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最後の契約


夜明け前の聖域は、静寂に包まれていた。


リゼットとノアは、神殿の裏手にある小さな泉のほとりにいた。

契約の儀式から、わずか数時間。


けれど、ふたりの間には、言葉では言い表せない変化があった。


リゼットは、もう迷っていなかった。

ノアもまた、彼女の決意を受け止めた。


ふたりはただ、隣り合って静かに座っていた。


(これで、世界は……変わる)


リゼットはそっと胸に手を当てた。


精霊たちの声が、微かに響いている。

眠っていた命たちが、少しずつ目覚めていく音。


希望の兆し。


だが――


その瞬間。


地響きが、聖域全体を揺るがした。


「……!?」


リゼットは跳ね起きた。

ノアもすぐに剣を抜く。


遠く、神殿の方から黒い煙が立ち上っている。


「来たか」


ノアが低く呟く。


リゼットも、すぐに悟った。


魔族――

この世界を完全に闇に染めるため、最後の一撃を放ちに来たのだと。


ノアはリゼットを振り返った。


「リゼット、ここから離れろ」


「でも――!」


「いいから!」


ノアの声は鋭かった。


リゼットは、悔しそうに唇を噛み締めたが、頷いた。


いま、自分は万全ではない。

無理に戦えば、ノアの足を引っ張ってしまう。


ノアはリゼットに短剣を手渡した。


「最後まで、諦めるな。

 ……必ず迎えに行く」


その言葉を胸に、リゼットは森の奥へ走った。


背後で、聖域が軋みを上げる音が聞こえる。


神殿の広場には、すでに数十体もの魔族たちが集結していた。


巨大な黒い翼を持つ者。

蛇のように地を這う者。

人の姿を模した、だが明らかに異形のものたち。


その中心に、ひときわ異質な存在が立っていた。


漆黒の鎧に身を包み、赤い瞳を燃やす男。


魔族の王、ヴァルゼ。


「ほう……半端者が迎えに来たか」


ヴァルゼは、嘲るように笑った。


ノアは剣を構え、冷たく言い放った。


「お前たちに、この世界は渡さない」


ヴァルゼは、くくくと喉を鳴らして笑った。


「ならば、力で証明してみろ。

 半端者よ、巫子を守れるものならな!」


次の瞬間、魔族たちが一斉に襲いかかってきた。


ノアは剣を振るった。


凄まじい速度。

だが、数が違う。

次から次へと襲いくる魔族たちを相手に、ノアはたったひとりで立ち向かった。


血が飛び、剣が鳴り響く。


だが、ノアは倒れなかった。


彼には、守るべきものがあったからだ。


リゼット。


世界。


未来。


そのすべてを、守るために――。


ノアの剣が閃くたび、魔族たちの悲鳴が木霊した。


しかし、敵は無尽蔵だった。

倒しても、倒しても、次から次へと現れる。


(……くそっ)


ノアは歯を食いしばった。


体は限界を迎えつつあった。

だが、倒れるわけにはいかなかった。


リゼットが、待っている。


必ず彼女を迎えに行く。

その約束だけを支えに、ノアは立ち続けた。


――そのとき。


ヴァルゼが、手を上げた。


「もういい」


命令に応じて、魔族たちが一斉に動きを止める。


ノアは荒い呼吸を整えながら、ヴァルゼを睨みつけた。


「……終わりか?」


ヴァルゼは嗤った。


「いや、ここからだ」


そして、静かに告げた。


「お前は、自分が何者かも知らずに、この場に立っているのだな」


ノアは眉をひそめた。


「……何の話だ」


ヴァルゼは、にやりと笑った。


「お前の中には、精霊王の力が流れている。

 いや――お前は、精霊王が生み出した最後の"希望"だ」


ノアは、一瞬理解できなかった。


だが、ヴァルゼの言葉は続く。


「人と精霊の血を引き、この世界の両方を繋ぐために生まれた存在。

 それがお前だ。

 精霊王の……いや、この世界そのものの代行者!」


リゼットも、隠れて聞いていた。


(……ノアが、精霊王の……!?)


胸が震えた。


確かに、ノアはただの人ではなかった。

剣の技も、精霊を感じ取る力も、異常なほどに高かった。


でも、まさか――。


ノアは、拳を震わせた。


「そんなこと、どうでもいい」


低い声で言い放つ。


「俺は、ただリゼットを守る。それだけだ!」


ヴァルゼは、不愉快そうに顔をしかめた。


「ならば、その命で証明してみろ」


黒い魔力が渦を巻く。


ヴァルゼが、直線的に突進してくる!


