第六話「あのカエルは鳥獣戯画だと知る」
放課後、昨日と同じく西館の校舎へと向かった。昼間、屋上へ行くのに来た時とは違って人の気配を感じさせないひやりとした空気が漂う廊下を渡って、四階にある教室の前まで来る。一度、立ち止まって呼吸を整えてからドアを開けた。すると、だらーんと長い半紙が目の前に垂れ下がる。事前に心の準備をしていたので驚きはしなかった。それよりも、マジックで〝ようこそ、新入部員〟と書かれてあるのは林田か明瀬さんか、どっちかだろう。一応、サプライズを少しは喜んであげてから、僕はその奥へと目を向ける。
今日は風は吹いていない。ぶら下がる半紙をくぐり抜けると――いた。正堂美也子は窓際の席で机に向かっている。
「正堂さん、どうも」
僕の控え目に出した声に、ゆっくりとこちらを向く──やっぱり美人でキレイだ。薔薇の花のような派手な華やかさではなく、凛として控え目な桔梗の花みたいだと、そんなことを妄想している僕を正堂さんはジッと見てくる。
「ゴメン」
何をゴメンなのか分からないけど、つい。しかし、昨日とは逆に正堂さんは僕の頭から足元までに目を凝らしたかと思えば、僕の席とおぼしき場所に書道具を置いた。
「あっ」
そうだ、昨日は変な夢のせいで書道具を持って来れていないんだった。でも、ちゃんと約束を守らなかった事を怒らないどころか、貸してくれて用意までしてくれている。なんて気の利く優しい子なんだと呑気に思ったところで、これは並べ方を教えているのだと気づく。
真正面の位置に下敷きの上に半紙を敷いて、その上に文鎮を置く。その右側に墨汁と硯。左側にお手本だ。そうだ、そうだった。下敷きのことなんてすっかり忘れていた。いつからか新聞紙の上で書いていた記憶がある。
「ありがとう」
僕が礼を言うと、正堂さんはプイッと背を向け、自分の席へと戻ると、窓の外を眺める──この感じ、嫌いじゃない。クラスで窓際になった今、僕もこんな風な態度を取ってみたいけど、ミステリアスかインテリ系にしか似合わないだろう。平凡な僕がやれば、林田にボーッとしてんじゃねぇと、頭をしばかれて終わりだ。その点、正堂さんは謎の美少女で、この図がぴったりと絵になっていた。そう、今はまだ僕にとっては謎な子だけれど、教室ではどうなのだろう。そういえば、僕とも明瀬さんや林田とも、みんなクラスが違う。バラバラなメンバーが集ってうまくやっていけるのか、ちょっと不安だ。
僕は正堂さんから一つ横に席を空けた斜め後ろに着席する。……さてはて、何をすればいいのだろう? どうすればいいのだろう?
「何、書けばいいかな?」
そこはやはり、部長の正堂さんに相談する。今、取り組んでいる課題があるかもしれないと思い。
少し間を置いて、正堂さんは窓の外を向いたまま、右腕を上に指を差した。僕はその指先へと目をやる。天井にズラリと干された作品たち。正堂さんが指す指先には、目玉のような絵──字じゃない。
ずっと気になっていたけれど、なぜ絵があるのか。退屈だった林田がふざけて書いたものか。それにしては、じっくりとよく見ると、かすれ具合なんかが絶妙で味がある。
僕はほぼ無意識に筆を取ると、半紙の上に走らせた。
「…………」
生まれて初めて、筆で目玉を書いた。真っ黒で、目の瞳孔が開いてしまっている。斜め後ろにぶら下がるお手本と比べて、その出来栄えの違いに落としそうになった肩をバシンッと誰かがいきなり後ろから叩いた。
「よっ!」
とは、明瀬さんだ。
「何コレ? 何の字? まさか、目玉? アハハハ」
明瀬さんの明るくはつらつとした笑いは、見ていて気持ちが清々しくなる。これなら、笑い飛ばされても不快にはならない。
ヒョイと横から手が伸びてきたかと思えば、正堂さんが椅子の上に立ち上がり、僕の目玉を天井のロープにピンチで止めた。目玉から黒い血が流れそうになる。それをジッと正堂さんは面白くも可笑しくもない顔で見た。
僕は一体何をやっているのだろう。何を描いちゃってるんだろう。
「これは……ちょいと、いたずら書きで……」
「うん、まさしく〝戯画〟だな」
「戯画?」
「いたずら書きって意味よ」
言い方を変えれば、一気に様になるものだと感心している場合ではない。
「ちゃんと、〝字〟を書くから」
「えー、つまんないの。もっと楽しくいこっ。描くの楽しかったっしょ? この目玉」
「楽しくなくはなかったけど、うちは書道部だよね?」
部活動でこんなお遊びをしてると、顧問が功兄とはいえ、さすがに怒られるんじゃないだろうか。
「〝書道部〟ねぇ……」
「?」
明瀬さんの含みを持たせた口ぶりに、僕は訝しく眉をひそめる。
「違うの?」
「一応ねー、間違っちゃいないよ。でも別称では〝戯画部〟だったりするんだよねー」
「え? えぇっ?」
全く聞いていない! けど、戯画部──戯画を描く部なら、目玉があっても不思議ではない。でも、そんな部ってあり?
