第八話「彼女にとっては思い出の祖父の家」
「ちはー!」
離れの玄関から、大きく威勢の良い声が聞こえてきた。
今日は日曜日で、正堂さんと明瀬さんが遊びにやって来るという事で、僕は朝から祖父の書斎や書道教室に使われていたという部屋の掃除をしていた。
「……なんで、林田がいんの?」
僕の開口一番に、
「そりゃあ、ないだろ? 部活仲間の数を忘れたのか?」
やっぱり来たんだと、予想が的中した僕は面倒臭い気持ちになる。
「こんにちはっ! 立派なおうちねぇ、こんな広いお屋敷に葛斎先生と二人だけー?」
次いで、明瀬さんが顔を覗かせた。
立派なお屋敷ってほどじゃないけど。そう見えるのは、祖父が庭いじりが好きで綺麗に整っているからだろう。
「祖父の息子夫婦は別に暮らしてるから、祖父母の二人暮らしだったんだよ。祖母が亡くなってから祖父は一人になっちゃって。祖父も亡きあと、誰もいなくなってからは空き家問題を防ぐため、僕が来るまで功兄が一人暮らししてたんだ。母屋だけで生活してたみたいだけど」
「へぇ、そなんだぁ。この広さの家なら、いつでもお嫁さんと暮らせるわよねぇ」
「嫁の前に、彼女だろ。すっ飛ばすなよ。簡単に言うけど、葛斎先生に彼女なんて浮上したら、女子連中がショックで学校休むぞ」
「そっちこそ、学校休むのは結婚した時よ。彼女のうちなら、恋路を邪魔する戦略がまだあるわ」
「こえぇわ、それ。半分、犯罪だ」
明瀬さんと林田が言い合っているところ、僕は玄関の後ろに目をやった。
「正堂さんは?」
「あぁ、美也子なら、母屋の方へ向かったわよ。仏壇に手を合わせてくるって」
「あぁ、そっか」
書道の恩師である祖父の葬式の際に来ていたかどうかは知らないけれど、四年ぶりの訪れて、祖父に挨拶したかったのだろう。律儀で礼儀正しいんだなと思った。
「あたしも手を合わせた方がいいかなぁ? 林田、後で仏壇参りに行くわよっ」
肘で小突かれた林田が、「あ? あぁ」と素直に返事をしたので、何となく空気が読めてしまった。すでにこの二人には僕の心中などバレバレなんだろうな。別に秘密にしたいって訳でもないけれど、応援されるってのも気恥ずかしい。
「じゃあ、中入ってよ」
「お邪魔しまーす!」
二人は遠慮もなく靴を脱いで玄関を上がると、迷うことなく僕の部屋へと直行した。部屋のドアを開け放っていたため、すぐに一目で見つけられてしまっていた。
後から、のそのそとついて行き、
「何もないよ」
部屋を物色する二人に教える。
「ゲーム機とか、漫画とか、全部やられたのか? 仕方ないな、オレの貸してやる。他に困ってるものもあるだろ?」
「いや、大丈夫。ゲームもあんまやらないから、機械持っていなかったし。漫画なら無事だったよ」
「ブラックジャック全巻って、これを読んで君は医者になるのを決めたのか?」
「いや、決めてないし、決まらなかったし。それ、親が持ってたやつだし。親は司法書士だし」
「親戚揃って、かっしこいんだぁー」
「って、明瀬さん、敷布団の下には何も隠せないよ。林田、おい、入って寝るなよ」
「おまえの匂いをオレの匂いに入れ替えてやる」
「それ何の嫌がらせ? 怒るよ?」
布団を引っ張って、林田を引きはがす。布団は押入れに上げておくべきだった。でもあまりお客さまが来るように完璧にしておくのはどうかと、普段通りに折り畳んで部屋の隅に置いていたのを後悔する。
──コンコン
開きっぱなしのドアを軽く叩く音に僕はピタリと止まる。そこに正堂さんが立っていた。紺色の水玉模様のノースリーブのワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。部活では髪を低めの位置でポニーテールにしているけれど、今日は長い黒髪をさらりと下ろしていた。
──ドストライク
僕は一人静かに感極まった。
