エルさん、タイピングを学習する
夜。引っ越したばかりの社員寮の部屋にはまだ家具が少なく、白い壁に小さく反響するキーボードの音だけが響いていた。
エルさんは一日の疲れも見せず、画面をじっと見つめていた。
会社で紹介された学習サイトにアクセスし、タイピングの動画講座を再生する。
そこには、「タイピングが初めての方へ」と優しい語り口で始まる解説が流れていた。
「まずは、キーボードの真ん中、“F”と“J”に人差し指を置いてみましょう。そこが、あなたの“ホームポジション”です」
エルさんは、そっと指を置いた。
「……ホーム、か」
異世界では、巻物や羽ペンが日常だった。あの世界に“キーボード”などなかったが、繰り返し操作を体で覚えるという点では、剣の素振りや帳簿の記入と変わらない。
日が変わるごとに、入力する文字は増え、手元を見ずに打てるキーも増えていった。
何よりも、講師が繰り返し語る「正確さが大事」「速さは後からついてくる」という言葉が、エルさんには心地よかった。
「焦らず、間違わず、丁寧に」
まさに自分の信条そのものだった。
そして迎えた一週間後。
社内でちょっとした集計作業を頼まれたエルさんは、何気なくパソコンを開いてExcelを立ち上げた。
軽く肩をまわし、深呼吸してから、手をホームポジションに置く。
カタ、カタカタ……トン。
リズミカルなキーの音が、職場に小さく鳴り響く。周囲の社員がふと視線を向けた。
「お、エルさん。ずいぶん指が動くようになったねぇ」
「はい。まだ一部のキーは探すこともありますが、今は、入力が“楽しい”と感じています」
そう微笑んだエルさんの手は、以前のようにぎこちなくはなかった。タイピングは、もはや“操作”ではなく、彼にとっての“言葉を紡ぐ技術”になりつつあった。
* * *
その夜、再び寮の部屋。
今日の反省をメモにまとめ、エルさんはひと息ついた。
「――“@”の入力も、ついに習得しました」
彼は小さく笑い、再び静かにキーボードに指を置いた。指先の音色は、明らかに昨日よりも自信に満ちていた。