エルさん、マウスに挑む
事務机の上に、静かに置かれた黒いノートパソコン。
シンプルだが堅牢なデザインで、いかにも「仕事道具」といった存在感を放っている。
机に向かって座ったエルさんは、慎重にその存在を見つめていた。
指導員の加藤が隣で説明する。
「それが、今日から君が使うPCだ。ノート型ね。一人一台貸与されるから、大事に扱ってくれよ」
エルさんはうなずくと、胸ポケットから小さなメモ帳を取り出し、迷いなく「ぴーしー」とカタカナで書き留めた。
「まず、ここが電源ボタン。押すと起動します。……はい、押してみて」
「……了解しました」
エルさんは指先で電源ボタンを押す。
パソコンは低く唸りをあげ、メーカーのロゴが画面に現れた。エルさんの表情が一瞬きりっと引き締まる。
「起動した……!」
「まあ、これは“魔導書”じゃないからね。普通に待ってれば立ち上がるよ」
異世界転生モノが大好きな外国人のなりきりということで、一応話を合わせる。
ログイン画面が表示されると、加藤がログイン用の初期IDとパスワードを教える。
「アルファベットは小文字。途中で数字も入るから注意してな」
エルさんは真剣な面持ちでタイピングを始めた。
エルさんは、静かにキーボードを見つめていた。
その視線は鋭く、まるで魔法陣を解読するかのようだ。
「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「うん? どうした?」
「この盤……“キーボード”には、アルファベットとひらがなの両方が刻まれております。これは……なぜ?」
指導員の加藤は、思わず「ああ~」と声を漏らした。
「それはね、日本のキーボードは“ローマ字入力”って方式が基本だから。
アルファベットを組み合わせて日本語を打つ。たとえば“K”と“A”で“か”って感じ」
「なるほど……文字を直接ではなく、音を呪文のように組み合わせる方式……!」
「うん、まあ言い方次第だな」
「では、この“ひらがな”は……」
「それは“かな入力”ってやつで、キー一つで“あ”とか“け”とか打てる方式。でも最近は使う人少ないよ。好みだけど、ローマ字入力のほうが覚えやすいって人が多いかな」
エルさんは神妙な顔でうなずいた。だが、次の瞬間ふと顔をしかめた。
「……しかし、キーの数が多く、すべてを記憶するのは至難では……」
「大丈夫! 最初は人差し指だけで打ってもいいよ。まずは焦らず、ゆっくりでもいいから、キーの場所を覚えること」
「では、慣れれば私も……」
「そう、慣れれば自然と指が勝手に動くようになる。ブラインドタッチってやつ。最初は時間かかるけど、確実にできるようになるから」
エルさんはそっと、指を“F”と“J”のキーに置いた。小さく突起があることに気づく。
「……これが、基本の“ホームポジション”とやら……ですね」
加藤は微笑んだ。
「そう。それだけ覚えてくれれば、あとはもう……習うより慣れろ、ってやつさ」
無事ログインが完了すると、加藤はマウスを指差した。
「で、こっちが“マウス”。パソコンを操作するための入力機器で、画面上に“カーソル”ってのを動かして、いろんな操作をするんだ」
「これが……通称“マウス”……ネズミ……?」
エルさんはその外見をじっと見つめた。
小さな楕円形の物体に、2つのボタンと回転する車輪のようなものがついている。
「確かに……尾はありませんが、形状は……鼠に似ていなくもない……」
「いやまあ、昔はコードがついてたから“マウス”って呼ばれてるだけで、そんなに深い意味は……」
エルさんはついに、右手を静かにマウスに乗せた。
……その動作はどこか儀式的で、神具に触れるような慎重さがあった。
ゆっくりと、マウスを前に滑らせる。さらに右へ。さらに右へ――
気づけば、彼の右腕は隣の机に到達していた。
「おや……?」
エルさんは眉をひそめ、じっとモニターを見つめた。
「……もう限界のようです。これ以上、カーソルが動きません」
「いやいやいや、エルさん、それ……マウス自体を遠くに動かすもんじゃないから! 画面見て、カーソルが動いてるのを確認しながら、手元で細かく動かすんだよ」
「ふむ……つまり、直接操作ではなく、これは霊的な間接操作の一種……?」
「……そうじゃないけど、まぁそんな解釈でもいいや……うん」
加藤が手本を見せると、エルさんもようやくコツをつかみ始めた。
「なるほど……カーソルを、対象の“記号”に合わせて……この“ボタン”を二度、押す……ダブルクリックですね」
「そうそう、それでアプリが開く」
画面上のExcelのアイコンが展開され、ウィンドウが開いた。
「おおっ……展開されました!」
エルさんの目がわずかに輝いた。
パソコンの基本操作を覚えるだけでも、彼にとっては一つの「世界の理解」なのかもしれない――
加藤は、そんなエルさんの背中を見つめながら、心の中でつぶやいた。
(案外、この子……伸びるかもな)