「あ、美也子。つまんないことに、この部屋、なーんもないのよぅー」
そう、文句を言う明瀬さんは、長袖Tシャツに膝上のタイトなスカートというシンプルでカジュアルなファッションだけど、髪にワックスでもつけているのか動きがある。そして、口元にはリップをつけていた。学校帰りもだけど、何気にオシャレに気を使っている。彼氏でもいるのかなとチラリと林田を覗き見て、まさかなと思ったけれど、そのまさかかもしれない程、二人の息は合っている。
「ということで、みんなでお昼寝しよーぜ」
林田は僕から枕だけ奪い取って、畳の上に寝そべった。今日、皆が集まった目的を完全に忘れているようだ。
「葛斎先生のお部屋を使っているのですね」
「へ?」
正堂さんは部屋の入り口付近にすっと正坐をして言った。そういや、大学へと県外に引っ越すまでは、ここが功兄の部屋だったらしい。
「葛斎先生──おじいさまは晩年、急に体調不良で教室をお休みする事があったので、何の知らせを受けずにやって来た時、葛斎先生が学校の宿題をみてくれていたりしていたんです。この部屋には何度かメダカを見せてもらいに入ったことがあります」
とんだ過去があったものだ。それでなのか、あのうちへ誘った時の功兄にだけ見せたくったけのない笑顔は。普通ならば教師の家にお邪魔するなど、少しためらってしまうものだ。
「へぇーへぇー、葛斎先生、まだすっごい若かったんでしょ? どんなだったの?」
「んー今と変わらないと思う」
「顔に限っては今の葛斎だろ?」
林田が指差す僕の顔を見て、「そうですね、似てますね」と、目と目が合って僕はドキッとする。
「文也―?」
そこへ、功兄がやって来た、「みんな、ここにいたのか」
「先生、お邪魔してまーす」
「ちわー」
明瀬さんが首を横にちょんと傾げて会釈し、林田もさすがに布団から起き上った。
「書斎とやらへ案内してもらえますか?」
「あぁ、もちろん。こっちだよ。他のみんなもおいで」
今日、正堂さんたちがやって来たのは、祖父の絵巻などを拝見するためだ。林田は全く興味さそうだけど。
「午前中に掃除機かけて窓を開けておいたんだけどね、まだ埃っぽいかもしれないね」
と言う功兄に続いて、全員書斎に入っていく。
「わぁーレトロなカンジー、素敵ぃ」
昭和時代の古い家具がそう感じさせるらしく、明瀬さんは楽しそうにはしゃぐ。林田は「ふぅん」といった感想。
正堂さんは戸棚に置かれた瓶に立てられている筆を手に持った。
「それ、まだ使えるのか? 綺麗そうなのは筆巻きに入ってるよ。好きなの持って帰っていいよ」
「え、でも……」
戸惑う正堂さんに功兄は、
「本当は全部、処分してもいいくらいなんだよ。でも使ってくれる人がいるなら、ましてや元教え子なら、祖父も大喜びだよ」
「はい、そうかもしれませんね。では、有難く。でもまずはお孫さんの文也さんから」
「え、僕? 筆なんて使わないよ」
と言ってから、失言に気づく。筆は今から必要だ。書道部に入部したのだから。「こっちに来て下さい」と正堂さんに言われて、一緒に筆選びをする。
「どれも状態が良くて、質がいいですね」
説明を受けながら、さっきの失言に怒っていないかと、僕はそっちに気がいく。怒ってる? と直接聞いても逆撫でしてしまう可能性もある。しかし、距離も近くて二人で何かを選ぶなんて、ショッピングデートみたいだ。
「聞いてますか?」
「は、はい」
僕は顔の緩みを引き締めて、気を筆に向ける。
「これ、持ちやすそう。質はどうかな?」
「質よりも、手にしっくりするなら、それが一番です。ちなみに、その筆は高価だと思います。長く愛用してあげて下さい」
やっぱり書道の話になるといっぱい喋るんだなと、またしても僕の思考は他へと飛んでいく。
「文也、よかったね。どうも、兄ちゃんの書道具はどっかいっちゃって見当たらないし、あっても古いだろうしね」
「オレにも、ちょーだい」
