは私を見捨てたりなぞしない!」
『俺様は事実を言ったまでさ。そして助かる方法も教えてやった。』
「誰が貴様などと・・・ごふっ!」
男は会話の途中で激しく咳き込む。男は手を見据えるとその左手は真っ赤な血で染めあがっていた。
『さぁ、時間は無いぞ?このまま何も為さずに死ぬか、健康な肉体を得て高みを目指すか。』
苦悶に満ちた表情の男の脳裏によぎるのは、一人の若い神官戦士の姿、彼と肩を並べる男でありたい、その思いが男に邪霊との契約を決断させた。
「・・・わかった。貴様に夜の肉体をくれてやろう。」
『おお、実に賢明な判断だ。』
男の周囲を取り巻いていた瘴気は消え、男の胸に吸い込まれていく。
「痛みが・・・消えた。」
『今、俺様の姿はお前の心臓と入れ替わった。これでお前は二度と胸の痛みに苦しむ事は無い。』
「貴様は夜の肉体を得て何をする気だ。」
『当分は大人しくするさ。安心しな、司祭さんよ。』
こうして男は長年の病から解放された。しかしこの契約は後に多くの人々を恐怖に陥れるのである。
魔術師の書にはこう記される。”契約”の精霊グレムリン。明確な肉体を持たず、相手との契約によって夜の肉体を得る邪霊、と。
元気組一行は”囁きの森”を経由してサラゴナ自治区へと再び馬を進める。
「ねぇユウナ。一つ質問していい?」
ワッチはユウナの馬に自身の馬を近付け話しかける。
「何かしら。」
「シルフはアタシに”風の加護”を与えた、って言ったけど、これってどういう事?」
「それは貴女が精霊使いの資格を得た、という意味よ。」
「精霊使い?」
「私の様な魔術師は、精霊に命令してその力を行使する。簡単に言えば王様と家来と同じ。でも精霊使いは精霊に依頼する事で精霊自らの意思で力を行使するの。」
「うーん、つまりアタシがお願いしたら風の精霊が助けてくれる、でいいのかな?」
「その認識で間違い無いわ。でも精霊は気まぐれだから必ず助けてくれるとは限らない。力を完全に行使するのであれば精霊を自分の支配下に置くのが確実ね。」
「そういうのはアタシ嫌だなぁ。」
「貴女は精霊との交流のやり方をすでに身に着けているわ。木を飛び渡った話をしてくれたでしょう?」
「うん。」
「貴女の強みはその純粋さよ。誰かを助けたい、と願う思いに精霊はきっと応えてくれる。だから今は余り気にしなくていいわ。」
「そっかぁ。でもこの子達と色々お話したいのも本音なんだよね。」
「”その子”が見えているのはワッチだけよ。私が見えるのは敵意ある精霊だけ。その子らと自然に接する貴女が羨ましいわ。」
ユウナが振り向くと、そこには上空に手を振って別れの挨拶をするワッチの姿があった。
そして一行はサラゴナ自治区の玄関口の街ミドへと馬を進める。
「リチャード、一つ提案があるんだが。」
不意にオリオンがリチャードに話しかける。」
「何だ、急に。」
「君が装備する黒炎竜の意匠、しばらく隠してもらうことは出来ないかい?」
「俺達はエドゥ様より魔女討伐に対する独立した権限を譲り受けた事はお前に話しただろう?」
「その権限が問題なんだ。もし魔女結社とサラゴナ侯爵が結託していた場合、僕達の捕縛は免れないだろう。だからまずは正体を隠して相手の様子を探った方がいい。幸い、護国兵団に顔が知れているのは君だけだ。」
「しかし、あの第三部隊の連中が簡単に街に入れると思うか?」
「その辺りは僕を信用して欲しい。神官戦士は君が思っている以上に顔が利くのさ。」
やがて一行はミドの街の入口へと到着する。門の前では胸に鰐の意匠が施されたサーコートを着た兵士が数名、荷物の検査を行っていた。
「じゃあ、行ってくるよ。」
オリオンは馬を降りると兵士の近くへ向かい挨拶をかわす。
「ご苦労様です。」
「ん、見慣れない顔だな。それに胸の十字、あんた神官戦士か。」
「はい、教皇庁所属のオリオン=ヘテロギウスと言います。今回サラゴナに用がありまして、仲間と共にミドの街に到着したところなのです。」
