秘密と葛藤
ノアとリゼットは、雪解けの道を北へと進んでいた。
空は灰色に曇り、冷たい風が頬を打つ。
それでも、どこか空気には春の匂いが混じり始めている。
リゼットは、ふと隣を歩くノアの横顔を見上げた。
無口で、無表情で。
それでも、どこまでも真っ直ぐに道を進む姿に、リゼットは小さな勇気をもらっていた。
(……ノアも、きっと不安なはずなのに)
それを決して顔に出さない強さに、胸が熱くなる。
だが、同時に感じる。
二人の間には、まだ越えられない壁があると。
(……もっと、知りたい)
ノアという人を。
この旅を共にする仲間として、支えになりたいと思った。
その時だった。
「この先に、小さな村がある」
ノアが静かに言った。
「休息と、補給をしておこう。聖域までの道は……まだ遠い」
リゼットは頷いた。
食料も、水も、ほとんど尽きかけている。
休めるなら、少しでも体を休めたい。
二人は、道を外れて細い山道へと入った。
そこにあった村は、小さく静かな場所だった。
茅葺き屋根の家々が並び、炊事の煙があがっている。
子供たちが走り回り、老婆たちが機織りをしていた。
(……懐かしい)
リゼットは思った。
故郷の村を思い出す、素朴な風景だった。
村人たちは、見知らぬ旅人を珍しそうに見たが、すぐに受け入れてくれた。
焚き火を囲み、温かいスープを振る舞ってくれる。
「旅のお方かね? まぁ、こんな時世に珍しい」
「北へ? 今は物騒だって話だよ」
老いた男たちが、口々に噂話を始めた。
リゼットは素直に感謝し、ノアも無言で会釈した。
一見、何事もなく穏やかな時間が流れていた。
だが――
リゼットは気づかなかった。
村の片隅に、じっとこちらを見つめる、ひとりの老婆の存在に。
老婆は、よろよろと近づいてきた。
皺だらけの手を伸ばし、ノアの前に立つ。
「……その瞳」
低く、かすれた声。
ノアは無表情のまま、じっと老婆を見返す。
「銀の瞳……
あの方々と同じ色……」
老婆はそう呟くと、ノアの肩に手を置いた。
次の瞬間――
「……精霊の匂いじゃ」
静かな声だった。
だが、その一言で周囲の空気が変わった。
子供たちがぱたりと遊びをやめ、女たちがそっと身を引く。
男たちは眉をひそめ、ざわり、と小さな波紋が広がった。
リゼットは戸惑った。
「ち、違います……ノアは、そんな……」
必死に否定しようとした。
だが老婆は、動じなかった。
「精霊の子か……人の子か……
半端者じゃな」
その言葉に、村人たちの顔色が一斉に変わった。
「異端……」
「災いを呼ぶ者……」
「ここから、出て行け……!」
一斉に、冷たい声が浴びせられた。
リゼットは息を呑んだ。
(どうして……こんな……!)
ノアは、ただじっと立っていた。
抵抗も、反論もせずに。
それが、かえって痛ましかった。
村を追われるように、二人は夜道を歩いていた。
リゼットは悔しさと怒りで胸がいっぱいだった。
(なんで……!
ノアは何も悪いことなんてしてないのに……!)