ノアは剣を振り上げ、迎え撃った。


鋼と鋼がぶつかる激しい衝撃。

地面が割れ、空気が悲鳴を上げる。


戦いの最中、ノアの体から淡い光が立ち上がった。


それは――精霊の力。


ノア自身も、知らず知らずのうちに目覚め始めていた。


(……俺の中に……こんな力が……)


だが、時間がなかった。


この力に頼りすぎれば、いずれ自分の存在そのものが消えてしまうだろう。


それでも――今だけは。


守るために、使うしかなかった。


ノアは剣を構え直し、再びヴァルゼに向かって走った。


ヴァルゼとの戦いは、激しさを増していた。


ノアの剣筋は鋭く、精霊の光を纏ったその一撃は、

普通の魔族なら触れることさえできなかった。


だが――


ヴァルゼは違った。


「ほう。やるな、半端者!」


魔族の王は、笑いながらノアの剣を受け止める。


圧倒的な力。


ノアの腕が、骨ごときしむ。


(……っ、こいつ、化け物か!)


それでも、後退はしなかった。


リゼットのために、絶対に倒れない。


ヴァルゼが、鋭く叫ぶ。


「だが所詮は、未完成な存在だ!」


黒い力がノアを打ち据える。


ノアは吹き飛ばされ、地に叩きつけられた。


「ぐっ……!」


口の端から血が滲む。


それでも、立ち上がった。


剣を杖にして、ぐらりと揺れながら。


その姿に、ヴァルゼは心底うんざりしたような顔をした。


「なぜそこまでして、あの娘を守る?」


ノアは、荒い息を吐きながら答えた。


「……守りたいからだ」


「理由になっていない!」


「俺の理由は、それだけで十分だ!」


ノアは吠えるように叫び、再び剣を振り上げた。


だが、その体は限界を超えていた。


森の奥。

リゼットは、震えながら隠れて戦いを見守っていた。


(……だめ)


ノアが、倒れる。


このままでは、本当に――。


リゼットは胸の奥から、熱いものが込み上げるのを感じた。


精霊たちの声が、耳元で囁く。


(――選べ)


(――力を解き放て)


リゼットは気づいた。


自分には、まだ手を伸ばせる道があることに。


命を削ってでも、今、ノアを救う道が。


リゼットは短剣を握り締め、立ち上がった。


そして、全力で走り出す。


「ノアぁぁぁぁぁっ!!」


森を駆け抜け、戦場へ飛び出した。


ノアも、ヴァルゼも、リゼットの叫びに驚いて振り向く。


リゼットは、走りながら祈った。


(お願い――力を貸して!)


胸の奥が、燃えるように熱い。


精霊たちが、彼女に応えた。


光が、リゼットの体を包み込む。


彼女自身が、ひとつの精霊のように輝きながら、ノアとヴァルゼの間へ飛び込んでいく。


リゼットが駆け寄った瞬間、ノアは絶叫した。


「リゼット! 来るな!!」


だが、もう止められなかった。


リゼットは、ノアとヴァルゼの間に立ち塞がり、両手を広げた。

まるで、命そのものを盾にするかのように。


「……やめて」


震える声。


でも、その小さな身体から、眩い光が溢れていた。


ヴァルゼは、一瞬たじろいだ。


「貴様、何を……!」


リゼットは、目を閉じた。


そして、心の底から叫んだ。


(――精霊たちよ。

 どうか、わたしに力を!

 この世界を、春へ導くために!)


精霊たちの声が、応えた。


(――共に)


(――共に生きよう)


光が爆発した。


神殿が、森が、世界そのものが、白く満たされる。


ノアは、驚愕の中でリゼットを見つめた。


彼女の体からあふれ出る命の光――

それは、これまで見たどんな精霊よりも、美しく、強かった。


ヴァルゼが、唸り声を上げる。


「ふざけるな……! たかが人間の娘が!!」


魔族の王が、リゼットへと黒い魔力の矢を放つ。


だが――


ノアが、それより早く動いた。


「リゼットを、傷つけさせるか!!」


剣を掲げ、己の命そのものを武器に、

ノアはヴァルゼへと突進した。


衝撃。


光と闇が激しくぶつかり合う。


大地が揺れ、空が裂けた。


リゼットは、ノアの背中を見た。


(……ノア)


必死で、祈った。


(生きて)


(絶対に、生きて――!)