「お、林田もプロの書道具にやる気が出たか?」
それ多分、ただの記念品だよ。と、心の中で功兄に教えてあげる。林田はパッと好みの見た目で筆を一本選んだ。
「すっごーい、巻き物と半紙の数!」
後方の押入れの中を見た明瀬さんが、一人興奮している。そうだ〝紙フェチ〟だった。
「先生が言ってたのって、コレですかぁ?」
「あぁ、そうなんだよ」
「お宝とか、あんじゃねぇの?」
林田も目を釘付けにする。残念ながら祖父が亡くなって形見分けの際、それらしき物がないか、すでにチェックされていたのだと功兄から聞いた。けれど、「どうだろうなぁ」と功兄は少し意地悪している。でも、きちんと鑑定した訳ではないらしいから、ひょっとしたらあるかもしれない。
正堂さんも側に近付き、巻き物と半紙の山を眺める。
「これって、もしかして生徒さんの? 名前、書いてあるじゃないの。美也子のもあったりしてぇ?」
作品を一枚ずつめくる作業を始めた明瀬さんと林田だ。
「よく捨てずに置いてあんなぁ、うちのおふくろみたいだ。『あんたの初めての書き初めよ』って、あんなもん大事に保管してやがんの」
「林田、良いお母さんだよ。年を取ってから、捨てずに置いてくれてて良かったなぁって、懐かしむもんだよ」
林田と功兄の会話に、ふと、僕の思い出の品はどうなっているのだろうかと、まだ被災地で復旧作業中の実家を思う。入れ物がしっかりしていたならば、土砂の中から出てくるはずだ。でも林田と同様、小学生の頃の作文なんかが出てきて読み返されたりしたら……土砂の穴に再び入りたくなる。
「あっ! あったー! 正堂美也子! これ、そうでしょ?」
大量の作品の中から、本当に探し出してしまった明瀬さんと林田。正堂さんはそれを手にしげしげと見つめてから、「そうですね」と答えた。
「まじぃー? 林田のお母さん同様、葛斎先生のおじいちゃん、良い人でカンドー」
正堂さんにとっては、きっとタイムカプセル並の感動だろう。功兄がさっき言ったように、目を細めて懐かしんだ顔をしている。
「しっかし、失礼ながらも保管しとくような優秀な作品じゃないのもあんな。これとか、失敗作じゃん」
「人の手によって生み出されたものは全て生きていると、教わりました。特別なことは何も教えてくれない、少し変わった自由奔放な先生でしたが、唯一、それだけはいつもおっしゃってました」
確かに、祖父は変わり者で自由人な記憶があったなぁと思いを馳せる。お盆に遊びに来ると、縁側で股を大きく広げて寝ているのだけど、しっかりと見えていた。そういえば、庭に池を作った時、カエルは来てくれるだろうかとこぼしていた。
「そうだ、絵巻。鳥獣戯画ってやつ……」
僕が言おうとして、
「これは水墨画の掛け軸だな、価値はなさそー」
林田が掛け軸を転がして、びろーんと伸ばし広げた。
「ちょっとぉ、何やってんのよ。これは、んーお土産店で売ってそーなレベルね。でもシミもなくキレイな状態よ、うん」
「祖父は温泉旅行が好きだったから、その時に買ったのかもね。気に入れば何でも手に入れる人だったからね。何十万って単位になると、さすがに祖母に止められていたよ」
皆をよそに、正堂さんは古びた一本の絵巻をくるくると手で送っていた。
「美也子、それは?」
正堂さんは畳の上へと、それを一面に広げた。
「あっ、これ……」
僕がカエルに見せられた物だ。草の生えた道端が続いて描かれている。明るい室内で改めて見ると、所々に鳥獣たちがいる。けれど、その多くは虫食いなどで体の一部がやられていた。紙も劣化が激しく、あのカエルたちが嘆くはずだった。
「かなり損傷していますが、先生から見せて頂いた鳥獣戯画の絵巻と同じです。他に国宝絵巻の見本となる資料の本もあるはずです」
机の引き出しを開けてもいいか功兄に許可を取っている正堂さんに、
「資料ならスマホでも出てくるだろ」とチャチャッとググったのはデジタルな林田だ。しかし、