「さぁさぁ、少年よ、心ゆくままに筆を走らせよ」
そう言って、ステップを踏みながら教室後ろのロッカーへと荷物を置きに行く。
「ちょっと、待ってよ、明瀬さん」
問いつめたい事はたくさんあったけれど、僕の制止も聞かないまま、教室後ろに位置するドアの向こうへと消えていった。
「あれ?」
昨日は気づかなかったけど、あのドアは何の部屋へ続いているのだろう?
「正堂さん?」
振り返ると、机に戻って座っていて、何やら半紙を前に真剣な表情だ。すごく集中しているのが伝わってくる。しばし固唾を呑んでいたけれど、全く動く気配がない。もしかしたら邪魔なのかなと思ったのと、後ろが気になってそっと後ずさりして明瀬さんの入って行ったドアへと向かう。
少し古びたドアを開けると、教室ほどは広くない空間に、シンクと大きな木の机が真ん中にあった。壁際に棚がいくつかある。準備室か何かだったのかなと推測する。
机の上で、なぜか明瀬さんはミキサーを回していた。
「みーたーなぁー?」
不気味な顔で恨めしい声を出す。
「ごめん。何作ってんの? それって……」
「ミックスジュースよ」
ミキサーの中身にはコンクリートのように灰色をしたものが。とても人間の飲み物には見ない。
「って、ウソ」
「うん」
「つまんないなぁ、もっと気の利いた切り返し方ないの?」
「いや、そうゆうの苦手だから」
面白味のない人間だとは十分に自覚しているので、それ以上は言われると凹むため、先に自衛しておく。
「この中にはねぇ、古新聞と洗濯のりが入ってんの」
大体、何を作っているのか分かった僕は、少し興味を持ってミキサーの中を覗き込む。フフフーンと鼻歌交じりに明瀬さんは、ミキサーを止めるとシンクへ向かい、中身を網が敷かれた木枠の中に流し込んだ。水分が流れて木枠の中にはドロドロとした灰色の物体だけが残る。
「触ってみ?」と言われて、指先でつつくと、フワッとした感触。水に濡れたきめ細やかな綿をイメージした。木のフタでさらに押して水気を切ると、木枠から外して網の上に乗った灰色の物を新聞紙の上にそっと型崩れしないよう乗せた。
「これで一晩、乾燥させるの。天候によっては二日くらいかかったりするけど」
「もしかして、紙?」
「そっ、これが完成品よ」
と、見せてくれた物は、パリッと乾いて少し厚めの生地だった。ちょうどハガキのサイズだ。
「ちゃんと切手貼れば郵送で送れるのよー」
「へぇ」
「ヘヘェーン、すごいっしょ? まぁーこんなのおままごとにすぎないけどねー」と、ふぅと明瀬さんは机を背に腰をもたれさせて、息を吐いた。でもこれ以上を目指すなんて、素人には無理だろう。
「なんでこんなの作ってるの?」
「んーそうだなぁ、趣味と言われれば、そうかな。あたし、紙フェチなのよね」
「紙フェチ? なんか、初めて聞いたフェチかも」
アハッと明瀬さんは笑い、
「実はうちのいとこは、残念ながら立派な教師ではないけれど、小さな文房具屋さんをやってるの、そこの駅前の商店街で」
「あっ、シャーペンの芯、買ったとこかな?」
「おそらくそこだけど、シャーペンの芯を買っただけ?」
「文房具屋でそんな大量買いとかしないかと」
「そう、あたしくらいよねぇ、紙を見るとついつい、あれもこれもと買ってしまうのは。もう、コレクションっていうかね」
フェチと言うだけある。興味のない僕には何とも理解し難い。なんてったって、自分で手作りしてしまう程だ。
「もしかして、そのいとこの文房具屋さんで働きたいとか思ってたり?」
「ううん、あたしの夢はもっとデカいの」
と言って、棚の引き出しから大事そうに取り出して机の上に広げたのは、色とりどりの和紙だ。
「これ、祖父が作ったの。うちの祖父は和紙職人なのよ」
「和紙職人……」
これには、軽く驚いた。教師や書道の先生なんて、そこら辺に探せばゴロゴロいるだろうけど、和紙職人なんてそうそういない。