一瞬の閃光。


そして、静寂。


ヴァルゼの黒い影は、ぼろぼろに崩れ、跡形もなく消え去った。


ノアは、剣を支えに、なんとか立っていた。


だが、身体は限界だった。


彼は、リゼットの方を見て、ふっと微笑んだ。


そして――


静かに、崩れ落ちた。


「ノア……っ!」


リゼットは叫びながら駆け寄った。


抱き起こしたノアの身体は、驚くほど軽かった。


彼の命の光も、今にも消えそうに揺らいでいた。


「……バカ……なんで……」


涙が止まらなかった。


ノアは、かすかに目を開けた。


そして、微笑みながら、囁いた。


「……守れた、な」


その声は、かすれていたが、満足そうだった。


リゼットは、必死に首を振った。


「ダメ……ダメだよ……! ノアは、生きて……!」


ノアは、震えるリゼットの手をそっと握った。


「リゼット……

 お前が……未来だ」


最後に、それだけを言って――


ノアの手が、力なく落ちた。


「……いやだ……」


リゼットは、ノアの冷たくなりかけた手を、必死で握りしめた。


「……そんなの、いやだよ……!」


震える声。

止まらない涙。

胸が張り裂けそうだった。


(なんで……ノアが、こんな目に……!)


リゼットの中に、怒りと悲しみと、どうしようもない絶望が渦巻いた。


そのとき――


胸の奥で、精霊たちの声が響いた。


(――リゼット)


(――希望を、諦めるな)


(――未来を、繋げ)


リゼットは、はっと顔を上げた。


自分に、まだできることがある。


それは、ただ泣き崩れることじゃない。

絶望に飲まれることじゃない。


ノアが守ろうとした未来を、

自分が――繋がなければならない。


リゼットは、震える手でノアの胸に手を当てた。


「お願い……精霊たち……」


祈るように、叫ぶ。


「ノアを……生かして……!」


その瞬間。


リゼットの体から、まばゆい光が溢れた。


それは、命そのもの。


リゼットは、自らの命を削り、ノアに注ぎ込んでいく。


精霊たちが、その祈りに応えるように、周囲に花を咲かせる。


雪解けの大地に、次々と小さな命が芽吹いていく。


(生きて)


(ノア……あなたと、これからも一緒にいたい)


ただ、それだけを願って。


リゼットはすべてを賭けた。


やがて、光が収まった。


リゼットは、ふらりと身体を傾け、地面に倒れそうになった。


だが――


その身体を、誰かが受け止めた。


「……リゼット」


微かな声。


リゼットは、ゆっくりと目を開けた。


そこには――


ノアがいた。


まだ弱々しいながらも、確かに生きているノアが。


リゼットは、涙を浮かべて笑った。


「ノア……!」


ノアも、微笑み返した。


「……馬鹿だな。そんな無茶を……」


優しい、怒るでもなく、ただ愛おしそうな声だった。


リゼットは、ノアの胸に顔を埋めた。


「よかった……生きてて……」


二人は、しっかりと抱き合った。


もう、離れないと誓うように。


夜が明けた。


世界は、静かに、生まれ変わろうとしていた。


聖域を覆っていた暗い雲は消え、青空が広がる。

凍りついていた大地には、柔らかな緑が芽吹き、あちこちに小さな花が咲き始めている。


リゼットとノアは、並んで座り、その光景を眺めていた。


互いに傷だらけで、疲労困憊だった。

それでも――


生きて、ここにいる。


それだけで、何よりも尊い奇跡だった。


ノアが、ぽつりと呟いた。


「……お前が救ったんだな」


リゼットは、首を振った。


「ちがう。

 みんなで、救ったんです」


ノアは少し驚いた顔をしたあと、微かに笑った。


春の風が吹き抜ける。


リゼットの髪がふわりと揺れ、ノアの外套がはためく。


世界は、確かに、春を取り戻していた。


それから、二人はゆっくりと村へ戻る旅に出た。


道すがら、リゼットは新たに目覚めた精霊たちと語り合い、

ノアは新たな剣を鍛え直し、ふたりは確かに未来へ歩き出していた。


命を削った代償は、確かにリゼットの中に残っている。


無理はできない。

これからは、穏やかな日々を一歩ずつ積み重ねるだけだ。


けれど、それでもいい。


ふたりは、もう一人じゃない。


支え合い、笑い合いながら、生きていくと決めたのだから。

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