「絵巻は長いですから、スマホでは断片的にしか見られないでしょう。かといって、本でも区切られていますが……」
「そうなんだ」
絵巻と掛軸の違いも知らない僕は、一体何メートルあるのかと思い、
「なんで、そんな長い絵巻に描いたんだろ。平安時代って本の形の紙はなかったの? 源氏物語とか、あれも長い巻き物?」
「本は、もっと昔、聖徳太子の時代からあるんだよ。もちろん源氏物語は和紙の本に書かれてあるよ」
「そうそう、六一〇年に高句麗の曇微って僧によって技術がもたらされて、それを聖徳太子が改良してって、現在の和紙に近いものが作られたのよねぇ」
「さすが、明瀬は詳しいね」
「エヘヘ」と功兄に褒められた明瀬さんが得意気に笑い、「聖徳太子って、何者だよ。オレはもう架空人物だと思っている」林田が胡散臭く言った。
「あと、鳥獣戯画が絵巻なのは、大きな意味があるんだよ。絵巻はこうしてくるくると両手に巻き取りながら見るよね。つまり、少しずつ次に何の絵が現れるかと想像しながら、ドキドキと鑑賞するんだよね。これは、現代のアニメーションに近いものがあるよ。スクロールすることにより、躍動感溢れる動きにもなるんだ」
「へぇ、言われてみれば、ホントだ」
それまで何も知らなかった僕は、鳥獣戯画について少しだけ興味が湧いてきた。
「正堂さんのあのカエルは、うちの祖父から描き方を教わったの?」
「いえ、先生ご自身も上手く描けないとおっしゃられていて、私も資料をお手本に見よう見まねで描いてたんです」
やはり、あのカエルたちが言っていたのは本当で、祖父には難しかったようだ。そして、正堂さんにもだ。それを、僕には描けるだなんて、やっぱりカエルの言っていることは、まだ完全には信じられない。
「あ、これです。ありました」
正堂さんが机の引き出しから、大きな一冊の本を取り出してページをめくる。
「これが、先生が好きだったカエルが登場する甲巻が載っている資料です」
そこには、擬人化して二本足で立つカエルの他に、あのキツネやウサギ、サルが描かれていた。原本の絵巻の鳥獣たちはくっきりはっきりと、あの鳥獣たちとそっくりだった。道端を楽しそうに踊るよう歩いていたり、川なんかもあって泳いでいるのか溺れているのか。相撲のような取っ組み合いに、弓とかの道具も持っている。
「これって、何してる絵? 何の話だろ?」
日本最古の漫画といわれても、台詞がない。
「さぁて、何だろうね? 色々と説はあって語ると長いけど、誰も謎のままだよ。そこがまた、見る者の想像力を掻き立てられるんだよ」
「じゃあ、好きに解釈していいってこと?」
「そうだね、自由に楽しみながらってのが、最大の鑑賞ポイントじゃないかな」
正堂さんも言うように、変わり者で自由人な祖父が何故、鳥獣戯画に惹かれたのかが何となく理解できた。
「他にはー?」
早くも退屈した林田は、あくびをしている。すっかり、功兄が先生だという事は忘れてしまっている。明瀬さんはというと、絵巻を広げて、うっとりしている。きっと絵にじゃなくて、和紙にだ。
「あとは、みんなで自由研究するといいよ。先生は午後のおやつを作りに母屋へ行ってるね。できたら、また呼びに来るよ」
「え、おやつ? 作ってくれるんですかぁ? なに、なに?」
「ホットケーキ。文也が大好きなんだ」
ギャハハと林田に笑われて、ちょっとムッとして顔をそむける。
「ホットケーキって、キレイに焼き色つけるの難しいのよね。先生、教えてー」
「オレも、オレも焼く。プツプツ穴空き出したら、ひっくり返せばいいだけだろ?」
「ヤダ、あんたが焦がしたの食べるの」
「そこは、ホットケーキが大好物の文也君に食べてもらえばいいだろ?」
「ほらほら、静かに」と、功兄が止めに入ったものの、ここは学校じゃないし、静かにする必要はない。いわゆる、職業病?