道端の茂みに隠れるようにして、村人たちが石を投げつける姿。
怯えた子供たちの泣き声。
ノアを異端者と呼ぶ、あの冷たい眼差し。
すべてが、リゼットには耐えがたかった。
一方、ノアは何も言わず、ただ前を向いて歩き続けていた。
その背中が、やけに小さく見えた。
リゼットは、思わず口を開いた。
「……どうして、何も言わないんですか」
ノアは振り向かない。
しばらく沈黙したあと、低く答えた。
「慣れている」
「慣れてるって……そんなの……」
リゼットは拳を握った。
ノアは、こんな仕打ちに、ずっと耐えてきたのか。
生まれてからずっと、誰にも受け入れられず、疎まれて、
それでも黙って耐えて、ひとりで生きてきたのか。
リゼットの喉に、熱いものがこみ上げた。
「ノアは……ノアは、悪くないのに……!」
その声に、ノアはふと足を止めた。
そして、振り返った。
月明かりに照らされたノアの瞳は、どこまでも冷たく、どこまでも寂しげだった。
「……リゼット」
低く、硬い声。
「優しさは、時に毒になる」
「……っ」
リゼットは息を呑んだ。
ノアは、静かに言葉を続けた。
「俺は、半端者だ。
人間にも、精霊にもなれない存在だ。
この世界にとって……ただの、異物だ」
その声には、揺るぎない絶望が滲んでいた。
リゼットは、何も言えなかった。
何を言っても、何をしても――
この孤独を、本当に救うことはできないのかもしれない。
それでも。
「……わたしは」
リゼットは、震える声で叫んだ。
「わたしは、ノアを見捨てません!」
ノアは、驚いたように目を見開いた。
リゼットは続けた。
「だって……わたしは、ノアに守ってもらったから。
わたしは、ノアのおかげで、今ここにいるから……!」
涙が、こぼれた。
冷たい風が頬を撫でる。
ノアは、長い間、何も言わなかった。
ただ、静かに、リゼットを見つめていた。
そして――
「……リゼット」
かすれるような声で、彼は彼女の名を呼んだ。
それだけで、リゼットは胸がいっぱいになった。
言葉はいらなかった。
ただ、二人は、確かに心を通わせた。
夜が深まるにつれ、空気は一層冷え込んだ。
二人は、森の外れにある小さな洞窟に身を寄せた。
焚き火を起こし、わずかな暖を取る。
リゼットは毛布にくるまりながら、じっと炎を見つめていた。
(……わたし、ノアに何ができるんだろう)
どうしても、その思いが頭から離れない。
彼の孤独に、手を伸ばしたい。
でも、それが彼を苦しめてしまうかもしれない。
ノアは、焚き火の向こうで剣を研いでいた。
無言で、黙々と、規則正しい動作を繰り返す。
リゼットは、ふと口を開いた。
「……ノア」
ノアは動きを止め、こちらを見た。
リゼットは、焚き火越しにまっすぐ彼を見つめた。
「わたし、もっと強くなりたい」
ノアの銀色の瞳が、かすかに揺れた。
リゼットは続ける。
「ノアに守ってもらうだけじゃなくて、
わたしも、ノアを守れるくらい、強くなりたい」
その言葉に、ノアは何も言わなかった。
ただ、じっとリゼットを見ていた。
焚き火の炎が、彼の瞳に映る。
揺れる光が、二人の間の空気を、少しだけ温かくした。
しばらくの沈黙。
やがて、ノアはそっと目を伏せた。
「……強くなりたいなら、覚悟がいる」
低く、真剣な声だった。
「君は、これからもっと多くを失うかもしれない。
それでも、歩みを止めるな」
リゼットは、きゅっと毛布を握りしめた。
「……はい」
覚悟は、もうできていた。
この旅の始まりに、もう決めたのだ。
自分の力で、世界を救うと。
家族を、ノアを、守ると。
だから――
どんな苦しみも、乗り越えてみせる。
リゼットは、静かに、でも強く頷いた。
ノアの口元に、かすかに微笑みが浮かんだ気がした。
それはほんの一瞬の、儚いものだったが、
リゼットには、それだけで十分だった。
その夜、リゼットは不思議な夢を見た。
周囲は、柔らかな光に包まれていた。
春の花が咲き乱れ、風は暖かく、草の匂いが漂っている。
目の前に、無数の光の粒――精霊たちが漂っていた。
その中から、一際大きな光が、リゼットに近づいてくる。
(……あなたは?)