「まさか、その後継者になるとか?」
「そっ! そのまさか! 将来、すんごい和紙職人になってるかもよ?」
「それで、こうして和紙作りかぁ……ん? 書道は?」
「書道なんて、つまんない。半紙には興味あるけどね。半紙の上に作品が生まれるって、ちょっとカンドー。大抵の人は、字の下の半紙なんて見てないだろうけどね。でも美也子は、うちの祖父が作った半紙が一番、描き心地が良いって、いつも褒めてくれる。やっぱ、使う人にはその良さが伝わるんだなぁって」
うっとりと、和紙を手に語る。何かいいなぁ、と僕は思った。僕にはそんな憧れる夢や希望は特にない。もう高校二年生で将来を考えなきゃいけない頃だけど、とりあえず大学へ行こうと、何科がいいかなと、そんな程度だ。しかし、
「人って、見かけによらないとは言ったもんだね」
「それ、どうゆう意味よ?」
バシンッと頭を叩かれる。もちろん、漫才師のように肩の力は抜かれているので、痛くはない。
「いやいや、すごいと思うよ」
「テキトーに言ってんじゃないわよ!」
僕は隣の教室へと逃げた。
戻ると、ちょうど正堂さんが筆を置いたところだった。何を書いたのだろうと気になって、半紙の前から身動きしない正堂さんの側へと近づくと、チラッと覗く。
「これ……!」
僕はガバッと机にしがみつく。ビックリした正堂さんが体をのけ反り、椅子がカタンと音を立てた。
「これって、もしかして……カエル?」
正堂さんは目をパチパチと瞬かせていたけれど、肯定も否定もせず、「どうして?」と、すまし顔で聞き返してくる。
「いや……」
そのカエルは、昨夜の悪夢に出てきたカエルとよく似ていた。でも、カエルなんて誰が描いても似たものかもしれない。って、何でカエルを描いてるのか。あぁ、戯画部だからか。
「どしたの? あんたたち」
背後から明瀬さんの声が掛かり、僕と正堂さんは至近距離に顔を突き合わせているのに気づき、パッと離す。
「あ、美也子、またカエル描いたんだ?」
「やっぱりカエルなんだ」
「カエルが、なに?」
正堂さんが少し気分を害したのか、唇を小さく尖らせた。美人顔なので、そのギャップが可愛いかった。何より、今日初めて僕に言葉を発してくれた。
「いや、このカエル……どっかで見たのと似ていただけだよ」
昨夜、うちの家に現れて動いて喋ったカエルです。とは言えない。
「ほうほう、そりゃあ、そうかもね」
明瀬さんがうんうんと頷く。
「え?」
どうゆう事かと首を傾げているところへ、
──ガラッ
教室の扉が開かれる。
「みんないるかー?」
功兄の声だった。半紙を暖簾のようにくぐり抜けて顔を出す。僕と違って長身の功兄には、天井の高い位置にある半紙はちょうど顔に当たってしまうのだった。
「どうだ? みんな仲良くやってるかい?」
「ハーイ!」
と、元気いっぱいに良い子の返事をした明瀬さんは、
「やーっぱ、似てますね、先生と葛斎くん!」
「そんなにかい?」
「ちょっと、眼鏡取ってみて下さいよー」
「コラ、やめなさい」
二人のやり取りを他の女子が見たら嫉妬しそうで怖いなぁと思いつつ、平気で功兄にじゃれついている明瀬さんにはその気はないとみる。
「兄弟?」
正堂さんがポツリと。
「美也子、知らなかったのっ? 昨日の話、よく聞いてなかったのね、もー。葛斎先生と葛斎くんは、従兄同士なのよ! ね、先生?」
「うん、そうだよ。仲良くしてやってね。先生から言うと、過保護みたいになっちゃうけどね」
「……はい」
と、正堂さんはワンテンポ遅れて返事した。僕と功兄が従兄と知っても、他の生徒達とは少し違う反応だ。何かが引っ掛かった。
「正堂、今日もカエルか? 正堂はこのカエルが好きなんだよな。今日のは少し柔らかい線だね。うん、いいね」
このカエルって、なんのカエルなんだろう。僕はあのカエルが気になって仕方がない。