「そりゃあご苦労な事で。本来ならすぐにでも通してやりたいところだが色々と急がしくてよ。」
「何か事件でも?」
「ああ、これさ。」
兵士は懐からビラを一枚取り出しオリオンに見せる。そのビラには『切り裂き魔再び!』というセンセーショナルな見出しと共に、月夜を舞う蝙蝠に似た翼を持つ怪物の姿が描かれていた。
「『切り裂き魔』、ですか。」
「仲間が何度か遭遇はしているんだが、空を飛ぶ魔物相手じゃ簡単に逃げられちまってよ。」
「なるほど、それなら僕達が協力出来るかも知れません。」
「ほぉ?」
「幸い、僕の仲間には魔術師がいます。敵の機動力を封じる事が出来れば討伐はさほど難しくはないでしょう。」
「本当か?それなら願ったりかなったりだ!」
「その代わり、といっては何ですが僕達をミドの街に入れて頂くことは可能でしょうか。」
「ああ、構わんとも。何なら護国兵団の駐屯所を宿に使ってもらってもいいぞ。」
「それには及びません。そしてこれは僕達の善意ですので報酬も要りません。その代わりお願いがあります。」
「お願い?」
「今日から護国兵団の警戒を解くよう伝えてください。あと、このビラはもらっていきます。」
オリオンの計らいによってミドの街へ入ることが出来た元気組一行は手ごろな酒場に立ち寄ると『切り裂き魔』討伐の作戦を練る。
「しっかし街に着いて早々、魔物退治とは。」
「結果として怪しまれる事無く街に入れましたし、悪くはないでしょう?」
リチャードの嫌味にオリオンは少し顔をこわばらせながら話を続ける。
「ミドの街は比較的高い建物が密集した構造になっています。遭遇戦の場合、地理的優位は圧倒的に敵側にあります。それを埋める有効な手段は遠隔武器。しかし護国兵団の対処を掻いくぐっているのを考えると相応の命中精度を必要とする相手を想定すべきでしょう。ゲンガン、弓の練度は?」
「拙者、武士を名乗るからには武芸百般、しかと心得ておりまする。」
「頼もしい言葉です。では遠隔での弓、近接での太刀と状況に応じての武器の取り替えをお願いします。」
オリオンはゲンガンが深く頷くのを確認した後、ワッチに目線を向ける。
「ワッチ、君には以前スリング(投石具)を渡したね。」
「うん、いつでも使えるよ。」
「スリングの弱点はダメージを与える攻撃距離の短さにある。それに街中で石を投げるのはミドの住人にとっても危険な行為に当たる。」
「じゃあ、アタシも弓使うよ!」
「止めとけ、どうせ当たらん。」
リチャードの容赦の無い言葉にワッチは涙目になってオリオンに救いを求める。
「話を最後まで聞いて欲しいな。弓の精度は置いておいて、ワッチはスリングが向いていると僕は思っている。だからこの石を渡しておくよ。」
オリオンは懐から合計10個の青い石つぶてをテーブルに置く。
「何?この石ころ。」
「『雷石』。文字通り命中した対象に小さな雷のダメージを与える武器だよ。この石の目的は相手を怯ませること。だからワッチは当てる事だけに集中すればいい。後はゲンガンとユウナで対象を地上戦に持ち込む。」
「また飛ばれたらどうするんだ?」
リチャードの問いに対してユウナが間髪入れず答える。
「敵の翼でも凍り付かせれば飛行は難しいでしょう?」
「頼むから俺まで巻き込まないでくれよ。」
「考えておくわ。」
二人のやりとりに苦笑しつつオリオンは具体的な場所の策定へ話を進める。その時オリオンの耳に入ったのは酒場のウェイトレス達が話す雑談だった。
「ねぇ今度新しく来られた司祭様、見た?」
「見た見た!とても知性的でお美しい方よね!」
「神様の教えは難しくてわかんないけど、あの司祭様のお話なら毎日でも行ける!」
「今までは辛気臭いオッサンだったからホント天と地の差だわ。」
オリオンは会合を中断し、ウェイトレスの話に割り込む。
「君達、その司祭の名を知っていたら教えて欲しい。」
「え、えーっと、確かエンシエ=リゲル司祭と名乗られていました。」