リゼットが心で問いかけると、光は静かに語りかけた。
(――リゼット)
(――未来は、まだ定まっていない)
精霊の声は、心の奥に響いた。
(――お前の選択が、この世界を形作る)
リゼットは、そっと自分の胸に手を当てた。
(……わたしの、選択)
怖かった。
たったひとりの選択で、世界が変わってしまうかもしれない。
責任の重さに押し潰されそうだった。
でも。
(――お前は、ひとりではない)
光が、優しく包み込む。
(――手を伸ばせ。信じる者たちと共に)
リゼットは、そっと手を伸ばした。
光の中から、誰かが手を取り、強く握り返してくれた気がした。
ノア。
家族。
精霊たち。
守りたいものすべてが、リゼットを支えていた。
(――行こう)
(――新しい春を、迎えるために)
光の中で、リゼットは静かに頷いた。
「……っ!」
リゼットは目を覚ました。
まだ夜明け前の薄暗い洞窟。
焚き火はかすかに燻り、ノアは静かに眠っていた。
リゼットは、胸に手を当てた。
(……わたし、できる)
まだ怖い。
でも、それ以上に、胸の奥から溢れる強い想いがあった。
守りたい。
未来を、自分の手で選び取りたい。
リゼットは、ノアの寝顔をそっと見つめた。
(……ありがとう、ノア)
あなたがいてくれるから、わたしは歩き続けられる。
小さく微笑み、リゼットは再び毛布に潜り込んだ。
明日も、きっと厳しい旅が待っている。
けれど、それでも――もう、迷わない。
夜明けと共に、空がほんのりと赤く染まり始めた。
リゼットとノアは、再び歩き出した。
冷たい朝の空気を吸い込み、吐き出すたびに、身体が少しずつ目覚めていく。
リゼットは、心の中にまだ残る夢の感触を確かめながら、ノアの隣を歩いた。
(……大丈夫。私は、一人じゃない)
そんな確信が、今は胸にあった。
だが、平穏は長く続かなかった。
森の奥から、ぴたりと空気が重くなる。
リゼットも、ノアも、同時に足を止めた。
「……来たな」
ノアが、剣に手をかける。
現れたのは、黒衣を纏った数人の影。
昨日、村を追われたときに遠くに見た者たちと、同じ気配だった。
魔族――精霊たちを狙う、闇の使徒たち。
リゼットは、ぐっと拳を握った。
もう、守られるだけではいけない。
自分も、戦わなければ。
ノアがリゼットに低く囁いた。
「リゼット、絶対に離れるな」
「はい!」
リゼットは頷き、ノアの背中を追った。
敵はすぐに襲いかかってきた。
ノアの剣が閃く。
リゼットも、懸命に精霊たちに呼びかける。
(お願い、力を貸して――!)
リゼットの周囲に、淡い光が集まる。
精霊たちが小さな盾となり、魔族の攻撃を防いだ。
「な、何だこの光は……!」
敵のひとりが狼狽する。
リゼットは震えながらも、一歩前に出た。
「この世界を……渡さない!」
力強く叫ぶ。
ノアが振り返り、わずかに笑った。
その瞬間、ふたりの間に確かな信頼が芽生えたのを、リゼットは感じた。
彼女はもう、守られるだけの存在ではない。
共に戦う仲間なのだ。
戦いは、短く、激しかった。
ノアの剣は正確無比で、敵の動きを封じ、リゼットの精霊の光がそれを支えた。
やがて最後の魔族が逃げ去り、森には再び静寂が戻った。
リゼットは、その場にへたり込んだ。
体中が痛い。呼吸も荒い。
けれど――
胸の奥には、確かな手応えがあった。
(……わたし、できた)
小さな一歩かもしれない。
でも、たしかに自分の力で、戦い、守ったのだ。
ノアが、ゆっくりと近づいてくる。
剣を納め、リゼットの前に膝をついた。
「怪我はないか」
その声は、いつになく柔らかかった。
リゼットは、必死に笑って答えた。
「だいじょうぶ、です」
ノアはリゼットをじっと見つめた。
銀の瞳が、静かに揺れている。
「……強くなったな、リゼット」
リゼットの胸が、じんわりと温かくなる。
ノアが、わたしを認めてくれた。
それだけで、涙が出そうだった。
リゼットは、そっとノアに手を差し出した。
「……これからも、一緒に、歩いてくれますか?」
震える声だった。
でも、そこには迷いはなかった。
ノアは一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、微笑んだ。
ほんの、ほんのわずかに。
それは、これまでで一番、自然な笑顔だった。
ノアはリゼットの手を取った。
「もちろんだ」
しっかりと、温かく、力強く。
二人は立ち上がった。
森を抜け、北へ――聖域へ向かうために。
小さな絆を胸に抱きながら。