「仕方ないなぁ。じゃあ、ホットケーキ作りたい人、一緒に来なさい」
「「はーい」」
と、明瀬さんと林田が声を揃えて挙手した。正堂さんは、
「教室へ入ってもいいですか?」
「あぁ、そうだったね。ゆっくり過ごすといいよ」
と、思い出したように功兄は優しく笑った。
嵐のように明瀬さんと林田が去った後、正堂さんは教室へと慣れた足取りで向かい、「失礼します」と挨拶してから中へと入った。
教室も書斎と同じく換気のために窓を開けていたため、風が時折、強く吹き抜ける。そのたび、正堂さんは風になびいて乱れる髪を気にして手で押さえた。その仕草が、女の子らしい。学校にいる時の真面目な顔つきの正堂さんとは違い、全体的にふんわりとしたイメージだ。
正堂さんは床の間の少し後ろにスッと正座した。僕も斜め後ろにちょんと正坐する。しばらく、僕はあえて何も言わなかった。きっと、色んな思い出を胸に馳せているだろうと、邪魔を避けた。
教室内は、やはり戸棚がいくつかあり、中には書道具などが置かれてあっただろうけど、全て書斎の押し入れへと詰め込まれたと思われる。法事などに遠方の親戚が寝泊まりするのに使ったからだ。
やがて、ポツリと。
「ここが、私の席でした。決まってはいませんでしたが、いつもここへ座っていました」
「そうなんだ」
会話はそこで止まってしまったけれど、居心地の悪さはない。心地良い風が僕らの間を舞う。
そして、また一つ。
「私、習字が苦手なんです」
「え?」
意外過ぎる言葉だった。苦手と言わせるレベルじゃない美しい字だ。
「習字を続けようかどうしようかと迷っていた、そんな時。ここの書道教室が開かれて、体験入学したんです。そこで先生に、『君は書道が合っているよ』と言われたんです」
ええと、と僕は基本的なところでつまずく。
「習字と書道って違うの?」
正堂さんは馬鹿にして笑ったりすることなく、
「習字は読んで字のごとく、字を習うんです。書道は書の道。上手い下手とかよりも、表現力などが求められます。字の美術のようなものですね」
と、真面目に教えてくれる。
「字で表現……」
そんなの凡人の僕には高度な離れ技でしかない。
「体全身を使って書きなさいと、お尻で文字を書いてくれたりしました」
「なんか、ごめん」こっちが恥かしくなって謝る。
「習字が苦手と先程述べましたが、いわゆるスランプだったんだと思います。先生に出会ってから、肩の力が抜けたように心が軽くなりました。やっぱり、一度は考えた筆を折るということを止めました」
一旦、言葉を置き、
「それから先生とは字ではなく、戯画を描き、ほとんど遊んでいましたね」
そう言って、クスリと笑みをこぼした。斜めの位置だったので、正面から見られなかったのが残念だ。
「その戯画っていうのが、鳥獣戯画?」
「そうですね」
「祖父は何か言ってなかった? 鳥獣戯画について」
「何とは?」
僕は謎を一つ抱えていた。祖父の前には、あの鳥獣たちは現れなかったのだろうかという事だ。
「いや、別に信じてもらえなくていいし、軽く聞き流してほしいんだけど……」
笑われてもいい覚悟で、喋った。
「僕、鳥獣たちの姿が見えるんだ」
しばし、正堂さんは神妙な面持ちで僕の顔を見ていた。そして、フッと口元を緩める。
「……やはり、先生のお孫さんですね。文也さんにも見えるんですね」
「えっ、じゃあ、祖父も見えると言ってたんだ?」
「はい、そのような話を何度か聞かせてもらいました」
「そうなんだ……」
間違いなく鳥獣たちは祖父の前にも現れていた。僕の疑問は正堂さんによってあっけなく明かされる。
「私も見たことがあります」
「えぇ?」
これには仰天して目を大きく見開く。
「あれは、教室のみんなで蛍を見に行こうと、先生が提案した時の事です。夜の河川敷へと探しに行きましたが、残念ながらいませんでした。でも蛍はいませんでしたが、『これが、蛍だ!』と言って、教室に戻った先生は半紙に大量の蛍を書いて下さいました」
「ごめん」再び、謝る。
「教室の子たちが帰っていき、私一人になった時です。カタカタと物音がしたんです。何の音かと耳を澄ましていると、『あれは、鳥獣たちだ』と、先生に言われるがまま、音のする書斎へと一緒に向かいました。そしたら……」
「カエルやウサギなんかがいた?」
「はい。まだ子供だった私はビックリして怖くなって、先生の背中に隠れたのを覚えています」
それはそうだろう。高校生の僕でさえ驚いたのだから。