「このカエルって、なに?」
素朴な疑問を尋ねると、言うかどうかという風に戸惑っている正堂さんの代わりに功兄が答えた。
「このカエルは〝鳥獣戯画〟の登場人物なんだよ」
「鳥獣戯画? 何それ?」
「え、知らないのぉー? 今ちょっとしたブームでグッズなんかも売られてるのよ」
少々呆れている明瀬さんだけど、グッズが売られてるって、雑貨屋とかだろう。高校生男子が一人うろつくコーナーではない。僕が知らないのも無理ない。
「鳥獣戯画は日本最古の漫画ともいわれる国宝絵巻きでね、カエルの他にウサギやサル、キツネなんかが出てくる甲巻をはじめ、乙丙丁の四巻からなっているんだ。平安時代のもので、今のところ天台宗の高僧だった鳥羽僧正の可能性が有力だよ。歴史的にとても奥が深くてね、多くの謎が隠されているんだよ」
「しかも、擬人化なのよねぇー、日本最古にして、今流行りのルーツだなんて! 古今東西、日本人ってオタクぅー!」
あのカエルって、鳥獣戯画だったのか?
でも、なるほど。あの漫画のようなビジュアルと人間臭く喋る理由が分かった。
「正堂さんは、どうして鳥獣戯画を描いて?」
この部は別称・戯画部などと言うし、絵巻の絵を描いていてもおかしくはないのだろうけど、鳥獣戯画を描いているのが気になった。
やや黙った後、
「……ただの恩師の影響です」
「恩師?」
「葛斎先生のおじいさまです」
「え?」
それは、僕の祖父だ。それって……僕は目を大きく開いて、功兄を振り返る。
「正堂は子供の頃に、うちの書道教室に通っていた生徒なんだよ」
「おじいさまは四年前に亡くなられましたけど、その後に葛斎先生と再会して、そのお孫さんにお会いする事になるとは、思ってもみませんでした」
功兄は高卒後は県外の大学へと進学して一人暮らしをしていたし、まだ僕らは小学生だ。もしも、あの家で顔を合わせていたとしても覚えていない確率が高い。それが、こんな形での出会いとは、ちょっと〝縁〟を感じた。運命とまではいかなくとも。しかも、正堂さんは祖父の描く鳥獣戯画を直接見ていたらしい。
「そうだ、教室に使われてた離れを今、片付け中でね。一昨日、祖父の書斎の押入れから大量の絵巻と作品の数々が出てきたんだよ。もしかしたら鳥獣戯画の絵や資料なんかがあるかもしれない。正堂、よかったら今週末にでもうちに遊びにおいで」
「は、はい!」
正堂さんはパッと顔に花咲かせて、大きな声で返事した。そんな正堂さんを僕は今初めて見た。謎のクールな美少女のイメージからがらりと一転。まるで小さな子供が喜んでいる姿だった。
「あたしも! 先生、あたしも行っていいですかぁー?」
「もちろんだよ。林田にも言っておいてくれるか? こりゃあ、おやつを作る腕が鳴るなぁ」
「ちょ、ちょっと」
僕は一人、急展開な話の内容についていけず、置いてかれそうになる。
「あぁ、文也の許可がいるね。構わないか?」
もちろん、駄目だとは言わない。むしろ、正堂さんが僕の部屋同然の離れにやって来る正当な理由が生まれるなんて、願っても無いことだ。
「それはそうと、部活動の方はどうだ? 文也は何を書いたんだ?」
功兄はサッと顧問の顔に戻る。
「コレでーす!」
明瀬さんが意地悪に披露する。あぁ、叱られると思いかけて、つまりカエルなどの絵は許されるのか? この部って? と、やはり風変りな部に対して少々不安を抱かずにはいられない。
「これは……何だろう?」
目玉には見てもらえなかったらしく、
「何に見えますか?」
「わかった、おはぎだね?」
明瀬さんが「あんこだ、あんこー」と腹を抱えて笑い、「違うのか?」と功兄は本気で言っていたらしく、僕は小さく、「目玉です……」下を向いてうつむいた。
読んで頂きありがとうございました!
次話、
カエル以外に、キツネ、サル、ウサギも出てきます。