「先生はカエルたちに向かって何か喋っていた様子でしたが、泣き出しそうになった私を連れてすぐに部屋を出ました」
「そのこと、信じた? 信じている?」
僕の問いに、正堂さんは長いまつ毛を伏せがちに、
「先生が嘘をつくはずはありませんし、文也さんが嘘をつくこともないと信じています。私の、この瞳に映ったものに疑いがないことにも」
祖父のことを本当に信頼していたのを感じ取れた。
「あの鳥獣さんたちが、どうかしましたか? お元気でいますか?」
「あ……」
こっちから見えるなどと、おかしな話を持ち出したのだから、最後まで隠さず全てを話すべきだろう。
「元気かどうかはカエルの体のことは分からないけど……実は、鳥獣たちが僕に自分たちを描いてほしいとお願いされたんだ」
「確か……先生もそんな風な事をおっしゃってましたね」
「その祖父がダメだったものを、僕になんて……」
「失礼ですが、文也さんの名字は?」
「祖父と同じ、葛斎だよ」
そういえば、さっきから〝文也さん〟と下の名前で呼ばれている事に、何だかくすぐったく思っていたけれど、単に名字を忘れられていただけだった。
「そこなんだよ。うちは本家である葛斎家の分家だし、本来なら功兄の役目なはずなんだ。それを、鳥獣たちは祖父の血が濃く流れている僕に期待をしていて……」
「葛斎先生は教師として恥ずかしくない綺麗な習字をします。黒板の字はもっと綺麗です。ですが、全て人に教えるために磨き上げた字の美しさです」
「人に教えるため……そっか」
字の下手くそな教師の黒板は誰も見たくないし、ノートに写しづらい。ついでに言うと、筆圧の強い先生の黒板消しには苦労する。
カエルたちも言っていたように、功兄については、何となく理解した。分からないでいるのは、
「文也さんは、上手とか下手とか、そんなものには左右されないものがあります。計算して飾られた〝美〟ではないのです」
「…………」
「迷ってますか? 文也さんは少し冷めた性格のようですが、それは本質を見抜いてしまうからでしょう。ですから、もう分かっているはずです。どうすべきかを」
「うん」
僕は正堂さんに向き直る。
「僕に、鳥獣戯画の描き方を教えて下さい!」
ちょっと引き気味に正堂さんは、
「……教えられることは何もありませんが、一緒に描いてみましょう」
この強引なお願いを引き受けてくれた。
「ありがとう! お願いします!」
正堂さんに話した途端、一気にモヤモヤしていた迷いは消えて、やる気が出てきた。正堂さんとも固い絆を結んだかのように、勝手に感動する。そこへ、
「しかと聞いたぞー」
僕はすかさず声のした方へと目をやると、窓辺に二つの頭が並んでいた。
「なぁ、明瀬?」
「うん、うん」
ニヤニヤと二人は顔を見合わせて頷く。相変わらず、息が合っている。それはともかくとして、
「聞いたって? どっからどこまで?」
何もやましい会話はしていないけれど、怪しい内容だとは思う。けれど、この二人には問題なさそうな気がした。
「最初っからー」
林田が隠しもせず言う。
「ホットケーキ作りに行ったんじゃなかったの?」
「作りに行ったけど、こいつがぁー」
明瀬さんは弁解しようと林田の耳を引っ張る、「イテテ」
つまり、ホットケーキ作りに行くなどと嘘をついて、盗み見していた林田に、明瀬さんも便乗した。全く仲が良いなと、僕は半ば呆れて溜息を一つ、肩を下ろした。
「じゃあ、何も説明はいらないよね?」
「鳥獣を見たってホントなの?」
ワクワクとした感じに明瀬さんは目を輝かせる。きっと幽霊を見たと言っても同じ反応をすると思う。
「うん。正堂さんは信じてくれるって」
「信じないなんて言ってないわよー、信じる信じる」
「だが、諸君。そんなものがいるなどという事が判明すれば、ますます全生徒たちに畏れられ、部の存在が危うくなる。公にするには難しいな」
「公にするという発想が僕にはなかったけどね」
「つまり、あたしら書道部、四人の秘密よ!」
できれば、この秘密は正堂さんと二人だけのものにしたかった。
「で、その鳥獣はどこにいんだ?」
林田に言われて、
「さっきの祖父の書斎だよ」
ん? あれ?
「何もいなかったぞ? って、葛斎家の人間にしか見えないんだっけか?」
そうだ、そのはずなのに……僕は戸惑い正堂さんの方を向くと、正堂さんも同じ顔をして言った。
「なぜ、私に見えたのでしょうか?」
読んで頂きありがとうございました!
今回、少し文字数多くてすみませんでした(汗
次話、
祖父の書斎に現れる謎の鳥獣戯画をみんなで調査です。